第七旅 再びの紀瀬野鉄道
九月も半ばを過ぎたというのに、太陽はまだ夏休み気分が抜けていなかった。
じりじりとLE-Car IIの天井を焼く日差し。まとわりつく湿気。大阪第一産業高校の校庭の隅に鎮座するレールバス、もとい鉄道研究会部室の車内は、今日もまあ、やっぱり暑い。
外されたエンジンに代わって取り付けられた、電動コンプレッサーのおかげで、冷房は静かに稼働している。してはいるのだが、日差しで送り込まれる熱量に、部屋から汲み出される熱量が追いついていないようで、どうも車内はオーバーヒート気味だ。
「あーー、もう無理。溶ける。わたし、ミントアイスみたいにどろどろに溶けて液体になる」
長机に突っ伏した恵留麻が、うめき声なのか何なのかよくわからない音を立てた。その隣で、矢立瀬戸は、机に広げた参考書と睨めっこを続けている。しかし、その集中力もそろそろ限界らしい。
「恵留麻、アイスの話はやめて。食べたくなる・・・」
「だったら、食べに行こうよ。だって瀬戸、ぜんぜん休憩してないじゃん。転科試験、もうすぐだからって、根詰めすぎだって」
「だって、だって・・・」
瀬戸の言葉が歯切れ悪く消えていく。鉄道科から普通科への転科。それは、この学校において、決して珍しいことではない。むしろ、それが出来る人間はみんなやる、近年では一般的な風潮だった。
かつての国鉄、今のJRを始めとした鉄道会社、あるいはその関連会社への就職を目指す生徒たちのための、専門学科。それが鉄道科だ。しかし、今や現実は厳しい。鉄道会社は鉄道オタクを敬遠する、なんていう話も、まことしやかに囁かれ、また、もう鉄道会社そのものが、どんな大手であっても、将来性のある会社とは見做されていない時代だ。一生の仕事に鉄道マンを選びたい。そんな生徒はいなくなり、多くの鉄道科の生徒が、半年に一度の転科試験を受けて、大学進学を目指せてより「潰しが効く」、普通科へと鞍替えしていく。
瀬戸も、恵留麻も、その流れに乗ろうとしていた。
「鉄道科の女子なんて、普通科の男の子と喋ってるだけでウザがられるのよ。太一が何も言わないで一人先に転科してった時なんて、廊下にあいつ呼び出して、ちょっと喋ってるだけで、普通科の女から『この腐れマxコバッヂ(動輪マークの鉄道科襟章を付けた女生徒の意)が、何うちらのナワバリの男に手ぇ出してんの』って感じのイヤな目で見られたし」
いつだったか、副部長の赤石川摩耶が、長い黒髪をかきあげながら、そう言ってため息をついていたことを思い出す。滝川みどりが「摩耶せんぱい、そ、そんな言葉使い、お嫁に、お嫁に行けなく、なっちゃいます・・!」と、あわあわと手を振って諫めていたりもしていた。
彼女も、部長の因幡太一も、元は鉄道科からの転科組だ。あの時の摩耶の言葉が、瀬戸の頭の中でぐるぐると回る。別に、普通科の男子とどうこうなりたいとか、そういうのが目的なわけじゃない。でも。
「ま、女子は普通科に行きたがるもんやろ。その方が、何かと『普通』でいられるしな」
パイプ椅子にふんぞり返り、鉄道雑誌の新刊をめくりながら大井誠が言った。彼の言葉は、諦観と、いっそ晴れやかな響きさえ含んでいた。
「セイさんは、転科、しないん、ですか?」
部会のない日なのに、珍しく早くから部室に顔を出していたみどりが、おずおずと尋ねる。
「俺か? 俺はええねん。こっちの方が性に合っとる」
「ヤマくんも、ですよね?」
「僕は、まあ、スジ読んでる方が楽しいからな」
時刻表を広げていた山上正吾が、眼鏡の奥の目を細めた。
そんな大井たちのやり取りを、播磨伸司は少し離れた場所から、ぼんやりと眺めていた。カメラの手入れをするふりをしながら、彼の視線は、無意識のうちに参考書に向かう瀬戸の横顔を捉えている。
