第五旅 夏の特別臨時列車
大阪第一産業高校は、夏季休暇期間に入った。
夏休みの部室。部活動は自由参加で、誰かが部室に居るかもしれないし、いないかもしれない。
そんなある日、伸司が部室に来てみると、中には、滝川みどりがひとり、部のノートパソコンで、部の活動記録を読みふけっていた。
「おう滝川、ちーす」
適当な挨拶をしたあと、適当なパイプ椅子に座ると、適当に目をつぶって、適当に買ってきたペットボトルを、適当にぐいと煽る。
すぐ間近で名前を呼ばれた。
「ねえ、ねえ、伸司くん」
声のした方に、伸司は顔を向ける。
滝川みどり。普通科2年生、伸司とはクラスが違うが、同じ鉄道研究会に所属する、同級生の女子部員。
いつの間にか席を立っていた彼女は、伸司が座るパイプ椅子のすぐ隣までくると、テーブルの角に腰掛けて、伸司の方をじっと見つめていた。少し首をかしげた拍子に、肩までのセミロングの髪が、さらりと揺れる。
普段はあまり自己主張をしない、おとなしい性格の彼女が、改まって自分に話しかけてくるのは珍しい。伸司は少しだけ身構えた。
「私の、写真、撮って、くれないかな?」
ぽつり、ぽつりと、言葉を区切るように、彼女は言った。
その言葉は、夏のけだるい空気の中、滲むように届く。
「写真?」
「うん。写真」
伸司は、思わず聞き返した。
写真を撮る。それは、伸司にとって日常の一部だ。写真部に籍を置き、常にカメラを持ち歩き、風景を、列車を、そして時には、この部室に集う仲間たちをファインダー越しに覗いてきた。
だが、こうして真正面から、「撮ってほしい」なんて頼まれることは、そんなにない。
「なんでまた、急に」
「ううん、急じゃないよ。ずっと、前から、考えてたの」
みどりは、少し俯いて、両手の指を組んだり裏返したりさせている。その仕草が、彼女の緊張を物語っている。
「やっぱり、自分の、一番綺麗な姿って、いまのうちに、撮っておきたいから」
そう言って、彼女は顔を上げた。
「摩耶せんぱいの写真も、瀬戸ちゃんの写真も、すごく綺麗で、だから、できれば、私も、伸司くんに」
赤石川摩耶。腰まで届く長い黒髪の、楚々として優美な容姿を持つ、美しい副部長。
矢立瀬戸。大きな瞳、屈託のない笑顔が魅力的な、元気いっぱいの後輩。
伸司が撮った、彼女たちの2枚の写真は、部室の壁に貼られたり、鉄研の活動記録としてファイルされたりしている。どちらも、被写体の魅力を十分引き出した、確かによく撮れた一枚だと、伸司自身も思ってはいる。
みどりは、それらを見て、自分も、と思ったのだろうか。
こんなこと言ったらなんかアレかもしれないけどさ、と伸司は内心で思う。容姿の衰えが見え始めるような、春乃先生とかぐらいの、三十路前後の女性がそういうことを言うならわかる。いや、春乃先生はぜんぜん衰えなんて見えてないけど。
滝川みどり。彼女はまだ、花の盛りの十七歳だ。そんな彼女が、なぜ今、自分の姿を残したいと願うというのか。
「わたし、摩耶せんぱい、みたいに、美人じゃないし」
ぽつりと彼女が呟いた。自嘲するような響きはない。ただ、事実を淡々と述べているかのようだ。
「でも、その、おっぱいは、大きいから」
ぶふぉっ、と伸司は、吹き出しそうになるのを、必死でこらえた。
なんだ、その、身も蓋もない自己分析は。
確かに、彼女の胸部装甲が、同年代の女子に比べ非常に充実していることは、当校に所属する男子生徒達の間で、あまねく知られた赫赫たる事実である。だが、それを本人の口から、こんなにもストレートに聞かされるとは。
「水着、とか、どうかな?」
畳みかけるような提案に、伸司の思考は完全に停止した。
水着。
みずぎ。
ミズギ。
脳内で、その三文字がリフレインする。
目の前にいる、おとなしくて、いつも物静かな同級生。その口から飛び出した単語の破壊力。
「あ、のなぁ、滝川、・・・そういうのは、もっと、こう、彼氏とかに頼むもんじゃないのか」
「彼氏、いないもん」
「そ・・・そうか」
「それに、伸司くんが、撮るから、意味があるんだよ」
まっすぐな視線が、伸司を射抜く。その瞳の力強さに、伸司はたじろいだ。
「だって、伸司くん、写真部には、作品、出してるの?」
「いや、してないけど・・・」
伸司の主戦場は、あくまでこの鉄道研究会だ。写真部に籍は置いているものの、そちらの活動にはほとんど顔を出していない。いわゆる幽霊部員というやつだ。
