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貴方が一度も呼ばなかった、私の名前

作者: 夢見叶
掲載日:2026/05/02

「ねえ、君。あちらの薔薇水を取ってきてくれないか」


 グレゴワールが、私の隣に立つ侍女に向かって言った。


 ——いえ。彼が呼びかけたのは、侍女ではない。


 彼の視線は、私の頬の横を素通りして、その向こうにいる赤い髪の令嬢に向けられている。


「ねえ、君。少し冷えるだろう。あの暖炉の方へ行こうか」


 私の腕に添えられていた彼の手が、するりと離れる。


 王宮の冬の夜会。年に1度、王家が貴族家門を集めて催す「白冬の宴」の入場直後、私はもう3度、彼の「ねえ、君」を聞いていた。


 1度目は控室で、私の侍女に。

 2度目は廊下で、すれ違った別家の令嬢に。

 3度目が、たった今。


 ——そして、いずれの「ねえ、君」も、私の名を呼んだことは、ない。


 グレゴワール・ド・モルナール子爵嫡子。私の婚約者。


 私たちが婚約してから、6年が経つ。


 壁際に寄ると、玉座に近い柱の影に、白髪の老紳士が立っているのが目に入った。ヴァランクール伯爵——王宮の儀典官として長くお仕えしている老貴族で、私とは祖父の代から面識があった。彼が、わずかにこちらに目を伏せて、軽く礼をしてくださる。


 私も、軽く返礼した。


 夜会には、見ているはずのない人が、見ていることがある。それを、私はその夜、もう一度、思い出すことになる。


 ***


 私はコンスタンス・ル・コンドゥラ。コンドゥラ侯爵家の長女である。16歳のデビュタントの夜、両家の合意によって、2歳年上のグレゴワールと婚約した。


 結婚に対する憧れは、もともと薄い方だった。両親の縁組は政略であったし、貴族令嬢にとって婚姻とは家と家の契約であって、恋情は二次的なものだ——そう、聞いて育った。


 だから、グレゴワールが私を熱烈に愛さないことを、私は責めなかった。


 婚約期間中の手紙のやりとりは、1か月に1度。


 兄ジョスランは、4年前に父が病に倒れて以来、長子として家督を代行している。家門の文書管理を一手に引き受けるのも、その務めの一部だった。婚約者からの私信もまた、家門の記録として家令が1通1通記録を取り、整理する。届いた手紙は、家令の机を経て、兄のもとに集められる。そして兄が、封を切る前のままで、そっと私の前に置いてくれるのだ。


 私はそれを開き、中身だけを読んだ。読み終えると、封筒ごと兄に戻すのが、習慣になっていた。


「文書としての保管は、家のしきたりだ」と兄は常々言っていたから、私は何の疑問も持たなかった。


 そして——封筒の表書きを、わざわざじっと読むこともしなかった。


 中身を読むのが手紙だと、そう思っていた。宛名は配達のためのもので、自分の名前が記されているのが当然だと、——そう、思い込んでいた。


 彼からの手紙の中身は、いつも、社交界の噂話と、季節の挨拶と、「ご機嫌よう」で終わっていた。


 私の名前を、彼が一度でも書いていたかどうかを、私は今夜まで、知らなかったのだ。


 ***


「ねえ、君。先に席に着いていていいよ。僕は少し友人と話してくる」


 そう言って、グレゴワールは私から離れた。彼の背中が、赤い髪の令嬢たちの方へ吸い込まれていく。


 私は壁際に寄って、ひとつ息を吐いた。


 ——もう、何も求めまい。


 そう思ったのは、いつ頃からだったろう。3年目か。4年目か。最初は、自分の名を呼んでもらえないことに、戸惑いがあった。「コンスタンス」とは呼ばれず、「ねえ」「君」「お前」「あの方」、そして「僕の婚約者」。


 婚約してすぐの頃、私は一度だけ、勇気を出して尋ねたことがある。


 ——どうして、私の名前を呼んでくださらないの。


 グレゴワールは、目を見開いて、それから笑った。


「ああ、いやあ。君の名前、覚えるのが下手で。なに、君がいい子なのは知っているよ。気にしないで」


 ——気にしないで、と。


 そのとき私は、彼の言葉を、彼なりの照れ隠しか何かだと思おうとした。けれど1年経ち、2年経ち、3年経ち、4年経ち、5年経ち、——そして6年が経った今。


 私はようやく、はっきりと理解する。


 彼にとって私は、「名前を覚える価値のない女」だったのだと。


 ***


「コンスタンス、ここにいたか」


 兄の声がした。


 ジョスラン・ル・コンドゥラ。私より4つ年上の兄で、王宮騎士団に所属している。冬の夜会には騎士団の制服で参列するのが慣例だ。今夜も濃紺の隊服に身を包み、なぜか胸に大きめの書類鞄を抱えている。


