サカナと金魚鉢
確かあの日、彼は金魚鉢を買ったと誇らしげに話していた。私はそれだけの事実のどのあたりが自慢になるのか全く分かなかった。だから適当にあいづちを打ったのだ。だってそんな、金魚蜂を買ったことがそんなに重要なことになるはずがないと思ったから。
そのことが彼にとって重要なことだと知ったのは彼が金魚鉢を買った十数日後のことだ。彼が金魚蜂を買った五日後に部屋に遊びにおいで、と言ったときから理由は仄めかされ始めていたはずだったのに私は気付かなかった。
「何ていうか、すごく片付いた部屋だね」
彼の部屋に入った瞬間、呆気にとられてしまった私は取り繕うようにそう言った。彼の部屋が何にも無いというだけで説明できてしまうようなくらい家具の少ない空間だったからだ。小さなタンス一つとその上に乗った空っぽの金魚鉢。その二つだけだ。
「何にも無いって正直に言っていいよ」
彼は呆然とした顔のままの私にそう言った。私ははっとして
「そんなこと……このタンスも金魚鉢も素敵だよ?」
と早口になって言った。四畳半の部屋にはこれくらいがいいわ、と付け足して。彼は軽く苦笑してから
「ありがとう」
ほっとしたような様子で言った。それを聞くと、ああよかったと私までほっとした。
彼は私にそこらへんに座ってて、と言いながら部屋を出て行った。私はあまりにも彼の部屋の空いたスペースが多いので、どこに座ろうか迷ってしまった。そして、ぐるりと部屋を一周した後で結局座ったのは初めに私が立っていた場所だった。
彼の部屋に入るのはこれが初めてだった。私は体中が左胸を震央としてどきどきしているのを感じた。いつも彼とは話しているのに部屋に入ると緊張してしまうのは不思議な感覚だった。
私は彼が戻ってくるまで、何度も座り方を変えていた。どこかを動かしていないと落ち着かなかったのだ。ガチャリとドアのノブが回り、彼が部屋に入ったときは丁度私が正座に座り変えたところだった。彼はそんな私を見ると、クツクツと笑い
「そんなに構えなくてもいいよ。ま、そのままお茶飲んでもいいけどね」
ドアを開けた反対側の手に抱えていたお盆の上からひとつティカップを差し出した。
「あ、じゃあこのままで」
私はさっとティカップを受け取ってから、勢いよく俯いた。顔がとんでもないくらい熱くなるほど恥ずかしかった。彼はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、部屋の気温上がらない、なんて呑気なことを私に尋ねた。私は力を込めて彼の背中を叩いてやった。彼はまた小さく笑った。
私は彼が淹れてきたティカップの中のレモンティを飲み干すと、タンスの上の金魚蜂を手に取って彼を見た。
「これってこの前言っていた金魚鉢?」
彼はレモンティを覗き込むようにして啜りながら、うん、と言った。そしてティカップが空になったのを確認すると私の手から金魚鉢を取り上げ床に置いた。彼は金魚鉢を見下ろしながらぼそぼそと言った。
「ぼくは生まれ変わったら魚になる」
私は何のことかと思った。でもこんなことを言う彼が彼の本来の姿だと感じた。
「じゃあわたしも魚になる」
私は彼の瞳を見つめてそう言った。彼は何にも言わないまま、金魚鉢の中に右足を突っ込んだ。私はその光景に目を見開いてしまった。こんなことする人がこの世に居るとは思わなかったからだ。彼が不思議なひとだということは知っていた。そんなところが素敵だと感じ、同時に愛しかったのだから。
「千春、雨が降るから帰ったほうがいいよ」
彼は驚いている私にやさしくそう言った。
「金魚鉢が湿ってる。湿気が多い証拠だ」
私は彼の部屋の窓から空を見上げた。確かに黒い雲がたくさん漂っていて今にも雨が降り出しそうだ。
「分かった。じゃあ帰るね」
私は金魚鉢に右足を突っ込んだままの彼ににっこり笑って言った。彼は一回頷いただけで一つも言葉を発しなかった。彼の部屋を出たあとで
「生まれ変わったら魚になって水中を泳ぎたいんだ」