「それは、それで、よく、ないんじゃない? 私の、水着写真、とか、提出、したら、だめ?」
悪魔の囁き。
いや、天使の囁きか。
滝川みどりの、水着写真。それを、写真部のコンテストなりコンペなりに提出する・・・。
脳裏に、写真部の部員や、先輩たちの、驚きの表情が・・・
「・・・そういうのじゃないんだよ」
伸司は、かぶりを振って、邪念を追い払った。いつもの口癖が、かろうじて理性を繋ぎとめる。
「俺は、そういう、女の子を撮ってどうこう、っていうのじゃないんだ」
「ふぅん」
みどりは、納得したのかしていないのか、曖昧な返事をすると、ふい、と伸司から視線を逸らした。
夏の午後の、静かな時間。
気まずい沈黙が、二人を包んだ、その時だった。
「せんぱーい! アイス食べに行きましょー!」
タタタッ、と勢いよくステップを駆け上る足音がして、夏の太陽を背負ったような、元気な声が飛び込んできた。
声の主は、千代田恵留麻。鉄道科の一年生。瀬戸の親友だ。ベリーショートの黒髪を揺らし、勝気そうな瞳をきらきらさせている。
「あ、伸司先輩もいたんですね! ちわーす!」
「お、おう、千代田」
「こんにちは。恵留麻ちゃん」
恵留麻の登場に、みどりは膝を揺らして、座っていたテーブルから降りる。
「二人して、なんか深刻な顔しちゃって、どうしたんですか? まさか、愛の告白とか?」
「ちがうわ!」
「ちがうよ」
二人の声が、綺麗にハモった。
恵留麻は、きょとんとした顔で二人を見比べると、すぐに何かを察したように、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふーん、なるほどねぇ」
何がなるほどなのか、さっぱりわからない。
「で、なんの話してたんですか?」
ずけずけと核心に迫ってくる。
伸司がどう答えようかと言葉を探していると、隣でみどりが、ぽつりと呟いた。
「伸司くんに、私の写真、撮ってもらおうかなって」
「へえ、写真! いいじゃないですか! 私も撮ってほしいです!」
恵留麻が、顔を輝かせる。
「どうせなら、面白いの撮りましょうよ! ね、先輩!」
「面白い、の?」
「そう! 例えば、ほら、水着とか!」
恵留麻の口から、いとも簡単にその単語が飛び出した。
伸司は、本日二度目の衝撃に、言葉を失う。
みどりは、目を丸くして恵留麻を見ていたが、やがて、ふっと表情を和らげた。
「あ、それじゃあ、この部室の外、ふたりで、洗おう。ホースで、水掛けて」
みどりが、とんでもないことを言い出した。
部室の外を、洗う。
このレールバスの車体を、水着姿の女子高生二人が、ホースで水を掛け合いながら、洗う。
それは、いわゆる。
「ほら、水着洗車ぐらびあって、あるじゃない? あれはどう?」
ある。確かにある。
男たちの夢と希望と煩悩が詰まった、魅惑のエンターテインメントが、ある。
だが、それは、専門の特殊な訓練を受けた優秀なプロフェッショナル達によって、定められた環境下できわめて慎重に行われるべきものであって、うら若き女子高生が、夏休みの午後の校庭の隅で、気まぐれで実行していいものでは、断じてないはずだ。
「それ、めっちゃ面白そうじゃないですか! やりましょうよ、先輩!」
恵留麻が、目を輝かせてみどりの提案に飛びついた。
どちらも伸司の意見など聞いてこない。話は、あれよあれよという間に進んでいった。
部室の網棚の上に置かれたケースから、なぜか常備されているらしいホースが取り出され、校庭の隅にある水道の蛇口に繋がれていく。みどりと恵留麻は、それぞれが持参していたらしい水着に着替えるため、部室の運転台スペースをカーテンで仕切り、即席の更衣室を作り上げた。
伸司は、ただ、呆然と、その手際の良さを見つめていた。
(なんで、こんなことに・・)
自問自答しても、答えは出ない。
でも、やるしかない。やるしかないだろう。
伸司は、部室の机の上に放り出していたショルダーバッグから、使い込まれて角の塗装が薄くなったいつもの愛機を取り出した。
電源を入れる。
レンズカバーを開く。
T*コーティングの、輝く澄んだ瞳。カール・ツァイスのバリオ・ゾナー・レンズが姿を表わす。
液晶モニターに映し出される夏の光。
カシィッ!