(最近、あんまり喋れてないな)
2学期になってから、瀬戸は部活に来ても、こうして机に向かっていることが多かった。以前のように、屈託なく笑う顔を見ることがめっきり減っているように思える。曇っているように見える横顔。伸司の胸がもどかしさで満ちる。
「よし、決めた!」
不意に、因幡部長が立ち上がって、パン、と柏手を打った。
「伸司、明後日、僕に付き合え。二人で行くぞ」
「え、どこにですか?」
「紀瀬野。」
その単語に、部員たちの視線が一斉に集まる。紀瀬野鉄道。この夏、鉄研の部室からエンジンを譲り受けた、あのローカル私鉄だ。
「例の、部室のエンジンを積んだLE-Car II、いよいよ試運転らしい。帆足さんから連絡があってな。特別に撮りに行かせてもらえることになった」
「「おおーっ!」」
「でも、明後日なんだ」
「そう、平日だ。休まなきゃならん。っていうか・・・」
部員全員の視線が、長机にへばりついてる一年女子の二人組に集まった。
「転科試験の日か・・・」
「よりにもよって」
「でも、なんで僕がお伴なんです?」
「セイはビデオカメラ触りたがらないし、お前が一番、録画機材の扱いに慣れてるだろ。それに」
因幡は、にやりと笑って続けた。
「瀬戸ちゃんに、聞かせてやりたいだろ?」
「・・っ!?」
図星を突かれ、伸司は言葉に詰まる。顔が、耳が、熱くなるのがわかった。
「そういうのじゃないです!」
そんな言葉が、かろうじて口から飛び出した。しかし、その声は、自分でも情けないくらいに上ずっていた。部員たちの生温かい視線が、ぐさぐさと突き刺さる。
そんな伸司の狼狽ぶりに気づいているのかいないのか、参考書から顔を上げた瀬戸が、ぱあっと表情を輝かせた。
「ほんとですか!? 部長、先輩、お願いします! あの子の音、とってきてください!」
久しぶりに見る、曇りのない、太陽みたいな笑顔。
それだけで、伸司の心は決まった。まあ、最初から迷ってはいなかったが。
・
がらんとした平日の昼間の紀瀬野線は、前と同じように、気の抜けたのどかな空気を乗せて走っていた。
伸司と因幡は、ボックスシートに向かい合って座った。伸司の膝の横には、大切にクロスでくるまれた、ビデオカメラとフィールドレコーダーの入ったバッグ。彼は時折、そのバッグを撫でるようにして、中の機材がちゃんと収まっているかを確認していた。
「そんなに心配しなくても、大丈夫だって。いつものやつだろ?」
因幡が、面白そうに伸司の顔を覗き込む。
「いや、でも、今回は失敗できないんで」
「瀬戸ちゃんのため、だもんな」
「・・だから、そういうのじゃ、」
「はいはい」
因幡は、からかうような口調を収め、ふっと真面目な顔になった。
「お前さ、瀬戸ちゃんのこと、どう思ってるんだ?」
直球の質問。伸司は、車窓の景色に視線を逃がした。流れていく田んぼに、一面の稲穂が波を打つ。
「どう、って言われても。大事な、かわいい後輩、ですけど」
「ふぅん」
「それに、撮ってて楽しいです」
「うん」
「あいつをファインダー越しに見てると、なんていうか、きらきらしてて。 絵が光って見える、というか」
そこまで言って、伸司ははっと我に返った。何を口走っているんだ、自分は。
「今の、忘れてください」
「忘れないね」
因幡は、本当に楽しそうに笑っていた。
「まあ、お前の気持ちは、だいたいわかった。今は、それで十分かもしれんが」
何が十分なのか、伸司にはさっぱりわからなかったが、
「それは、そういうのじゃない、て事なのか?・・・まあ、僕も人の事どうこう言えたもんじゃないか」
