衝撃の出会い(前編)
残念ながら恋愛小説ではございません。残酷な描写が苦手な方は今のうちにお逃げください。
地味で、可愛くなくて、年齢イコール彼氏いない歴でも、絶対に素敵な出会いはやってくる。そう信じているからこそ、こんなつまらない学校でも毎日来ている。
『どうして、私なの』
『面白いって思ったのがきっかけだった。それからお前のことを知るたびにどんどん好きになって』
『…あ』
『なぁ、俺ばっかり言わせんなよ、お前はどう思ってるんだ、俺のこと』
そこまで読んで、花音はぱたんと本を閉じた。
「何か、ご用ですか?」
不満を表情に出さないように気を付けて、近づいてきた少年を見上げる。図書室で大人しく恋愛漫画を読んでいたのに邪魔しないでほしい。読書中に自分の半径3メートル以内に他人が入るのは不愉快だ。
「もう閉める時間なんだけど。鍵かけていいかな?」
机を挟んで立っていたのは図書委員で同じクラスの宇津木だった。少しイライラしたように、彼は指先で鍵をくるくる回す。
「ああ、ごめん」
ここで反抗したところでどうにかなるわけもない。手に持ったままだった漫画を鞄に入れて、大人しく図書室を出ていくことにした。
夕焼けでオレンジ色に染まった道をゆったりと踏みしめて家を目指す。穏やかな空気とは裏腹に花音の心の中はもやもやしたもので溢れていた。
普段は教室の隅で目立たずに過ごす主人公の少女とそんな彼女に興味を持ったイケメンのクラスメイトがなんやかんやあって付き合うことになるラブストーリーの一番肝心な部分だったのだ。顔は残念だし、人付き合いは苦手だし、地味で、教室でやっかいもの扱いされている自分と主人公を重ねてあの物語を読んでいた。どきどきしっぱなしでページをめくっていたのに、宇津木のせいで中途半端に話が途切れてしまったのだ。こうなったら家に帰って1ページ目からあの甘い雰囲気を体験しなおすしかない。花音はそう決意してぎゅっと鞄の持ち手を握りなおした。
翌日。
付き合うことになった2人のラブラブデートの様子を読みながら、放課後の図書室で花音はにやけていた。
「あー、早く私も恋愛したいなー」
本音がぽろりと口から漏れる。そう、どんなに地味な自分でもカッコいい彼氏は待っていればできるものである。普段の何気ない行動をイケメンが面白がって、主人公に付きまとってくるのだ。そんなお約束な展開を花音はいつも待ちわびていた。
「『あんたになんか、興味ないわよ!』『へぇ、俺に好意を寄せない女なんてお前が初めてだ』」
図書室に誰もいないことをわかっていて、別作品の会話を一人で再現してみる。
いい。すごく気分がいい。
運命のイケメン。花音はただそれだけを待ち望んでいた。
名前ほど可愛くない自分を愛してくれる、すてきな美男子。お金持ちで、『俺の隣に立つんだ。綺麗にしてやるぜ』とか言っちゃってドレスとか買ってくれれば最高だ。あと、イケメンに惚れられたことで嫉妬した女たちからいじめられて、『おいお前ら二度とこんなことするなよ。次に俺の女に手を出したら絶対に許さねぇからな』とか、妄想はなかなか止まらない。
「うへへへへへ」
気が付けば、顔は緩んで腑抜けた笑い声が漏れていた。
油断していたのだと思う。
素敵な出会いというものはこんなに近くまで迫っていたのに。まず、目に入ったのは茶色く透き通った綺麗な瞳。
「それ、何の本?」
世界が一瞬にして美しく見える。ありふれた図書室がまるで神聖な空間のようだった。窓からやってきた風が細い彼の髪を揺らす。
すっと伸ばされた長い指先が、花音の欲望に塗れた漫画本に触れそうになる。
「な、っとぅ!?」
慌てて本を自分の体の後ろに隠した。さすがにこれを見られるのは恥ずかしい。
「あ、あなたは…」
そう、周りに興味のない花音でも知っている有名な青年。学年が二つ上で、テニス部に所属していて、明るくて人気者、そして女子生徒に大人気のとんでもないイケメン。