「兄様。鞄、なぜそれを」

「ああ、これか。——先日、王弟殿下より遣いがあってな。今宵こそ持参せよ、と」

「殿下から?」

「お前は、驚かないでいい。兄として、私が長く考えてきたことを、殿下が後押しをしてくださっただけだ。後で話す」


 兄は私の隣に並ぶと、夜会の人波の向こうを見やった。グレゴワールが、あちらで赤い髪の令嬢の手を取って、何やら笑い合っている。


 兄の眉が、わずかに動く。


「コンスタンス。お前、グレゴワール卿に、名を呼ばれているか」


 私は、答えなかった。


 兄は、答えを聞かなかった。


「——そうか」


 静かに、兄は言った。それから一歩前に出て、軽く右手を上げた。


「モルナール卿、少しよろしいか」


 グレゴワールが、こちらを見る。彼はにこやかに歩み寄ってくる。私と兄の前に立ち、形ばかりの礼をした。


「コンドゥラ卿。今夜は冷えますね」

「ああ。冷えるな」


 兄の声は、低く、平らだった。


「卿。ひとつお伺いしたい。——私の妹の名は、何と申しますか」


 グレゴワールが、笑った。


「なんだい、いきなり。野暮なご質問だね、コンドゥラ卿」

「お答え願えますか」


 兄の視線は、動かない。グレゴワールの笑みが、ほんの一瞬だけ、固くなる。


 ——けれど彼はすぐに肩を竦め、いつもの軽さで、こう言った。


「いやあ、参ったな。彼女の名前、覚えるのが下手でね。なに、僕の婚約者なのは間違いないよ。心配しないでくれ、コンドゥラ卿」


 ——覚えるのが下手で。


 ——心配しないでくれ。


 私は壁にもたれて、彼の言葉が、自分の体のどこにも当たらずに通り抜けていくのを、ただ見ていた。


 兄は、ゆっくりと私の方を振り返った。


「——そうか」


 兄が、もう一度そう呟いたのが、聞こえた。


 ***


 そのときだった。


「コンドゥラ卿」


 別の声が、私たちの背後から、静かに掛かった。


 振り向くと、白銀の髪の青年が立っていた。年の頃は、20代の半ばを少し過ぎたほど。深い藍色の正装を纏い、左胸に王家の紋章を留めている。


 ——王弟殿下、アルフォンス・ド・ベルジャール。


 私は、息を呑んだ。


 王宮の社交界で、その姿を遠目に見たことは何度もある。けれど、王家の方々から声を掛けられたことは、私には一度もない。今夜、なぜ。


 王弟殿下は、兄に軽く目礼すると、私の方に向き直った。


 そして。


「——コンスタンス・ル・コンドゥラ嬢。ご機嫌よう」


 彼が、私の名を、呼んだ。


 全身が、一瞬だけ、止まった。


 ——コンスタンス。


 ——コンスタンス・ル・コンドゥラ。


 名乗ったとも、紹介されたとも、私は記憶になかった。今夜、この方に。なのに、そらで私の家名まで添えて、彼は私を呼んだのだ。


 動揺を悟られぬように、私は深く礼をした。


「殿下にご挨拶申し上げます」

「ええ。お顔を上げてください、コンスタンス嬢」


 また、私の名を、彼は呼ぶ。


 グレゴワールが、ぽかんと口を開けて、私と王弟殿下を交互に見ていた。


 王弟殿下は、グレゴワールに視線を移した。微笑のまま、けれど目は笑っていない。


「モルナール卿。今宵もご清祥のご様子で」

「は……はい、殿下。恐れ入ります」

「ところで卿。先刻、こちらのご令嬢を『君』とお呼びでしたな」


 グレゴワールの背筋が、わずかに伸びた。


「あ、いえ、それは——」

「卿の婚約者の名前を、私の方が先に呼んでしまったようだ。失礼つかまつった」


 ——失礼。


 言葉だけは、丁寧だった。けれど、その言葉が並んだとき、社交界のしきたりを知る誰もが、王弟殿下が何を言っているかを理解する。


 「卿の婚約者の名前を、自分の方が先に呼んだ」。


 ——つまり、卿は自分の婚約者の名を、未だ呼んでいなかった。