ファインダーポップアップスイッチが引かれ、伸司のもう一つの網膜が立ち上がる。
やるしかない。
いや、撮るしかない。
写真家としての、血が騒ぐ。
これは、単なる悪ふざけではない。
これは、一つの、真摯な作品制作なのだ。
伸司は、自分にそう言い聞かせた。聞かせたったら聞かせた。
「お待たせしましたー!」
恵留麻の元気な声とともに、カーテンが開かれる。
そこに立っていたのは、夏の女神、二人。
みどりは、シンプルなネイビーのビキニ姿だった。布地の面積はやはり不足気味で、彼女の豊かな胸のボリュームを強調している。少しはにかんだように頬を染め、視線を泳がせる仕草が、妙に色っぽい。
一方の恵留麻は、鮮やかな黄色のバンドゥビキニ。健康的に焼けた肌とのコントラストが眩しい。自信満々の笑顔で、腰に手を当ててポーズを決めている。
対照的な二人の姿に、伸司は息を呑んだ。
ファインダーを覗く。
そこに広がるのは、紛れもない、夏の光景。
きらきらと輝く、これこそが、生命の躍動なのだ。
なのだっつったらそうなのだ! そういうことにしてくれ。
「じゃ、始めますか!」
恵留麻が、ホースのノズルを握り、勢いよく水を噴射した。
放物線を描いた水が、クリーム色の車体に降り注ぐ。
じゅわじゅわ音を立てて、熱せられた鋼板の上で水が蒸発していく。
夏の匂い。水の匂い。
そして、少女たちの笑い声。
「きゃー、冷たい!」
「タキちゃん先輩、そっちもちゃんと洗ってくださいよー!」
二人は、デッキブラシとスポンジを手に、車体を磨き始める。
最初は、ただ真面目に洗車をしていた二人だったが、やがて、どちらからともなく悪ふざけが始まった。
恵留麻が、ホースの水を、みどりの背中に向けて噴射する。
「ひゃっ!?」
驚いたみどりが、仕返しに、泡だらけのスポンジを恵留麻の顔に押し付ける。
「もう、先輩!」
きゃっきゃと、鈴を転がすような笑い声が、夏の空に響き渡る。
水しぶきが、太陽の光を反射して、虹色の粒子となってきらめく。
二人の肌を、髪を、水滴が伝っていく。
伸司はシャッターを切り続けた。
高速で切り替わるフォーカスポイント。
連写の小気味よい響き。
ファインダーの中の二人は、夏の光を全身に浴びて、水と戯れている。
きらきらと水しぶきをまとった、夏の生足魅惑のマーメイド達の写真が、こうしてできあがった。
・
「うわ、なにこれ、めっちゃ良くないですか!?」
部室に戻り、伸司のカメラの液晶モニターを覗き込んだ恵留麻が、歓声を上げた。そこには、先ほどまでの光景が、鮮やかに切り取られている。
水しぶきの一粒一粒までが、くっきりと写し出されている。
「すごい・・・。わたし、こんな顔して、笑うんだ・・・」
みどりが、感心したように、ぽつりと呟いた。
モニターの中の彼女は、今まで、彼女自身さえ見たこともないような、屈託のない笑顔を浮かべている。
「PCの大きい画面で見てみよう」
伸司は、カメラと部室のノートパソコンをケーブルで繋いだ。
モニターに映し出された写真は、小さな液晶で見るよりも、さらに迫力があった。