「綾小路、せん…ぱ……い」
予想していたよりも、ずっと上の相手。
というか、声をかけてもらえるだなんて想像していなかった王子様だ。
「そうだよ。綾小路だけど」
昨日、図書委員の宇津木が立っていた位置で、宇津木とは全く違う容姿でそこに彼は立っていた。
「今の声、くっあはは、納豆? 驚いて納豆って」
口を押えておかしさを堪えようとしているようだが、綾小路の目元には笑いすぎたせいでうっすらと涙が浮かんでいる。驚いたからとはいえそんな変な声をあげてしまった少し前の自分を恨む。花音は顔を真っ赤にしていた。恥ずかしい。こんな取り乱した状態で出会うはずではなかったのに。
「あの、……今のは驚いたせいで、別に納豆とか言うつもりもなくて…」
「面白いね、きみ名前は?」
赤く染まった頬を隠すように手で押さえながら、花音は答える。
「……花音です」
「本人とそっくりで可愛い名前だね」
嬉しすぎて爆発するかもしれない。自分の体中の熱が顔に集まっているような気がした。
「ねぇ、花音」
「おはよう、花音」
「俺と一緒に帰ろ?」
王子様のような先輩と出会った翌日から、頻繁に彼から声をかけてくるようになった。ただの興味だったのかもしれないがそれでもいい。今まで淀んだ沼の底みたいな人生を歩んできたのだ。こんなありえない幸せを楽しんだって構わないだろう。夢の中にいるようなふわふわした毎日を送りながらも、彼が触れてくることでこれは現実なのだと気分は高揚する。
「……綾小路先輩」
「ん? どうしたの?」
彼と初めて喋ったあの日と同じ図書室でのんびりとした放課後を過ごすのが最近の日課だ。
「私といて、つまらなくないですか?」
エマソンやソローといった単語が並ぶ本に視線を向けていた綾小路が顔を上げる。彼が読んでいるのはいつも哲学の本で花音には難しくてよくわからなかった。
「つまらなくないよ。俺が一緒にいたいから、花音といるんだ」
その一言で胸がきゅんとなる。いつも読んでいた少女向け小説や漫画のように、花音もこの先輩に恋をしてしまったらしい。どくん、どくんと脈打つ心臓をどこか自分のものではないように感じる。紙だけでは理解できなかった恋心とはこんなものなのか。
「花音は?」
「え」
「俺といるのは嫌?」
「い、嫌じゃないです!」
むしろあなたといる時間が大好きです。そう伝えられたらどんなに楽か。言いたい言葉を飲み込んだことに少し安堵して、後悔した。
自分に微笑みかけてくれるたびに、「好き」の気持ちは積み重なっていく。けれど関係は変わらない。ただの先輩と後輩のままで、それが心地よくもあったし苦しくもあった。
「……でも、私といるより、他の可愛い先輩たちといたほうが、楽しいんじゃないかって……思って」
「そんなことないよ。花音の隣にいるときが一番落ち着くし、楽しい」
「なっ」
不意打ちだ。夕焼けを背中に背負って微笑む先輩の威力は抜群だった。この笑顔を向けられている相手が自分なのだと思うとどうしようもなくはしゃぎたくなった。
「あれ? 今回は『納豆』って言わないんだ?」
「い、い、いつの話をしてるんですか!? 忘れてください!」
こうやって2人でいつまでもいたい。冗談で笑い合って、時々本の話をして、下校は2人っきりで、いつまでも、いつまでも。
「いつまでいるの? 時間だし、鍵閉めたいんだけど」
花音のピンク色お花畑空間を邪魔したのは、図書委員の少年だった。
「……宇津木君」
「あ、ごめんね。すぐに出るから」
綾小路は年下の宇津木の態度に嫌な顔一つしなかった。手早く本を鞄に詰め込んで、花音の方を振り返る。
「花音、途中まで一緒に帰ろう」
「……はい!」
迷うことなく返事をして花音は大好きな先輩の後を追う。ちらりと振り返った図書室には、いまいち何を考えているのかわからない宇津木と。
「……あれ?」
その宇津木の横に制服姿の少女。
(さっきまで、あんな子いたっけ?)