そんな彼の声が聞こえた気がしただけで。彼の部屋をでてしばらくすると、ぽつぽつと雨があたり始めた。私には何だかその音が寂しく聞こえた。そして、ふいに彼のことが心配になった。でも、私は彼が不思議な行動を取るのはいつものことだ、と言い聞かせただけだった。
それがいけなかったのか、彼はその一週間後には居なくなってしまった。この世から。それも自ら空に舞って。魚になるって言ったくせに、鳥のように空を舞って、堕ちたのだった。
彼が亡くなった八日ほど彼の母親に呼び出されたとき、私はどうして彼を助けてあげられなかったの、と怒声をあげられると思っていた。それか目の前で嘆かれるか。しかし、彼の母親はそんなことをせずに私にありがとう、と言った。
「あの子、とても寂しがりやだったわ。けれど人をそばに置くことができなかったの。でもあなたはあの子のそばに居てくれた。彼が一日でも長く生きていられたのはきっとあなたのお陰だもの」
私はにこにこ笑って彼のことを話す、彼の母親を見て涙が溢れてきた。
「そんな、私、彼が寂しそうにしてたのも、自殺しようと思ってたのも、気付かないといけなかったんです。でも、気付かなかった。気付けなかった。彼が金魚蜂に足を入れて、生まれ変わったら魚になりたい、って言ったときにほんとは慰めてあげなきゃいけなかったのに。彼を愛していたのに」
しゃくりあげながら私はそう言った。あのとき、じゃあ私も、なんて言えるくらいならその言葉の意味を真剣に考えるべきだったのだ。
私は涙なんかでは流しきれないような罪をおってしまった。しかし、彼の母親はまたにっこりと微笑んだ。
「あの子、そんなことを言っていたのね。だから、あなたに金魚鉢をあげたいって遺書に書いていたのね」
私は彼の母親をじっと見つめた。本当か、と問いかけるような視線でじっと見つめた。
「あの子、きっと金魚鉢を買ったことで自殺をする決心がついたんだわ。生まれ変わった姿であなたと暮らしたかったのよ」
彼の母親は金魚鉢を私に手渡しながら言った。そして、私の頭をやさしくぽん、と叩いた。
「……ありがとうっ、ございます」
私は涙を拭いながらそう言った。少しだけ微笑んでそう言えた。
「こちらこそ、今まで」
彼の母親も微笑んでいた。
その後で私と彼の母親は彼のお墓参りに行った。私は彼から貰った金魚鉢を抱え、彼の母親はうつくしい花束を抱えていた。私たちは彼の墓石の前まで行くとそれぞれ抱えていたものをその場に置いた。そして私は右足の靴と靴下を脱ぎ、素足になり金魚鉢の中にその足を突っ込んだ。
「何をしているの?」
彼の母親が私に聞いた。
「彼がしていたことをしているんです。今更ですが、彼の気持ちを私は聞きたいんです」
私は墓石を見つめて答えた。彼の母親はそう、と呟いた。私は彼の墓石に向かって言う。
「大丈夫。私は魚になったあなたと一緒に暮らしたいって思っているから。自由な暮らしをさせてあげるから」
彼の母親は一粒の涙を落としながら、私の言葉を黙って聞いていてくれた。空はあの日と違って晴れていた。金魚蜂は湿ってなどいなかった。
「ほんとうにありがとう」
彼の母親は墓石を撫でながらそう言った。私は靴下と靴をはきなおして、金魚鉢を再び抱えた。彼の母親とは彼の墓石の前で別れた。
私は今、自分の部屋で彼のくれた金魚鉢に一匹の金魚を飼っている。それは彼の生まれ変わりの金魚であるかもしれないし、全く関係のない金魚かもしれない。それでも信じている。彼が今頃、魚となって水中を泳いでいることを。そして私も生まれ変わるときが来たならば、魚になりたいと願っている。
私は金魚鉢の中に人差し指を突っ込んだ。金魚はその指に寄り添い軽いキスをする。
「どうか、彼に幸せを」
私はその金魚を見つめながら、そう呟いた。
フーコー恋愛小説コンテストに応募させていただきました、大分駄作。
まあ、経験ですからいいですよね! 別に!(開き直り)
死ネタが嫌いなひと、ごめんなさい。恋愛小説コンテストだったので、通りやすそうな安易なネタを使ってしまったことを深く反省したいと思う限りです。