春のダイヤ改正 あるいは一つの終着駅
三月は別れの季節。
鉄道ファン、いわゆる「鉄」にとって、三月は、センチメンタリズムの含有量が一般人よりも少し高い月であったりする。
それは、各人の学校の卒業や、就職、異動といった人間社会の区切りに加えて、
「ダイヤ改正」
の言葉が、鉄道ファンたちの心にのしかかるからだ。
多くの鉄道会社において、三月中旬の土曜日は、一年の運行計画が刷新される日。それは即ち、新しい列車が華々しくデビューする日であると同時に、愛着ある古い車両や、採算の取れないローカル線が、静かにその役目を終えて消え去る日でもある。
「ラストラン」「サヨナラ運転」「葬式鉄」
そんな言葉がSNSのタイムラインを埋め尽くす、そういう日取りよりも、少し早い、3月1日、大阪第一産業高校鉄道研究会の部室にも、一つの終わりが訪れていた。
・
校庭の片隅に敷設された、20メートル程の線路の上に鎮座する、クリーム色のレールバス、富士重工製 LE-Car II。
それが、鉄道研究会の部室だ。
車内には、古びたモケットのロングシートと、不釣り合いなパイプ椅子、そして数冊の鉄道雑誌が置かれた長机。
西日が差し込む車内で、卒業証書の入った黒い筒を肩にポンポンポンポンとあてて、「うん。」と独りごちる男が一人。
第七十六代鉄道研究会部長、因幡太一である。
「部長、卒業おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
伸司の言葉を聞き、因幡部長は照れくさそうに笑って、卒業証書の筒を肩から下ろした。
その横で、もう一人の卒業生、副部長の赤石川摩耶が、呆れたようにため息をつく。
「もう、太一ったら。いつまで遊んでるのよ。その筒、凹んだらどうすんの」
「大丈夫だ。これくらいで凹むようなヤワな鍛え方はしてない」
「いつそんな筒鍛えてたってのよ」
「副部長も、おめでとうございます。セイさんも」
「なんや、俺はついでみたいに祝われとるなぁ」
窓枠に手をつき、黄昏のグラウンドを眺めていた大柄な男が、ぬっと振り返った。
大井誠。通称「セイさん」。鉄道科の三年生で、写真部と兼部している撮り鉄だ。
「ひどい後輩たちだわねえ」
「そんなことないですって!」
摩耶がクスクスと笑う。
「だってセイさんは卒業しても、いつでも会えるしなぁ。結局、帆足さんとこで働くんでしょ?」
「おう、しばらくは『稲田信号場』の雇われマスターや。言うとくけど、お前らへのサービスは期待したらあかんで」
「大丈夫かな帆足さん。こんなの雇っちまって。店つぶれるぞ」
「なにを? よっしゃ、これからお前らはアメリカン一杯2000円やな」
「たっか! やっぱ店つぶす気じゃないですか!」
「はっはっは」
大井が豪快に笑う声が、狭いレールバスの車内に反響する。
「部長と副部長は東京ですよね」
矢立瀬戸が、少し寂しそうな声で尋ねた。
入部当初から因幡にも摩耶にも懐いていた彼女にとって、この別れは特に辛いものなのかもしれない。
「同じ大学、同じ学科でしたっけ」
「ああ。腐れ縁ってやつだな」
因幡が苦笑する。
「同じとこに願書出すの、ギリギリだったのよ? こいつ、問い詰めるまで志望校教えてくれなかったんだから」
摩耶が頬を膨らませる。文句を言いながらも、その表情はどこか嬉しそうだ。
結局、この二人は東京に行っても、こうして付かず離れず、同じレールの上を走っていくのだろうか。
「じゃあ、そろそろ行きますか」
「ああ、そうだな」
因幡部長が立ち上がる。その瞬間、部室の空気が少しだけ湿っぽくなった。
それを察してか、女子部員たちが動き出す。
「あの、部長!」
声を上げたのは瀬戸だった。その瞳は少し潤んでいる。
「ボタン、ください! 制服の!」
「あ、瀬戸ずるい! わたしも欲しい!」
千代田恵留麻が便乗する。
「私も、いただいて、いいですか・・・?」
おずおずと二年生の滝川みどりも手を挙げた。
「おいおい、モテモテだなぁ太一くん」