 周囲の貴族たちが、ざわめいた。

 数歩先で、扇を開いた令嬢たちが顔を見合わせる。

 柱の影で、ヴァランクール伯爵が、ほんの僅か、顎を引かれた。


 私は、無言のまま、もう一度王弟殿下に礼をした。

 王弟殿下は、私に向かって、もう一度静かに微笑んだ。


「コンスタンス嬢。後ほど、お話を伺ってもよろしいか」

「——御意のままに、殿下」


 ***


「兄様。先ほどの鞄、何が入っているのですか」


 夜会の合間、私は控えの間で、兄に尋ねた。


 兄は、鞄を抱え直すと、ふっと目を伏せた。


「コンスタンス。お前に見せていいものか、私はこの1年、毎月、迷っていた。だが、もう、見せてもいい時だと思う」


 兄が鞄から取り出したのは、束ねられた手紙の山だった。蝋封の色褪せ具合から、古いものと新しいものが混じっているのが分かる。


「これは、——」

「お前への、グレゴワール卿からの、過去6年の手紙だ。お前が中身を読み終えた後、私が引き取って、家門記録として保管してきたものだ」

「兄様。私は、中身は読みました」

「読まなかった訳ではあるまい。だがコンスタンス。お前は、——封筒の宛名を、一度でも、自分の目で見たことがあるか」


 私は、止まった。


 兄は、1通を選び出して、私の前に差し出した。古い、もう5年以上前の封筒だ。


 宛名の欄に、こう書かれていた。


 『君へ』


 私は、次の手紙を取った。


 『ねえ』


 次の手紙。


 『お前へ』


 次の。


 『あの方』


 次の。次の。次の。


 ——どの手紙の宛名にも、私の名は、ない。


 72通。それが、6年間に届いた、私の婚約者からの手紙の総数だった。そのすべての宛名が、人称代名詞か、「あの方」か、「コンドゥラ卿の妹君」だった。


 たった一度も。


 たった一度も、彼は、宛名に「コンスタンス」と書かなかった。


「兄様。これは——」

「お前は、書類の上でも、名を奪われていた。私はこれを、家令にも家門の他の者にも見せず、自分の机の鍵のかかる引き出しに、しまっていた。いつか、必要な日が来ると思って」


 兄の声は、低く、けれどわずかに震えていた。


「すまない、コンスタンス。私は兄として、もっと早くお前にこれを見せるべきだった。だが——お前が自分で、彼を諦めるその瞬間まで、私は待ってしまった。お前から、お前の選ぶ権利を、奪わぬために」


 私は、束を抱えるように受け取った。


 紙の重みが、思っていたよりも、ずっと重かった。


 ——6年。

 ——72通。

 ——一度も。


 私は、初めて、自分のなかに何かがゆっくりと、ほどけていくのを感じた。怒りでも、悲しみでもない。それは、もっと静かな、——たぶん、許可だった。


 もう、求めなくていい、という、自分自身からの、許可。


 ***


「コンスタンス嬢」


 王宮の中庭。月光に薄く照らされた回廊の途中で、王弟殿下は私を待っていた。


「殿下。お待たせ申し上げました」

「いえ。私の方が、勝手にお時間を頂戴いたしました」


 王弟殿下は、回廊の手すりに軽く手を置き、こちらを見ずに、夜の庭を眺めて言った。


「コンスタンス嬢。突然のお話で恐縮ですが、——6年前のことを、覚えておられますか」

「6年前」

「貴女がデビュタントの式に上がられた、あの日のことです」


 私は、首をかしげた。あの夜のことなら、もちろん覚えている。16歳の私が、白いドレスで初めて社交界に披露された日。けれど王弟殿下と、何かお話ししたかどうかは、——記憶にない。


「あの夜、私は、兄上の——今上陛下の——当時の御婚約者であられた義姉君、つまり今の妃殿下と、貴女の家門に近い席におりました。義姉上は妃殿下になられる前、最後の社交として、あの夜会に臨まれていたのです」