夏の光、水のきらめき、そして、二人の少女の生命力。
全てが、絵の中に余さず表現されている。我ながら、会心の出来だ。
伸司が、満足感に浸っている、その時だった。
「ただいまー。・・って、なんやこれ」
ドタドタとステップを上がる音が響き、セイさんこと大井誠が入ってきた。
彼の後ろから、ぞろぞろと、他の部員たちも顔を覗かせる。部長の因幡、副部長の摩耶。二年生の山上にヒロ。そして大きな瞳をぱちくりさせながら、こちらを見ている、矢立瀬戸。
どうやら、OB帆足さんの喫茶店、「稲田信号場」に行っていたらしい、全員が、勢ぞろいで帰ってきたのだ。
「なんやこの写真。えっらいエッチいことしとるやないの」
大井が、にやにやしながらパソコンの画面を覗き込む。
「なんちゅーか、苛立たしいほど上手いな、伸司ぃ」
他の男子部員たちも、口々に感想を漏らす。
「おお、これはなかなかの芸術作品」
「タキちゃんと恵留麻ちゃん、すごい・・・」
摩耶は、呆れたように、やれやれと首を振っている。
「あんたたち、まったく、ろくでもないことを・・・」
そんな喧騒の中、一人だけ、何も言わずに画面をじっと見つめている矢立瀬戸。
ぶすっと唇を結び、その大きな瞳を半眼にして、写真を見つめている。
まずい。
なんだか直感的に、伸司は直感的にそう思った。
「あー・・・」
伸司は、なんとかこの場を取り繕おうと、頭を必死に回転させる。
そして、最悪の一手を放った。
「矢立の水着姿も、撮るか?」
しまった。
もう遅い。
軽軽軽蔑蔑蔑
瀬戸は、じろっと、軽軽軽蔑蔑蔑 みたいな顔で伸司を睨みつけた。
軽軽軽蔑蔑蔑
「そういうんじゃないですっ」
ぷい、と顔を背け、ずんずんと足音を立てて、ロングシートにどかっと座り込んでしまう。
「瀬戸ちゃん、ちがうの」
みどりが、そそそと瀬戸の隣に。
「わたしがね、伸司くんに、どうしても、撮ってほしいって、お願いしたの」
「タキ先輩から、撮ってって頼んだってことですかっ?」
やや裏返り気味の瀬戸の声。みどりは、こくこくと小さく頷く。
「うん。あの、ごめんね、瀬戸ちゃん」
「う、なんか、私に謝られても、困るんですけど・・」
瀬戸は腕を組み、むすっとした顔。みどりは、さらに小さくなっている。
「いやー、でも、タキちゃんの頼みやったら、伸司もそら、よう断られへんやろ」
大井が、妙に納得した顔でうなずく。部長の因幡も、いつもの涼やかで誠実そうな微笑を浮かべて、うんうんと頷いた。
「まあ、芸術のためってやつだしな」
「そうそう、青春の一ページだし!」
男子部員たちが、なぜか無窮の団結力を発揮する。
瀬戸は、ちらりと伸司の方を睨む。
「先輩、ほんとに、やましい気持ちとか、なかったんですか?」
「は、はい。そ、そういうのでは、ないです」
「・・で、結局、誰が一番ノリノリだったのよ?」
摩耶が、呆れ顔で尋ねる。みどりは、恵留麻の方をちらりと眺めた。
「え、えっと、たぶん・・・」
「えっ、わたし?」
「恵留麻ちゃん、なんで、水着なんか、持ってきてた、の?」