廊下の角を曲がったところでその姿は見えなくなって、花音は考えるのをやめた。
急に現れた少女を気にするよりも、目の前を歩く先輩の方が大事である。幸せいっぱいの帰り道を思うと自然と口元が緩んだ。
それからまた数日経過して、予想はしていたけれど歓迎できないイベントがやってきた。
「あんたさぁ、最近綾小路君とべったりで腹立つのよね」
「急に何なの? 彼女でもないくせに!」
「はっきり言ってウザいんだよ。綾小路君の前から消えてくれる?」
お約束である。
定番である。
花音と綾小路の仲を嫉妬した女子たちに花音は囲まれていた。
授業が終わり教室を出たところを捕まって空き教室へと連れて来られたのだ。
物語で何度も出会った場面だったがその主人公の立ち位置に実際自分が立ってみると、想定していたよりもずっと怖いものだと初めて知った。普段は愛想がよくて可愛らしい女の子たちが、顔を歪め悪鬼のような形相でこちらを睨み付けるのだ。しっかりと足を踏ん張っていないと、今すぐにでも倒れそうだった。
「……先輩たちには、関係ない、ですよね?」
頑張って声を絞り出す。糸のように細い声になってしまったけれど、彼女たちには届いたようだ。驚くべき速さで反応が返ってくる。
「はぁ!? 関係あるわよ!」
「綾小路君は皆と友達なの! あんただけが独占していい人じゃないのよ!」
「ブサイクのあんたが綾小路先輩の近くにいていいわけないでしょ?」
怖い。うるさい。怖い。
彼女たちの言葉は槍のように花音に突き刺さる。じわりと涙で視界が滲んだ。
こんな辛い思いをどうして自分がしなければならないのか。最初から綾小路を避けていればこんなことにはならなかったのか。先輩が好きだという心まで折れてしまいそうだった。
「花音、探したよ」
そっと手を差し伸べるような優しい声がして、今まで花音を責めていた少女たちがぴたりと罵るのをやめた。足音は一歩一歩近づいて隣までやってきたところで手を握られた。その相手は好きで好きでたまらない花音にとって初恋の綾小路だった。
「俺の彼女を勝手に連れて行かないでくれる? 迷惑だから」
大好きな先輩の顔が直視できない。心臓がうるさく騒ぎ出して、それどころではなかった。手を引かれて教室を出ていくのもどこかぼんやりとしたまま受け入れて、なかなか現実に戻れない。
「花音?」
名前を呼ばれてはっとした。また別の空き教室にやってきたようで、花音と綾小路以外そこには誰もいなかった。
「えーと、嫌だった? 急に彼女なんて言ったりして」
花音が泣いていることを悪くとらえたのか、綾小路は困った顔をしている。
そんなわけがない。これは先ほどまで怖い思いをしていたせいで、それよりも今は。
「ち、違うんです。……嬉しいんです。彼女だって言ってくれて……」
「……花音」
「わ、わ、私」
言うならばここしかない。誰でもいいからちょっと背中を押してくれないだろうか、と都合のいいことを考えてみる。綾小路が黙っているので花音は自身のばくんばくんと動く心臓の音を強く感じていた。
(言え、言ってしまえ!)
瞬間、窓から入ってきた風がふわりと花音の背を押した。暖かく柔らかい風はそのまま少し隙間の空いたドアへと抜けていく。そして踏み出す勇気が生まれた。
「好きです! 綾小路先輩のことが、好きなんです!」
静かな教室でその声はよく響いた。恥ずかしくて真っ赤になりながらそっと彼を窺う。返事が欲しかった。お願いします、と心で念じながらじっと綾小路が口を開くのを待つ。
「好きだよ。俺も花音のことが好きだ」
両想いだった。やっぱりどんなに地味な自分にも素敵な出会いはやってきた。それは漫画や小説だけで終らない本物の恋だ。
微笑んだ彼がそっと花音の頬に触れる。そしてゆっくりと顔が近づいてくる。その後の展開は何度も物語で読んだ。焦る本心を隠すように、その幸福に浸るように、花音はそっとまぶたを閉じる。
「……先輩」
そのとき、花音の心は満たされていた。
甘美な夢の終わりはないと信じていたのだ。けれど。
ばしゃり、と顔に液体のようなものが降ってきた。どろりとした何かは、ゆっくりと重力に負けて花音の顔を滑り落ちる。
「……え?」
最初に目に入ったのは、人間の握り拳だった。
綾小路の顔があるべき場所に、誰かがじゃんけんでもしようとグーをだしたのか。混乱した頭でそれはないと否定する。それに、拳の下にはちゃんと綾小路の身体があった。そう、首から下はきちんとそこに存在していて、花音の頬に手は添えられたままだった。
「……え?」
すっと目の前にあった手が引っ込むと、支えを失ったように愛しい先輩の身体がゆらりと傾く。そして綾小路はどさりと倒れこみ、首のあたりから大量の液体を教室の床にぶちまけた。
「間に合ったか」
短い黒髪。学ラン姿のその少年には見覚えがあった。
図書室で、いつも真面目に仕事をこなしていたその少年の名は、宇津木。
「…え、え?」
宇津木の目線を追って顔を下に向ければ、首から下だけの綾小路の身体があった。
「い、いやああああああああああああああああ!!!」
取り乱す花音を無表情で見つめる少年――――、いや少年ではなく、これが花音と本当の『彼女』の衝撃の出会いだった。