「左様でございましたか。——お目にかかっていたとは、存じ上げず、申し訳ございません」

「いえ。お目にかからなかった、というのが正しい。私は、貴女のお名前を、その夜、初めて聞きました」


 殿下は、ゆっくりと私の方に向き直る。


「『コンスタンス・ル・コンドゥラでございます』と、貴女は妃殿下に名乗られました。私は、貴女の声で、貴女の名前を、聞きました」


 月光が、彼の白銀の髪を、静かに撫でていた。


「それから6年。私は、社交界の様々な場で、貴女が誰にどう呼ばれているかを、——まあ、職務の延長と、お思いいただいて結構ですが——、聞き続けていました」


 私は、息を止めた。


「コンスタンス嬢。貴女のお名前を、社交界で正しく呼んでいたのは、貴女のご家族と、ごく少数のご友人と、——そして、私だけでした」


 ——私だけでした。


 そう、彼は言った。淡々と。


「モルナール卿が、貴女の名を一度も呼ばなかったことも、私は存じておりました。書状の宛名が、いつも『君』『あの方』であったことも。——半年ほど前に、お兄上にそのご報告をいたしました。お兄上は、最初、私を激しく咎められた。妹の私信を、第三者がどうして知っているのだ、と」

「兄が、——」

「ええ。お兄上は、お父上に代わってご家門をお守りになる方です。私は、軽率な真似をしたお詫びとともに、ひとつお願いをいたしました。——『どうか、ご令嬢ご自身が、ご自分の名を取り戻すと決心される、その瞬間まで、お待ちいただきたい』と」


 私は、月の下で、息をひとつ吸った。


 兄が1年迷っていたという、その理由が、ようやく分かった。

 兄は、王弟殿下に咎められて手紙を見せたのではない。王弟殿下と兄は、——私の決心を、共に待っていたのだ。


「殿下、——なぜそこまで」

「申し上げる機会を、いただきたかったからです」


 そこで初めて、彼は微笑んだ。


「貴女が、ご自分でご判断をされる日まで、私はただ、お名前を呼ぶ瞬間を、待っておりました」


 ——名前を呼ぶ瞬間を、待っていた。


 6年。


 私が、誰からも名前を呼ばれなかった6年と、彼が、私の名前を呼ぶ瞬間を待った6年と。


 同じ年月を、私たちは、別々の場所で、過ごしていた。


 私は、ゆっくりと頭を下げた。冷えた両手を、ドレスの前で重ねた。それから、——たぶん6年ぶりに、自分の声で、こう言った。


「殿下。——コンスタンスと、お呼びくださいませ」


 王弟殿下は、笑った。月の光と同じ色で。


「では。コンスタンス嬢。——いえ、コンスタンス。今夜、これからのことを、私と少しご相談くださいますか」


 ***


 大広間に、再び戻ったとき。


 そこには、いつの間にか、国王陛下の御姿があった。


 玉座の脇に静かに着席された陛下は、軽く右手を上げ、夜会の進行を一旦止めさせた。会場が、しんと静まる。


 王弟殿下が、私の手を取って、会場の中央に進み出る。


「兄上、ご臨席を賜り恐悦至極に存じます」

「アルフォンス。何があった」


 陛下のお声は、低い。けれど何かを、御存知のような響きがあった。


「兄上。本日、コンドゥラ侯爵令嬢——コンスタンス・ル・コンドゥラ嬢の現在のご婚約に関し、御家門間の重大な瑕疵が判明いたしました。私からご報告申し上げます」


 ——御家門間の、重大な瑕疵。


 グレゴワールが、人波の向こうから、こちらに歩いてきた。あの軽い笑みは、もう半分しか作れていない。


 兄ジョスランが、書類鞄を抱えて、王弟殿下の隣に立つ。


「陛下。コンドゥラ侯爵家家督代行として、過去6年間にモルナール卿より我が家に届けられた書状一切を、ここに提出いたします。総数72通。その全ての宛名に、——我が妹コンスタンスの名は、一度も書かれておりません」


 兄が、束を高々と掲げた。蝋封の色が、燭光に並んで光る。


 会場が、ざわめく前に、王弟殿下の声が重なった。


「兄上。さらに、本夜会において、モルナール卿はご令嬢を4度『君』と呼び、ご令嬢のご家族の確認に対し、『名前を覚えるのが下手で』と公言いたしました。私と、こちらにおられる方々が、その場の証人でございます」


