衝撃の出会い(後編)
「ああ、あぁ」
体の震えが止まらない。大好きだった先輩の亡骸を目にして、花音はその場に立っていることができず尻餅をついた。冷たい床を手のひらで感じながら、綾小路を殺した少年を見上げる。
「い、いやぁ、あぁ」
殺される。黒い液体でべったりと濡れた宇津木の右手。それは今人の命を奪ったばかりの凶器で、次のターゲットは自分だと花音は信じて疑わなかった。冷静に判断する能力があれば殴られた程度で頭など吹き飛ばないとわかったはずなのにそこまで考えが及ばなかったのだ。
「ウツキさん!」
恐怖の対象である彼の名を呼んだのは突然教室に現れた少女だった。廊下を必死で走って来たらしく彼女の息は乱れている。花音と同じセーラー服姿のどこにでもいそうな平凡な少女はいつか図書室で宇津木の隣に立っていた人物だった。
「まだ死んでない。急いでこの教室囲って」
やってきた少女に驚くこともなく淡々と宇津木は指示を出す。
「はい、任せてください」
こくりと少女は頷くと、その身体は一気に膨張した。そう表現するしかなかった。その手も、顔も、足も、セーラー服さえ、一瞬で黒に変化し教室全体に広がる。気が付けば机や椅子が置かれた場所と花音や宇津木そして死体になった綾小路を避けるように黒い空間が完成していた。窓や黒板などは発見することができず、ドーム状の闇が全てを覆っている。
茫然とする花音を無視して、宇津木はもう動くことのない綾小路の傍に近寄り右腕を振り上げた。ぐしょり、ぐしょりと、首の部分から下へ向かって身体を潰していく。宇津木の拳と綾小路だったものが接触する度に白い火花のようなものが飛んだ。
『好きです! 綾小路先輩のことが、好きなんです!』
『好きだよ。俺も花音のことが好きだ』
あんなに近かった、熱を感じた、生きていた先輩が、もう別の物体に変化していた。今までの日常はどこへいってしまったのだろうか。あまりの出来事に目を塞ぐこともできず、瞳からはぽろぽろと涙が溢れた。
「あんたは泣くべきじゃないな。オレが助けに来てやったんだから」
冷たい、感情のこもらない声。
綾小路を殴りつける、という『作業』を宇津木はやめようとはしない。
「こいつと会ってからの日常は残念ながら全部ウソだ。学校の人気者、顔も良い、お前に興味を持って好きになった過程も、ウソ。嘘、嘘、嘘。何もかも偽りだ」
もう、身体は下半身しか残っていなかった。
「見ろ」
黒く汚れきった自分の右腕を、宇津木はこちらに突き出す。
「こいつの正体はこんなものだ。目が覚めたか?」
そういえば、なぜ綾小路の血は赤くないのだろう。血液が黒く見えることがあるとはいえ、あまりにも黒すぎる。どろどろの濁ったものは微かに動いていた。
花音は無意識に身体を引いていたらしく、どんっと後ろのロッカーにぶつかってしまう。その拍子に頬に付着していた黒い泥に似た液体が床に落ちる。
それ、の動きは早かった。
泥状の物は床に触れると、吸い寄せられるように綾小路の残りの部分へ向かっていく。
「そこか!」
宇津木が手を伸ばした。しかしその行動は間に合わなかったようで、手を振り下ろした場所にもう目的のものはなかった。
「あーあ。せっかくいいところだったのに」
いつもと変わらない大好きな声。けれどもう先ほどのようには喜べない。
「あ、綾小路、……せん、ぱい」