「うるさいぞ摩耶。・・・参ったな、ブレザーのボタンは二つしかないし」
因幡が困ったように眉を下げる。
第一産業高校のブレザーは、前ボタンが二つ。袖ボタンを含めても数は知れている。
「じゃあ、じゃんけんですね!」
「よぉぉぉし、負けないぞ!」
なぜか気合十分の恵留麻。
結果は、あっさりしたものだった。
「やった! 勝った!」
瀬戸がVサインを掲げる。まずは瀬戸が勝ち抜け。遠慮がちに、しかししっかりと因幡の第二ボタンを受け取る瀬戸。
その顔は、夕日よりも赤く染まっていた。
「やっぱ第二ボタンですよね!」
「うちのブレザー、ボタン二つしかないけどな」
「大事にしますっ!」
続いて、みどりと恵留麻の勝負。
これにはみどりが勝利し、第一ボタンをゲットした。残された恵留麻が頬をふくらませる。
「むー。袖ボタンじゃなんか違うんだなー」
「じゃあ、恵留麻ちゃんには、このネクタイをやるよ」
「えっ、えっ、いいんですか?」
「制服のネクタイなんて、もう二度と締めないだろうしな」
因幡は首からネクタイをシュルシュルと解くと、それを恵留麻に手渡した。恵留麻は、それをまるで聖遺物か何かのように、ははぁと恭しく受け取る。
そんな様子を見て、摩耶がまた呆れた声を出す。
「太一ってそういうとこよねえ。女の子に頼まれると甘いんだから・・・」
「お前が言うな」
因幡が軽く摩耶の頭を小突く。
そんなやり取りを見守りながら、伸司はふと、部室の天井を見上げた。
吊り革に網棚。
かつては多くの乗客を乗せて走っていた車両。今はもう、決して動くことのないこの鉄の箱から、また乗客が去ってゆく。
ふいに、因幡が真剣な表情で、運転台の方へと歩み寄った。
握りの表面の色が落ち、つるりと磨かれたようになったマスコンハンドル。
何か所か、カバーガラスにひびが入った計器類。
彼は、その運転台を愛おしそうに撫でながら、ぽつりと呟いた。
「あの時、紀瀬野で、この部室と同じ車輛が壊れた時・・・部室とまるごと入れ替えれば、この部室が走る所が見れるかも、って。そんな考えがちらと頭をよぎった」
昨年の秋。紀瀬野鉄道の、部室と同型の車両が、エンジントラブルで動かなくなってしまったあの時。
そして、結局は部室のエンジンを提供する話になって。
この部室の床下には今、がらんどうの空間が広がっている。
「この部室がもう、エンジンの無い、ただの置物になってしまったのは、僕のせいかもしれん」
「そんなことないですよ」
伸司は即座に否定した。
「紀瀬野で、第2の部室が走ってるじゃないですか。それで良かったんですよ。こいつの心臓は、あっちで走り続けてるんですから」
「・・・そうだな。そう、そうだよな」
因幡は自分に言い聞かせるように頷くと、パン、と手を叩いた。
湿っぽいのはこれでおしまい、とばかりに。
「よし。もし残した忘れ物があっても、全部置いたまんま行っちまおう。もう『いい部長』も引退だ。
卒業生追い出し会、やるぞ! みんなついてこい!」
「なんで追い出される方が主催してんのよ」
「「あはは」」
摩耶のツッコミに、みんなが笑う。
ぞろぞろと部室を出ていく部員一同。
伸司は、カバンを握りしめ、一歩踏み出した。いや、踏み留まった。
「部長、すいません、俺」
伸司の声に、因幡が振り返る。
「なんだ伸司、追い出し会、参加してくれないのか?」
「今日、俺、これからどうしても、絶対外せない用があって・・・」
みんなが一斉に「えーっ」と声を上げた。特に瀬戸の視線がなにか痛い。
「そうか・・・残念だ。じゃあ、これでお別れだ。な。」
因幡は、深く追求しなかった。
伸司の性格をよく知っているからこその、配慮かもしれない。
「部長、東京へ発つの、いつでしたっけ?」
「来週末だな」
「じゃあそれまでにもう一度会ってください。新大阪まで見送りも」
「おう、わかった。じゃあな」
ひらひらと手が振られる。校門に続く桜並木に向かって、因幡たちは去っていった。