そう言って因幡も、伸司の見ている方向を辿るように、車窓の景色に視線を飛ばした。
紀瀬野鉄道の小石口駅は、夏の終わりの気だるい日差しの中で、静かに二人を迎えた。
案内された機関庫の中には、ふたたび、紀瀬野鉄道の白いカラーリングのLE-Car IIが停まっていた。あの日、操車場にぽつんと取り残されていた時と違い、どこか誇らしげにも見える。
「よく来てくれたね。まあ、見ててくれるか」
ツナギを着た、人の好さそうな整備士長が、にかりと笑う。
やがて、運転席に乗り込んだ整備士、台車の横の操作ボックスにとりついた整備士が、合図を送りあい、スターターが回される。
一瞬の静寂。そして。
うぉおおおおおおんーーここここんっ。ぐぉん。
―ころん、ころん、ころんころん、ころんころんころん。
懐かしい、愛らしいアイドリング音が、機関庫に響き渡った。部室で聞いていた音と、まったく同じ。でも、どこか違う。音の輪郭がなんだかはっきりとしているような、そんな気もする。
伸司は、三脚に据えたビデオカメラの脇から、フィールドレコーダーに繋がれたマイクを、夢中でエンジンに向けた。マイクが、その音の粒を一つひとつ、丁寧に拾っていく。イヤーモニターから聞こえる音は、あまりにも鮮明で、まるで自分の心臓の鼓動が、あのエンジンと共鳴しているようだった。
やがて、LE-Car IIはゆっくりと動き出す。構内の短い線路を、しかし確かな足取りで走っていく。
グオン、と唸りを上げるエンジン。車輪がレールを掴む音。軽快なジョイント音。
そのすべてが、一つの交響曲となって伸司の耳に流れ込んでくる。
伸司は、ただ、その音と姿を記録し続けた。この感動を、少しでも損なうことなく、矢立に届けなければ。その一心で。
・
数日後の放課後。
鉄道研究会部室の机に置かれたノートパソコンの画面を、瀬戸は食い入るように見つめていた。周りには、他の部員たちも集まってきている。
スピーカーから、あの日伸司が録音した音が流れ出す。
ころんころん、というアイドリング音。
瀬戸の目が、みるみるうちに潤んでいく。
画面の中で、白いLE-Car IIが走り出す。力強く、滑らかに。
瀬戸の目から、涙がこぼれそうになる。
「ありがとうございます、先輩」
かろうじて絞り出した声は、震えていた。
「この音、また、聞かせてくれて」
それは、ただの感謝の言葉だったのかもしれない。でも、伸司の胸には、その言葉が温かく、そして少しだけ切なく響いた。
・
サプライズは、突然やってきた。サプライズであるから。
紀瀬野鉄道から、「修理完了のお披露目会をやるので、ぜひ皆さんで」という正式な招待が届いたのは、それから1週間ほど経った、十月の声を聞いた頃だった。
今度は、転科試験も無事に(?)終えた一年生二人も加わり、鉄研部員総出での訪問となった。
「いやあ、まさかこんな立派な会やとはな」
「『大阪第一産業高校 鉄道研究会御一行様』だって。なんかすごいぞ」
小石口駅の駅舎のボードに掲げられた歓迎の文字を見て、部員たちがはしゃいでいる。
機関庫の前から、操車場側の方へと案内されると、そこには小さなセレモニー会場が設えられていた。地元の名士らしき人数名や、鉄道ファンたちが、カメラを手に待っている。
やがて、紀瀬野鉄道の社長がマイクの前に立ち、挨拶を始めた。エンジン提供への感謝、そして、あの小さく懐かしい車輛は、イベント用車輛として、再び本線を走るのだと。
「それでは、大変お待たせしました」
社長の声とともに、機関庫の重い大扉が、ゆっくりと、本当にゆっくりと開かれていく。
隙間から差し込む秋の柔らかな光。その光の中に、見慣れたシルエットが浮かび上がる。