何事もなかったかのように綾小路はそこに立っていた。女子たちを魅了したその笑顔も、触れてくれた手も、見る限りでは花音が恋した先輩と違うところは一つもない。背景の黒い空間さえなければ絶望的な先輩の最期は夢だと思えるほどだ。
「残念だよ、花音。もうちょっとで君を食べられたのにね」
「……は?」
本当に夢ならいいのに。告白した時の先輩と何一つ変わらないことが逆に怖かった。無邪気ないつもの雰囲気で花音に笑いかける。
「お腹へったなぁ。早くここから逃げて次のごはんを探さないと」
彼はどうしてしまったのだろう。生きていたことに素直に喜ぶことができず、花音はその場に座り込んだまま動けなかった。この状況を現実として受け入れることがどうしてもできない。
「探しに行かれては困るな」
駆けだした宇津木は勢いよくその右手を綾小路に叩き付けた。白い火花が弾ける。
宇津木は休むことなく蹴りを繰り出しそれは見事に相手の脛に命中した。
「くっ」
綾小路がバランスを崩した。ゆっくりと倒れる彼と、花音の視線がぶつかる。
余裕たっぷりの顔が変化した。泣きそうな、悲しそうな、その表情。
「ち、が、俺じゃ、ない」
床とぶつかるように倒れた綾小路は、身体を丸めて悲痛な声をもらす。苦しげに息を吐いて、花音の方へ手を伸ばした。
「違うんだ、あいつは……俺の身体を勝手に」
「くだらない演技はやめろ。虫唾が走る」
白っぽく輝く右手を振り上げて、宇津木は綾小路の身体を潰し始めた。拳が振り下ろされる度に悲鳴が上がる。それが自分の声なのか痛めつけられる先輩の声なのかよくわからなかった。
「……花音、花音っ!」
視界が歪む。透明の滴が床にぽたぽたと吸い込まれる。愛おしいあの人が助けを求めている。それを無視して宇津木は彼の左腕を殴りつけた。黒いものが飛び散って色んなところを汚していく。首、肩、胸、綾小路の身体はどんどん減っていく。
「せん、ぱい」
図書室で話すようになってからの日々がフラッシュバックする。先輩の少し動いた口元から音は聞こえなかったけれど花音にはわかった。
『……助けて』
ごくりと唾を飲み込む。
恋した人は何か悪いことに巻き込まれている被害者であって、宇津木にここまでされるような存在ではない。頭が吹き飛ばされた後に笑顔で立ち上がった時、正直怖いと思った。しかし、そのとき感じた狂気が今はどこにもなかった。ただ必死に、助けてほしいと花音にすがる。
宇津木は全てウソだと過去を否定したけれど、どうしても花音は希望が捨てられなかった。
「お願い! やめて! 先輩は悪い奴に操られているだけで、いい人なの!」
宇津木の腰に手を回す。抱き着いてその行為をやめさせようと花音は必死だった。
「おい、バカっ! やめろ!」
ばたばたと宇津木が暴れる。思っていたよりも華奢な身体に疑問を感じながら、花音は押さえつける力を強めた。その隙に綾小路はよろよろと立ち上がり、宇津木から距離を取った。
「ふ、あは、あはははは、あはははははは」
その場に似合わない高笑い。
「ありがとう、花音。さすが俺が選んだ女の子だよ」
今日何度潰されたかわからない綾小路の身体は、どこも欠けていなかった。背の高い、女子生徒憧れの素敵な姿のままで、彼は醜く笑っていた。
「まだ俺に対する気持ちが残っているんじゃないかと思って試してみたけど、すごいね、そんなに俺のこと好きだった?」
先輩と同じ顔で花音の心を抉るのは、いったい誰?