その背中が、夕景に溶けていく。残された伸司は、一人、部室の前でその姿を見送る。
「・・・さてと、急がないとな」
伸司は誰もいない部室の乗降扉を閉じ、鍵を閉めると、職員玄関へと向かった。
・
夜の学校というのは、独特の雰囲気がある。
昼間の卒業式の喧騒が嘘のように静まり返り、校舎の窓ガラスが月の姿を反射して、瞳のようにこちらを見下ろしている。
その日、日付が変わるか変わらないかという時間。第一産業高校の校門前に、一台のバスと、先導する一台の車が横付けされた。バスの車体には『紀野電バス』というロゴが大きく書かれている。
停まった先導車の中から出てきたのは、伸司と春乃先生だった。
二人は、校門脇の通用門から校門の裏へ入ると、一緒に校門の重たい移動柵に手をかける。
「せーのっ」
ガラガラガラ・・・。
錆びついた車輪が悲鳴を上げ、鉄の柵がスライドする。
開かれたゲートから乗り込んでくるバス一台と車。伸司と春乃先生の誘導に従い、先導車とバスは校庭の、部室の横に、並んで停まった。車から、なにやらスーツを来た男性が出てくる。
「いやあ、なんとか今日のうちに着きましたな」
そしてバスの運転席からは、制帽を被った初老の運転手さんが降りてきた。
「意外とうちの車庫から遠かったな」
運転手さんが、バスのボディを愛おしそうに叩く。
「今日でこいつ、車検切れちまうからなあ。日付変わる前に着けてよかった」
「ありがとうございます。この子、譲っていただける話になって」
春乃先生が深々と頭を下げる。
これが、伸司の「絶対外せない用」の正体だった。
部室のエンジンを、取り戻すための「ドナー」を受け取ること。
「いやなんの。ほう、こいつが、お話に聞く、部室ですな」
スーツの男性が、レールバスを見上げる。
月明かりに照らされた部室は、隣に並んだバスと、同じ面影を持つように見えた。
それもそのはず。このレールバス、LE-Car IIは、元々バスの部品を流用して作られた車両なのだから。
「先月、うちの会社の事務所に突然彼がやってきて、こいつを車検切れと同時に廃車にするなら、エンジンくれって言われたときは、いきなり何だ一体、って思ったけどな」
男性が伸司の方を向いて笑う。伸司は恐縮して頭をかいた。
「すいません、唐突に無茶なこと、お願いしに行って」
「そうか、こいつのエンジンが、今もう無くなってるのか」
運転手さんが、部室の床下を覗き込む。
「そうなんです。まだ走ってる同型エンジンのバスがあるって聞いて・・・」
伸司は、目の前のバスを見上げた。古い、年季の入った車両だ。
そして、このバスの心臓部は、部室と同じ、日産ディーゼル製PE6H型エンジン。正確には、部室のエンジンとは細部の仕様は違うかもしれないが。
「何度も説明してるが、同型だからって、うまくエンジンが載せ替えられるか、なんてわからない、ってのは覚悟してくれよ。バスとこいつじゃ、多分マウントから配管から、何から何まで違うだろう」
スーツの男性が念を押す。
「覚悟はしてます。でも、自動車部の連中とも話をして、なんとかチャレンジしてみよう、ってなってますし、紀瀬野鉄道の人たちにも話をしたら、あっちでとっておいてある、壊れた旧エンジンと組み合わせれば、復活できるんじゃないかって言ってくれてます」
いわゆる「ニコイチ」というやつだ。簡単な事ではないだろう。
気の遠くなるような作業と調整。膨大な泥臭い刷り合わせ工程が必要になる。高校生にできることでは、ないかもしれない。
けれど、やるしかない。部長の忘れ物を、取り戻すために。
そして何より、あの音を、もう一度聞くために。
「だから、きっとなんとかなります。いや、なんとかしてみせます」
「そうか、そういってくれるなら、こいつを譲る甲斐もあるってもんだ」
運転手さんが、バスのボディをポンポンと叩いて、満足げに頷いた。
「この部室に載せて、エンジン、動くようになったら、是非、見に来てくださいね」
「ああ、楽しみにしているよ」
「ほんとにありがとうございます」