 ヴァランクール伯爵が、玉座の方へ一歩進み出て、軽く首を垂れた。

 別の伯爵家の御老女が、扇を畳んだ。

 数歩離れた場所で、赤い髪の令嬢——クレマンス嬢が、口元を押さえていた。


「モルナール卿」


 陛下が、初めて彼の名を呼ばれた。


「——卿は、ご自分の婚約者の名を、何と申される」


 グレゴワールが、唇を開いた。


「——彼女、は」


 そこで、止まった。


「彼女の、名前は、——えっと、——」


 また、止まった。


 大広間に、誰も声を発する者はいない。シャンデリアの蝋燭の、微かな揺らぎだけが、空間を満たしていた。


「彼女の、名前は、——あの、——」


 3度、止まった。


 その間に、——会場のあちらこちらで、低い、けれどはっきりとした囁きが起こり始めた。


 ——「ご自分の婚約者の名を」

 ——「6年も婚約しておきながら」

 ——「家名はおろか名前すら」


 グレゴワールが、慌てたように顔を上げた。彼の視線が、人波のなかを彷徨い、——そして、赤い髪のクレマンス嬢の上に、止まった。


「ク、——クレマンスちゃん、君は知っているよね。僕の婚約者の」


 ——クレマンスちゃん。


 ——即座に、名前が、出た。


 私は、自分でも驚くほど落ち着いた声で、つぶやいていた。


「あら。クレマンス様のお名前は、即座にご記憶でいらしたのですね」


 王弟殿下が、横で、ふっと小さく息を漏らされた。それは、笑いを噛み殺した気配だった。


 クレマンス嬢が、扇を広げた手の陰で、目を伏せた。彼女の唇が、何か言いかけて、止まる。


 ヴァランクール伯爵が、静かに進み出た。


「モルナール卿。一つお伺いしたい。卿が、コンドゥラ侯爵令嬢のお名前を覚えられるのが下手であられたなら、——なぜ、ル・コンドゥラ家のご親戚であられるクレマンス嬢のお名前は、即座にお呼びになれたのでしょうか」


 ——なぜ。


 グレゴワールは、答えなかった。


 答えられなかった、と言うべきか。


 陛下が、深い息をひとつ、お吐きになった。それから、王弟殿下に向かって、軽くうなずかれた。


「アルフォンス。後を任せる」

「御意」


 王弟殿下は、私の手を、ほんの少しだけ強く握った。それから、私の名前を、はっきりと、会場の全員に届く声で、呼ばれた。


「コンスタンス・ル・コンドゥラ嬢。——もし、貴女がお望みであれば、本席をもって、卿との婚約を解消することを、王家の名のもとに承認いたします」


 私は、深く、深く、礼をした。


 そして、生まれて初めて——たぶん、6年と、それより少し前から——、自分の名を、自分のために、自分で名乗る声を出した。


「コンスタンス・ル・コンドゥラ、——御意を、いただきとう存じます」


 ***


 婚約解消の承認は、その場で、文書にされた。


 兄が手紙の束を陛下にお渡しし、陛下は数通を御覧になられた後、深くため息をつき、宰相に何かを耳打ちされた。後日、宰相府より、貴族家門間の婚約期間における正式書状の宛名規則についての通達が出されることになる、と、後で兄から聞いた。


 グレゴワールは、その夜、夜会を退出した。


 翌週、彼の家、モルナール子爵家は、王宮の社交招待リストから一時的に外された。「家門の不誠実」を示す、軽くはあるが、明確な処分だった。さらに、子爵令息は社交界で、「彼女の名前は……えっと……」と詰まる仕草を真似るのが、貴婦人たちの間で流行したそうだ。


 ——もちろん私は、そのような揶揄に加わることはしない。


 けれど、人がそうして揶揄するのを、止めることもまた、しなかった。


 ***


 クレマンスは、——私の従姉妹のクレマンスは、後日、私の屋敷に泣きながら謝りに来た。


「コンスタンスお姉様、私、——彼が、——あの方が——、人前ではどなたにも『君』とお呼びになるけれど、お二人だけのお茶会の時だけは、私の名を呼んでくださっていたのです。だから、私だけは別なのだと、——信じておりましたの」


 私は、しばらく黙って、彼女の手を見ていた。

 それから、彼女の手を、握った。


「クレマンス。それも、たぶん彼の手の内ですわ。彼は、お二人の時の名前も、夜会の『君』も、どちらも本気で呼んではいなかった。ただ、貴女と私を、少しずつ別の言葉で扱うだけで、お二人とも、彼に都合のよい場所に、置けたのです」


 クレマンスは、息を呑んだ。


「私たちは、よく似た間違いをしましたわね、クレマンス。けれど、それが分かったから、——もう、間違わなくて済むのですわ」


 彼女は、私の家に1週間滞在した。その後、ヴァランクール伯爵がたびたび我が家を訪れるようになり、——クレマンスをご自分の遠縁の若い令息に紹介してくださることになった。それは、また別の物語である。