「あーでも、気を抜きすぎたかな。こんなに身体をぼろぼろにされたのは久しぶりだよ、宇津木くん?」
綾小路の右手が黒く変色したかと思うとそれはものすごい速さでこちらに向かってきて、宇津木と花音の身体を黒い壁に叩き付けた。衝撃で一瞬呼吸が止まる。
「はっ、ぐ」
先ほどまで優位に立っていた宇津木はぴくりとも動かない。頭を思いっきり打ちつけたためか、焦点が定まらない。教室がぼやけて綾小路の姿が何重にも見える。
「先輩、せんぱい、お願いです。……元の優しい先輩に……戻ってください」
「戻る?」
心底わからないという顔の綾小路。やっと見えた希望さえも、信じている大好きな人によって壊されようとしていた。一番、否定してほしくない人に。
「あれはね、演技してたんだよ。花音が望む姿、言葉、態度で接してたんだ。だから戻るも戻らないもなくて、……これが本当の俺」
ひとつひとつ積み重ねた幸福が崩れていく。共にその幸せを作ったはずの先輩が、残酷な真実を振りかざす。壊される。崩壊する。思い出の中の笑顔に亀裂が走る。
「今まで一緒にいられて幸せだったよね? だからあんなにおいしそうな香りがしてたんだよね? 君の心は満たされて、ようやく食べられると思ったんだよ?だけど邪魔されちゃった。花音のことは諦めて、別のごはんを探しに行くことにするよ」
綾小路は、じゃあ、と帰り道で分かれるようにあっさりと手をふって、花音たちを押さえつけていた右手を離した。宇津木も花音も教室の床に倒れこむ。
「でさ、出してくれないかな? 聞いてるよね? ねえ?」
黒いドーム状の壁に向かって綾小路は呼びかけた。ノックするように何度か叩き、何かをぶつぶつと呟く。
「だめ? てか何で人間の味方してるの? 意味わからないんだけど」
その質問に誰も答えない。誰も言葉を発しない。
「無視? ねえ無視ですかー?」
闇色の壁に背を向けて、綾小路はこちらに視線を戻した。正しく言えば、花音の傍で倒れている宇津木をじっと見つめている。
「気絶しちゃったみたいだし、もういいかと思ったけど、やっぱり殺そうか」
その一言で、暗いドーム状の壁が波打った。
「あ、やっぱり嫌? じゃあここから出してよ、そうじゃないと宇津木くんのことぐちゃぐちゃにしちゃうよ。ただ殺しても面白くないよね。身体の端から潰していこうか? 俺もされたしさー、別に死なないけどすっごく痛いんだよね、あれ、……あれ?」
綾小路の動きがぴたりと止まる。その理由はすぐに判明した。顔の左半分が欠けていたのだ。彼が背にした黒い壁から同色の人の腕が突き出して、それが彼の顔を抉ったらしい。存在しない顔の部分からはぼたぼたと黒い液体が落ちて彼の制服を汚していた。
「……おかしいな?」
綾小路の身体がぐらついく。
「おい、誰が誰を殺すって?」
低いその声に思わず身体がびくりとはねる。気絶していると思っていた少年はゆっくり立ち上がり、ニヤリと笑った。
「そんな状態じゃ、誰も殺せないだろうな」
一歩、一歩、綾小路の元へ宇津木は近寄っていく。
綾小路の左目の辺りから飛び出した漆黒の腕は何かを掴んでいた。そっと握られた黒い指は開き、その下に手を伸ばしていた宇津木の元へ何かが落ちる。
ビー玉に似た黒い球体。
「や、やめろ」
震えた声で、綾小路が首を振る。そのせいで黒い液体が飛び散った。
「いぁ、嫌だ、い、い、嫌」
宇津木は闇を固めたような玉をきゅっと握りしめる。
「あ、いや、やめ、てぇ」
何度も見た白っぽい光が少年の手を覆った。
「あ、あぎぃ、い、いや、あ、ああああああああああああ!!!」
ぱりんと、弾ける音が終わりの合図だった。
耳障りな先輩の声が止まる。風船のように綾小路の身体は膨らんで、そして風船の定めのように割れた。内側から黒いものが噴き出して、同時に空気へと溶け込んでいく。
「せ、せんぱ、い」
結局、自分にはどうすることもできなかった。中途半端に怯えて助けようとして、そして目の前の光景をただ眺めているだけ。こんなとき物語の主人公なら何をなしたのだろうか。心の奥底に眠る力が覚醒して、大切な人を守り切って、そしてもとの日常に戻れたのだろうか。
「せっかく助けにきてやったのに、邪魔しやがって」
不満げな宇津木の舌打ちが静かな教室でははっきり聞き取れた。
