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最後の旅 金蔵寺→琴平

「レールの響きが止むまでは、青春のふりをしよう」


 ・


「琴平まで行こう。せっかくだから、こんぴらさんにお参りしてから帰ろうか」

春の柔らかな日差しが、土讃線の車内に差し込んでいる。窓の外には、讃岐平野ののどかな田園風景が広がっていた。伸司の提案に、向かいに座る瀬戸は、こくりと小さく頷いた。

「それなら、私、灸まん美術館に行ってみたいです」

「お、気が合うな。俺も行ってみたかったんだ。あれだろ?」

伸司がにやりと笑うと、瀬戸もつられたように表情をほころばせる。声を揃えて、二人は言った。

「「どうだ あかるくなつたろう」」

和田邦坊の名を、ナゾに不朽のものにした、愉快な一枚の絵。今の二人には、少しばかり不似合いかもしれない。だが、それもまた乙なもの、というものだろう。そう、伸司も、瀬戸も、それぞれに自分に言い聞かせた。


 琴平駅に降り立った二人は、吸い寄せられるように金刀比羅宮への参道へと足を踏み入れた。土産物屋が軒を連ね、観光客で賑わう参道を抜け、長い長い、とても長い石段を登り始める。一段、また一段と、石段を登るごとに、瀬戸の口数は減っていった。伸司もまた、口を開こうとも、ゼェハァと息をつくのが先で、とても声が出せず、二人してだまったまま、なんだか黙々と前を見つめて歩を進める。

本宮まで登りつめ、二人並んで柏手を打つ。何をお願いしたのか、お互いに尋ねることはなかった。ただ、拝殿前の広場から、眼下に広がる讃岐平野と、綺麗な円錐形を描く讃岐富士、その絶景をしばらくの間、二人言葉もなく眺めていた。風が、汗ばんだ額を心地よく撫でていく。


「さて、と」

先に沈黙を破ったのは伸司だった。

「美術館、行くか」

「はい」

瀬戸は短く答えると、伸司に背を向けて、再び石段を下り始めた。その小さな背中が、変に頼りなく見えて、伸司は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


 ・


 灸まん美術館は、こんぴらさんの喧騒から少し離れた場所に佇んでいる。館内に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が二人を包む。


 「どうだ あかるくなつたろう」、正式な画名は「成金栄華時代」という。


にこにこと、お札-現在の貨幣価値で30万円程度だそうだ-を燃やして明かりを取る男の絵は、今も変わらない諧謔を伝える。片頬に人差し指を添えて、しばらくその絵を眺めていた瀬戸は呟いた。