春乃先生が再び頭を下げる。運転手さんは、名残惜しそうにバスの運転席に目をやった。
「じゃあ、俺達としても名残惜しいが、こいつのエンジン切って、キーをお渡ししようか」
「あ、エンジン切る前に、アイドリングの音、録音させてください」
伸司は慌てて声を上げた。
帆布のショルダーからとりだしたフィールドレコーダのマイクを、バスの後部、エンジンルームのルーバーに向けた。録音スイッチを押す伸司。
ころんころん、という愛嬌のあるアイドリング音。レベルメーターが振れる。
独特のリズムを刻む、機械の鼓動。
かつての部室のエンジンの音よりも大きく、明るく聞こえるのは、比べると、排気管がずいぶんと短いバスに載せられているからだろうか。あるいは、まだ現役で街を走り回っていた、その余韻が残っているからか。
人々の生活を、ずっと運んできた音。
その音は、伸司の鼓膜を震わせて、そして、伸司の記憶の中にある風景を呼び覚ました。
夕暮れの車内。
遠ざかる信号灯の明り。
そして、はにかむように微笑む、あの子の顔。
「伸司君」
春乃先生が、伸司の横に立って小声で尋ねた。
「なんでみんなに秘密にしてるの?」
「みんなを驚かそうと思って・・・。それに、もう部長たちは卒業するんだし。僕らだけでなんとかって」
「僕らって、伸司君だけでやってるじゃない。・・・君が、みんなに内緒で相談があるんです、って職員室にやってきたときは驚いたわよ」
「校長や理事会のみなさんにも、こっそり話し通してくれて、ありがとうございます先生」
「うふふ、いいなあ。先生も学生のころ、自分にこんなサプライズくれる男の子とお付き合いしたかったな」
「そ、そういうんじゃ・・・ないです」
春乃先生は楽しそうに笑っている。
「結局、部長たちが卒業するのに、ギリギリ間に合わなかった。見せたかったな……でも、来週、これを見たら、驚いて・・・喜んでくれるかな?」
「瀬戸ちゃんね」
「いやその。みんなが、ですよ。みんなが」
伸司は慌てて否定するが、顔が熱くなるのがわかった。
マイクを向けたまま、伸司は、このバスを見た時の瀬戸の反応を想像する。きっと、誰よりもこの音を喜んでくれるはずだ。
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「先輩、これって、これって……このバス、いったい……」
「これが、部室の新しい音だよ」
「あたらしい・・音?」
「部室はさ、レールバスだよな」
「はい。LE-Car IIっていう名前だって・・・」
「レールバスは、バスの車体や部品やエンジンを流用して、ローカル線の鉄道のために、気動車に仕立てたものだよな。それなら、流用「された」ほうって、どうだったんだって、そう思ったこと、ないか?」
「え? え? それって・・・?」
「『レール』じゃないバスだ。こいつは、そういうバスなんだ。部室とおんなじエンジン積んで、毎日、街を走ってた。普通の、普通の路線バス」
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瀬戸はきっと、目を丸くして、それから、満面に希望と笑顔を浮かべて言うだろう。
「先輩、じゃあ、じゃあ、もしかして、部室に、またあの音が!」って。
その笑顔が見たい。伸司が思うことは、ただそれだけだ。
ころんころんころん、ころんころんころん・・・プスン。
運転手さんがキーを回し、エンジンが停止した。不意に訪れた静寂。
けれど、伸司のレコーダーの中には、確かにその音が刻まれている。
そして目の前には、新たな心臓を持ったドナーがいる。
部室のエンジンの復活。
因幡たちが去り、伸司たちが引き継ぐ、新しいダイヤグラム。
終わりと始まりが交差する、春のダイヤ改正。一つの終着駅は、一つの始発駅だ。
伸司は、暗闇に佇む部室に向かって、小さく呟いた。
「・・・待ってろよ」
夜風が、桜の蕾を揺らした。
花開く日は、もう明日かもしれない。