 ***


 数日後の昼下がり。


 兄が、執務室に私を呼んだ。机の上に、1通の封筒が置かれている。


「コンスタンス。モルナール家から、お前宛に、これが届いた」


 私は、初めて、自分で、自分宛の封筒の宛名を見た。


 ——『コンドゥラ侯爵令嬢殿』。


 そこに、私の名は、ない。


 謝罪の手紙だ、と兄は言った。「自分の不徳を恥じる」「再考の余地を願う」と中身に書かれているらしい、とも。


 私は、その封筒を、開かなかった。


「兄様。これも、保管なさいますか」

「いいや。コンスタンス。——これは、保管しない」


 兄は、暖炉に火を入れた。

 冬の薪が、ぱちりと跳ねた。


 兄は、その封筒を、開封もせず、そのまま、火の中に投じた。


 紙が、ゆっくりと、丸まって、灰になった。蝋封の朱の色だけが、最後に小さな火を上げて、消えた。


「お前の名のないものは、もうこの家には、置かない」


 兄の声は、低く、けれど、揺るぎがなかった。


 私は、暖炉の火の前で、ひとつ、息を吐いた。


 彼の手紙は、これで、73通目になるはずだった。

 けれど、——届かなかった。

 その宛名に、私の名前が、なかったから。


 ***


 その翌日。


 私は、王弟殿下のお招きにより、王宮の温室に伺っていた。冬でも温かい硝子張りの温室には、季節を問わず咲く薔薇の鉢が、几帳面に並んでいる。


 殿下は、白い陶器のティーセットを、ご自身の手で運んでこられた。


「コンスタンス。座って」


 ——コンスタンス。


 もう、その呼び方は、私のなかで、痛みではなくなっていた。むしろ、——温かい何かが、その響きの後ろに、ふんわりと座っているようだった。


「殿下。お紅茶を、自らお淹れになるのですか」

「私はね、コンスタンス。誰かのために何かを準備するのが、好きなのです」


 殿下は、白い磁器のポットから、紅茶を二つのカップに注ぎ分けた。湯気が、温室の薔薇の香りと混ざって、緩やかに立ち上った。


「コンスタンス。私の名を、呼んでくださいますか」


 私は、息をひとつ吸った。冬の薔薇水を、別の誰かのために取りに行かされなかった、自分の息だ。


「——アルフォンス、殿下」


 殿下は、笑った。


「『殿下』は、要りません。いえ、あっても良いですが、その前に、私の名前を」


 私は、もう一度、息を吸った。


「アルフォンス様」

「ええ。それで結構です。とても、結構です」


 殿下は——アルフォンス様は、私のカップを、私の側にそっと寄せられた。


 紅茶は、温かかった。あの夜会で取りに行かされなかった冷たい薔薇水とは、たぶん、別の世界の飲み物だ。


「コンスタンス。私はこの6年間、貴女の名前を、心の中で何百回も呼んでいました」

「アルフォンス様。それは——少し、お行儀が悪うございますわ」


 私は、初めて、彼にそんな冗談を言った。


 アルフォンス様は、声を立てて、お笑いになった。それから、ご自分の名前と、私の名前を、ひとつずつ、紅茶のカップの前で口にされた。


「アルフォンス・ド・ベルジャール」

「コンスタンス・ル・コンドゥラ」


 それは、ただの名乗りだったかもしれない。


 けれど、私には——ようやく交わされた、最初の挨拶のように思われた。


 ***


 後日、王家から、コンドゥラ侯爵家へ、正式な婚約申入書が届いた。


 兄ジョスランは、私の前で、その封筒を開封する前に、一度、宛名を見せてくれた。


 蝋封の上の、几帳面な文字。


 『コンスタンス・ル・コンドゥラ侯爵令嬢殿』


 私は、その宛名を、生まれて初めて、自分の目で、確かめた。


 私の名前が、そこにあった。


 ——間違いなく、私の名前が、そこにあった。


 それは、たった6文字の、当たり前の文字列だった。


 けれど、その6文字を私が私のものとして取り戻すのに、——6年かかった。


 名前は、呼ばれて初めて、自分のものになる。

 そして、呼ばれるべき名は、呼ばれるべき人に呼ばれて、初めて、自分の名になるのだ。


 私はそっと、その封筒を、自分の机の引き出しの一番上に、しまった。


 暖炉の前で灰になった、宛名のない手紙の代わりに。


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