「なんていうか、よく考えると、いい人かもですね。このおじさん」

「まあ、暗いと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけちゃった人だよな」

「おお、マザーテレサ」

「成金だけどな」

「この、仲居さんは、やっぱ買われちゃったんですかね」

「成金だからな」

「・・・わたしも、あかるくなれるかな」

「お前はいつも明るいよ」


 ・


 美術館からの帰り道。金倉川のほとりを、二人は並んで歩いていた。日暮れが迫り、空が深い藍色に沈み始めている。街灯が灯り、その反射が、川面にきらきらと揺れる。


ふと、瀬戸が足を止めた。視線の先には、ビルのてっぺんでけばけばしく輝くネオンサイン。「俺のシンデレラ」とある。

「『俺のシンデレラ』だって。いいなあ。わたし、先輩のシンデレラになりたい」

見るや、瀬戸がそんなことを言い始めた。

「あれ、ラブホテルですかね? 行きましょうよ、先輩」

「んな。何言ってんだ。行かないぞ。それに残念、あれはラブホテルじゃない。ソープランドの看板だ」

伸司は、努めて冷静に答える。

「えっ、ソープランド!? うわー、あれが・・・」

瀬戸は、好奇心に満ちた目で、食い入るようにネオンを見つめている。その無邪気さ、というか、なんというかに、伸司はいたたまれなくなる。

「先輩、行ったことありますか? ソープランド」

「あるわけないだろ。健全きわまりない貧乏高校生だぞ、俺は」

「健全な高校生男子だからこそ、興味津々なんじゃないですか?」

からかうような口調だが、その瞳は笑っていない気がする。

「否定はしないけどな。18きっぷで旅するような人間は、そういう興味を金で満たせるほど裕福じゃないんだよ」

そう言って、伸司は自嘲気味に笑った。

「生まれてこの方、そういう相手なんていたことないしな。部長じゃあるまいし」

その言葉に、瀬戸がぴくりと反応した。今まで逸らされていた視線が、まっすぐに伸司を射抜く。

「中学の同級生の相本さんは? そういうお相手じゃなかったんですか?」

「は? なんで矢立が相本さんを知ってるんだよ」

伸司は、心底驚いた顔で瀬戸を見つめた。まさか彼女の口からそんな名前が出るとは。瀬戸は、そんな伸司の反応にお構いなしに続ける。

「そんなことより、先輩、本当に女の子とつきあったことないんですか? ・・もしかして先輩、童貞ですか?」

突然、そんなことを瀬戸が尋ねる。静かな川べりには、あまりにも不釣り合いな、デリカシーのない単語。

「お前なあ、大きな声で何を言ってんだ」

「そっかー、先輩、童貞なんだ。へぇー」

「だから、こんな道端で人のこと大声で童貞呼ばわりするな。泣くぞ」

伸司が顔をしかめると、瀬戸はふっと表情を曇らせる。

瀬戸の胸の奥で、ころんころんと鳴り続けていたはずのあの音には、もうキリキリと、嫌な雑音が混ざっていたのかもしれない。


「そっか。ごめんね、ごめんなさい・・・せんぱい。 先輩・・・あのね、あの、わたし、わたし・・・」

じわりと、瀬戸の大きな瞳から涙がにじむ

「わ、ど、どうした? そんな泣くようなことじゃ。いや、冗談だって。お前を責めてるわけじゃなくって・・・」

あわてて思わず瀬戸を慰める声をだした伸司が、瀬戸の顔を見る。彼女の頬にぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちはじめた。

「ごめんね、先輩。私が泣くことなんかじゃないのに。ごめんね」

瀬戸は、伸司の袖の裾をぎゅっと掴んだまま、俯こうともせず、涙に濡れた瞳でじっと伸司を見つめ続ける。


「先輩。今日は、一度も、わたし、撮ってくれませんでしたね。」

「え? あれ? そうか? そうだったか?」

泣き顔のまま、瀬戸は唐突に、そんなことを話し始める。なにか笑うように、ひきつるように瀬戸の顔が歪む。

「今日のわたし、もう綺麗じゃ、ないんですね。先輩には、わかるんだ。って、ちゃんと、見えるんだって、わかりました」

困ったような笑ったような表情のまま、そんな事を話し始める瀬戸の頬を、次々と涙が伝う。それが、なんだかあまりにも痛々しくて、伸司は目を逸らしたくなった。

つづけようとする瀬戸の言葉が、ところどころつかえて、細くとぎれがちになる。

「き、昨日の、卒業生追い出し会、先輩、なんで来てくれ、なかったの」

恨みがましい声だった。

「私、お酒、飲んじゃって、よく、よくわかんなくなって。気が、ついたら、裸で、ベッドの上にいて、目の前に部長がいて・・・おも、重い、ずんって痛みが、お腹の下からして・・・」

瀬戸の、か細い独白が続く。まるで歯の根が合っていない声。

「これって、いったい、なんなんだろって、嘘だよねって。だって、だってなんで、私の前にいるのが、先輩じゃなくて、部長なんだろう、なんて思って。そう思ったら、その場で吐いちゃって・・・ぐずぐず泣くしか・・・できなくなって・・・だって、ちがう、なんで、ちがう、どうしてって」


 話しているうちに、瀬戸の言葉は嗚咽に変わっていく。膝が崩れるように伸司に倒れかかる。瀬戸の両腕が伸司を掴む。

「わたし、、、わたし、はじめては、せんぱいがよかった。せんぱいと、はじめてどうしの、ぎこちない、えっち、したかった」

慟哭し続ける瀬戸。伸司は、しばらく、瀬戸の話している事の、意味がよくわからなかった。何も反応できなかった。何も言えず、ただただ黙って、それを聞いていた。じわりと、伸司の頭の中で、言葉の意味が形を成していく。唇を固く噛みしめる。やがて、なにか激しい怒りと、無力感と、そして、目の前の少女へのどうしようもない愛しさが、胸の中でぐちゃぐちゃに渦を巻いた。思わず瀬戸の肩に回し、強く引き寄せた伸司の両腕に力が入る。


 唐突に、瀬戸の嗚咽が止まった。


「先輩、私・・・わたし、あの女の子になりたかった! 先輩が撮ってくれた、あの日、桜の光の中にいた、あの女の子に、ずっとなりたかったのに・・・!」


 噛みつくような、悲痛な叫び。


「もうなれない、もうなれないんだ!」


 伸司の胸にすがり、顔をうずめる。


「なのになんで、なんでこんなに先輩が恋しいのか、おしえてよ先輩・・・」


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