某月某日 グロはマニンゲンに蘇るのか?
血とかナイゾウとかの表現があります、すみません。
ここのところごく平和に、牧歌的に過ごしておりましたよ。
なんだ、オイラもごく普通の一般人、単なる小市民、家庭的瑣末事を愛し、酒を愛し、ゴミはちゃんと分別し、約束ごとはギリギリの線で守り、人当たりはよくその日その日をそれなりに過ごす。
嗚呼、素晴らしき哉生きること。
どこにエログロナンセンスのつけ込む隙があろうか。
と、漠然と感じていたつい昨日、中学3年の小僧が青い顔をして帰宅。
すぐうちの近所で、猫の轢死体を目撃してしまったのだと。
まあ、轢死というからにはそれなりの要素があってそう判定されるのでしょうが、今回、彼を打ちのめしたポイントは目玉と小腸、そしてべっとりと拡がる赤い溜まりだったそうで。
血が特に嫌いな彼は、思い出すたびに吐き気が、としばらくその気分を引きずっていた。
我が家の犬猫、そして人員に同じような要素があるのを、そして同じような可能性を持つことに思い至り
「事故、怖いよなー」と呟いている。
事故に限らず、突発的な出来事によって無残に奪われる命についてしばし黙考。
誰しも基本的には死にたくない、生命活動は継続させたい(もちろん自殺願望のある方も。しかしそれについてはまた別の機会に)。そして、愛する者をしなせたくない、という欲求も。
スティーヴン・キングの『ペット・セマタリー』というお話には、もろ、愛する者に訪れる『無残な死』に対抗しようと空しい努力を続ける哀れな人間が登場する。
すでに生命活動を終えて、見た目にもグログロと死んでます状態の『モノ』が、過去に愛情を注いでいた『者』にどうしてもリンクしてしまう。誰しも陥りやすい罠、かつての彼らとの絆を分かりやすい物に置き換えて、そこにたち還ろうとする愚者を、笑える人は多分、誰もいない。
この作品を読んだり映画をご覧になった方の中には、『惑星ソラリス』を思い出した方もいらっしゃったのでは?
この場合は、『物』から『者』へ、ではなく『異種生物』からの再生と言えるのかも知れないが、それでもごく近しい者への哀惜の念はいつの時代、どこの世界でも普遍のテーマたりうる事象なのでしょうね。
だからこそ、現代の医科学がどこまでも『生命』に切り込むのをみていると、オイラはどうも、うすら寒くなってくるんだよねえ。
iPS細胞とか、クローンとかいいね素晴らしいね、人間はどこまでも取り返しがつくようになるのかもね、ともろ手を挙げて歓喜する、というのにどうも抵抗がある。
ある意味、飛び出した目玉やはみ出した小腸よりも、オイラにとってはグログロと思えてしまう時が。
そんな事言ってるから、ばかなんだろうけど。でもちょっとばかな自分も可愛い。治らないところも。