いつのまにか教室から闇は消え去り、窓からは夕焼け色に染まった空がこちらを見下ろしている。生徒たちの談笑が廊下から響く馴染のある放課後へ帰ってきたというのに、花音はそれがとても遠くのことのように感じていた。
「ウツキさん」
教室が黒い空間になってからどこかに消えていた少女がいつのまにか現れていた。
「お怪我はありませんか? どこか痛いところは?」
少女は心配そうに顔を歪めながら宇津木の身体を探っている。
「心配いらないよ。何ともないから」
さて、と呟いて花音のほうへ宇津木は視線を向けた。
大好きな先輩を目の前でぐちゃぐちゃにした少年。ぐちゃぐちゃにされながらも元の姿に戻り結局は消えてしまった先輩。わずかな時間の間に、花音の平凡な日常はあっさりと崩れてしまった。何を信じていいのかこれからどうすればいいのか、混乱した頭を何回も左右に振る。
「嫌だよ、どうして、こんな」
つまらないモノクロ日々を色付けてくれるような出来事を期待していた。綾小路が図書室に現れた日から素晴らしい毎日が始まったと思っていたのに。
「やめて、よ、いや」
今日何度目かの涙が頬を伝う。この訳の分からない感情をどうにかしたい。宇津木にぶつければすっきりするのか、でもどうやって。 花音はただ泣くしかなかった。
「綾小路は『心喰』という名の化け物だ」
アヤノコウジハ、シンショク、トイウナノ、バケモノ、ダ
それは言葉ではなく、音として花音の中に入ってきた。
「あいつらは幸福で満たされた心を食らう。心に隙間のある人間のところにやってきて、望みどおりの行動をして心が満たされ食べごろだと判断した時に、ぱくりと」
ぽん、と頭に手を置かれる。その先は言われずともわかってしまった。
怒りも悲しみもその瞳からは読み取れない。宇津木はただ事務的に花音に何が起こったのか説明を続ける。たしか図書室で仕事をしているときもこんな感じだった。
「つまり『綾小路』なんて人間はこの学校に存在しない。あいつが都合のいいように作り出したキャラクターだ」
存在しない? わかっていたことだ。それでは改めて突き付けられるのは辛かった。
「学校の人間全員なんてとんでもない数の記憶を操作して、ここを長い間餌場にしてたんだろうな。で、何番目かは知らないがお前が狙われたわけだ」
「……私、騙されてたんだね」
「ああ」
「幸せな恋をしたかっただけなのに、どうして、こんな……ことに」
爪が食い込むほど手を握りしめる。好きだった、幸せだった。だけどそんな気持ちは今日どこかへ行ってしまった。あれだけバカみたいにはしゃいで楽しかったのに、嬉しかったのに、この思い人は人間ではなかった。
「幸せな恋なら勝手にやってくれ。あんたには未来があるだろ」
花音の額部分に置いた手でぽんぽんと軽く叩かれる。視界が、滲む。やっと乾いてきた涙が復活してしまったのか。ぐらぐらと身体がゆれて座っているのもきつくなる。どうしてなのか、眠い。こんなときに、睡魔と闘っている場合ではないというのに。
「この程度の説明で申し訳ないけど納得してくれ。むしろオレの邪魔をしたんだからこれだけ教えてありがとうございます、ぐらい言ってほしいけどな」
だんだんと手の向こう側に見える宇津木の顔が白くなっていく。いや宇津木だけでなく、机も黒板も天井や床まで、白いもやみたいものに覆われていく。
「じゃあ、ポチ、あとは頼むぞ」
「お任せください」
学校指定のセーラー服を着用した平凡な顔の女子生徒がこちらを覗き込む。
そこで―――――……ぷつりと意識が途切れた。
「あの、すみません。起きてください!」
地面が揺れる。立っていられないほどだ。いや、自分は今立っているのだろうか。それすらもわからない。
「困ります! もう閉める時間なんですから!」
いや、揺れているのは自分だ。肩のあたりに手を置かれ、揺さぶられているのだ。気分よく寝ていたというのに邪魔されてしまった。
「…………おきたく、ない」
「そんな……もう図書室閉めたいんですけど!」
図書室、その単語でなぜか花音の意識は急にはっきりした。とても大切な場所だったような気がする。誰かと毎日ここで語らっていたような。
「ごめんなさい、もう出ます」