「「「あああああっ!!!」」」
部員たちの誰からともなく、驚きの声が上がった。それは、歓声であり、感動の叫びだった。
午後の光を浴びて、ゆっくりと姿を現したLE-Car II。
その車体は、鉄研部室と寸分違わぬ、クリーム色に塗り直されていたのだ。
側面に描かれた、小さな紀瀬野鉄道のロゴマークだけが、それが自分たちの部室ではないことを示している。
紀瀬野鉄道からの、最大限の感謝と敬意を込めたサプライズ。
その意味を理解した瞬間、部員たちの間から、拍手が沸き起こる。
「マジか・・・やってくれるぜ、、、」
因幡部長の声が、感動に震えている。
「なんやこれ、泣かせにきとるやないか・・・」
大井が、ぐしぐしと目元をこすっている。
やがて、大扉の向こうに現れた、「部室」の、スターターが回される。
響いてくる、あの音。
ぐぉんーーここここんっ。
― ころん、ころん、ころんころん、ころんころんころん、ころんころんころん。
伸司は、ただ、呆然とその光景を見つめていた。ファインダーを覗くことさえ忘れて。
その、隣で。
「う・・・うわああああああああん!!」
堰を切ったように、瀬戸が泣き出した。子供のように、声を上げて。その瞳からは、大粒の涙が、後から後からとめどなく溢れ出してくる。
「瀬戸ちゃん、大丈夫?」
摩耶が、そっと瀬戸の背中を抱きしめる。恵留麻が、ぎゅっとその手を握る。みどりが、しずかにハンカチを差し出す。
伸司は、何もできなかった。ただ、泣きじゃくる彼女の横顔を、目に焼き付けることしか。
クリーム色の車体が、秋の日差しを浴びて、優しく輝いている。瀬戸の涙を、そっと拭ってくれているかのように。
・
帰りの列車は、夕焼けに染まっていた。
あの後、お披露目会は盛況のうちに終わり、部員たちは、生まれ変わったLE-Car IIの試乗もさせてもらった。窓から入る風は、秋の匂いがした。
今は、心地よい疲労感と、感動の余韻だけが、車内を満たしている。
瀬戸は、窓の外を流れる景色を、静かに見つめていた。涙は流れていない。
きっと、自分が思っていたよりも、ずっと大事になっていたんだ、あの音。
ただの、機械の音。
でも、あの音は、きっとわたしの、16歳の夏そのものだったんだ。
部室の机に頬杖をついて聞いた、エンジンの鼓動。
みんなの笑い声と混じり合った、優しい響き。
先輩は、わたしのために、あの音を、とりに行ってくれた。
わたしの大事なもの、きっと、私以上にわかってくれてたんだ。
そして、今日の光景。クリーム色のあの子。
不意に、瀬戸の脳裏に、あの日の記憶が蘇る。
鉄研に入部した最初の日。
吹き込んできた春風。舞い散る桜吹雪。
そして、カメラを構える伸司の、真剣な眼差し。
『すごくきれいだったから、つい』
そう言って見せてくれた写真の中の私は、自分でも見たことがないくらい、きらきらと輝いていた。
‐先輩の大事なもの。
それはきっと、あのカメラが切り取る景色。
あのファインダーの向こうに見える世界。
そして、きっと、その中にいる誰か。
伸司が、本当に撮りたいと願う誰か。
決めた。
わたしが、なるんだ。もう一度。
ううん、何度でも。
あの日の写真の、あの女の子に。
先輩のファインダーの中で、一番輝く、わたしに。
それが、わたしの恋の始まり。
それが、わたしの、新しい音。
ころんころんころん。
瀬戸の胸の奥で、今また、あの音がする。
夕日に照らされた瀬戸の横顔を、伸司はそっとカメラに収めた。カシャリ、と小さなシャッター音が響く。
その音に気づいた瀬戸が、ゆっくりと振り返る。
そして、はにかむように、ふわりと微笑んだ。
その笑顔は、どんな景色よりも鮮やかだった。