隣の椅子に預けていた鞄を持って立ち上がる。眼鏡の大人しそうな少女がほっとした表情で道を開けてくれた。図書委員の子なのだろう。早く仕事を終わらせたかったのに申し訳ないことをしてしまった。しかし、少しの違和感。
「あのさ、昨日って図書委員は男の子じゃなかったけ?」
「いえ、昨日も私でしたよ? 今月の図書室の管理はうちのクラスなので、私以外の図書委員は来ないはずですけど」
「……そっか」
どこか釈然としないまま図書室を出る。窓から入ってくる夕焼け色の光が花音の歩く廊下をオレンジ色に染めていた。
「ウツキさん、こんなところにいたんですね」
学校の屋上からグラウンドを歩く花音を見つめていた女は、急に声をかけられて驚くこともなく振り返った。その先にいたのは、若草色のワンピースを着用した、4、5歳ぐらいの女の子である。大きな黒い瞳と、同色の腰ほどまでに伸びた髪、日に焼けていない白い肌、細い手や足、美しいものを神様がひとつひとつ繋ぎ合わせたような、完璧な姿だった。
成長後はとんでもない美人になるに違いない。だが残念なことに、それは無理な話だ。
「ポチ、全部終わったのか?」
「はい、記憶操作は終了しました。あとはもう帰るだけです」
「そう」
女――……ウツキは学校を去る花音に視線を戻した。もう男子用の学生服姿ではなく、白いシャツと黒いズボンといういつもどおりの恰好だ。
「花音さん、次は幸せな恋ができますかね?」
ポチ、と呼ばれた女の子はウツキの隣に並んで花音の姿を目で追う。
「さあ、そんなもん知らん」
「そんなこといって、心配なくせに」
くすくすと笑われて、少しむっとした。
屋上にふいた風がポチの艶やかな黒髪とワンピースを持ち上げる。ふわふわと漂うそれらは遊んでいるようで、こちらを少しバカにしているようにも見えた。いや、考えすぎだろうか。
「それにしても、あの心喰の核が左目にあるってよくわかったな」
気持ちを切り替えるために話題を変える。自分になにかあってもポチが何とかするだろうとは思っていたが、ああも簡単に弱点を発見するとは思っていなかった。
「よく見ないとわからないんですけど、右目と左目、微妙に色が違ったんですよ」
そう答えるポチはどこか嬉しそうだ。
「左目の方が紫っぽいていうか……ほら、心喰の核は体内にあるより外界と接している方が能力を使いやすいじゃないですか。それで、あれは目じゃなくて核なのかな、と」
何かを期待するようにポチはこちらを見上げる。そんなものは存在しないのに、ピンっと立った犬耳と、ぶんぶんと振り回す尻尾が見えた気がした。まだ犬だったときの癖が抜けていないのだろうか。それともこれがポチの本来の姿なのだろうか。
「……えらぞ。よくやった」
左手で頭をなでてやると、気持ちよさそうに目を細める。これが猫だったらごろごろと喉を鳴らす音が聞こえただろう。美しい少女が陶酔しきった表情はどこか色気を感じさせる。頬を赤らめ、「もっと」とねだるのは反則だと言いたい。
「おい、もういいか?」
しばらく頭をなでさせられて、さすがにめんどくさくなってきた。ポチが何かを言う前に手をどけると、不満そうな顔で睨まれる。
「たりません」
「十分だろ、もう帰るぞ」
下へ降りるための非常用階段を使おうとして歩き出すと、ポチは校舎の中へと入るためのドアへ駆けていく。いつのまにかその姿は若草色のワンピースから、セーラー服へと変化していた。身体も幼いものではなく、高校生ぐらいのどこにでもいそうな少女になっている。
「どうした、一緒に行かないのか?」
「もう来ることもないだろうし、学校の中をゆっくり見学してから帰ります」
この学校に潜入するために化けた女子生徒姿になったポチは、階段を下りて校内に消えていった。着替えてしまったウツキはそれに付き合うわけにもいかず、外に設置された階段を下りていく。太陽がわずかに顔を出し強く輝く様は、やってこようとする夜と必死に戦っているようだった。
『心喰』という化け物がいる。
人や動物などの様々な物に化け、心の弱った人間に近寄ってくる。
そして、望む通りのことをして人を満足させては、その心を食らう。
心を食らわれた人間は目覚めることのない眠りに落ちる。
『心喰』と戦う人間がいる。
これは、その戦う人間であるウツキと、心喰の、物語である。