第一旅 住道→金蔵寺の旅 5幕
神戸の三ノ宮駅を過ぎると、山陽路を西へ行く電車は、乗客をぐっと減らした。
週末の早朝。窓の外、左手には春の光をたっぷり浴びた大阪湾が広がり。前方には、ぼんやりと明石海峡大橋のシルエットが見えてくる。右手には、須磨の山並みが緑の影を落としている。立ちっぱなしでここまで来た二人だったが、車内の空席が目立ち始めた。転換クロスシートをガタンとボックスにして、伸司と瀬戸は、向かい合って腰を下ろした。
「・・先輩」
瀬戸が、ぽつりと声を落とした。伸司は、淡路島のぼんやりした輪郭から目を離し、正面の後輩に向き直る。どうにも顔色が冴えないように思える。そういえば、こいつは乗り物酔いしやすい体質だったはずだ。早起きのせいか、眠そうで腫れぼったい瞼をしていたし、そのせいで気分が優れない、というか、酔いに追い込まれかけている可能性は高い。車窓の景色を楽しむ余裕も、そろそろ尽きてしまう頃合いかもしれない。
「なんだ?」
「あの、ですね」
瀬戸は、膝の上で握りしめていた両手を、一度ぎゅっとさらに強く握り、そして、ふっと力を抜いた。何か、決心した表情。
「わたし、先輩のことが、好きです」
カタン、ゴトン。
レールの継ぎ目を渡る音が、やけに大きく車内に響いた。伸司は、言葉を失っていた。好き?誰が、誰を? 目の前の、鉄道研究会のかわいい後輩が、自分を?
「・・・矢立」
「はい」
「なんか罰ゲームでもやらされてんのか?」
なかなかに情けない返しだったが、伸司にはそれ以外に言葉が見つからなかった。ありえない。この矢立瀬戸という後輩は、鉄研のマスコット的存在だ。くりくりとした大きな瞳に、人懐っこい笑顔。入部初日に、桜吹雪の中で彼女にレンズを向けた時のことは、今も鮮明に思い出せる。ファインダー越しに見た彼女は、春のすべてを集めて固めたみたいに、きらきらと輝いていた。
そんな瀬戸が、好きとか、誰を?自分を? 鉄研に入り浸っている、鉄道オタク崩れの写真オタクを?
「な! そんなわけ、ないです」
「いやだって、なんでお前、突然そんなこと」
「私にとっては、突然じゃないんですけど」
「部活でもそんな素振りも。普通にしてたじゃないか」
「普通って、普通が何かしりませんけど」
席の背もたれに深く背をあずけて目を閉じ、瀬戸が淡々としゃべる。
「あー先輩、わかった。もしかして先輩、嘘告された経験とかあったりしません?」
伸司はギクリとした。
中学二年の記憶が、不意に脳裏をよぎる。クラスの女子、相本さん。休み時間のたびに、彼女は「播磨くん、好き! あなたの子供が欲しいの!」などと、とんでもない事を伸司に告げては、友達とキャアキャア笑いながら走り去っていく。最初はからかわれているだけだと思っていた。だがそれが何度も続くうちに、伸司は混乱し始めた。もしかして、万に一つ、本気なのでは、と。淡い期待を抱きかけた頃、彼女は親の都合で遠く金沢へと引っ越していった。結局、真相はわからないままだ。伸司の心に懐かしい影がよぎる。少し、瀬戸と面影が似ていたかもしれない。
「私あれ、中学の時、遊びでやっちゃったことあります。えと、私自身がしたことはないんですけど、仲間内で、ジャンケンで負けた子にやらせるって何回か・・・あれは最低だったなぁ、わたしたち」
「やったことあるのかよ・・・」
思わず伸司の心の声が漏れた。
「あのね先輩、嘘告遊びだって、普通、相手をちゃんと選んでやるんですよ。
嘘でしたーってやって、本気で怒ってきそうな男子にやったりしない。冗談わかってくれそうで、なんか安心できそうな、優しそうな男子を相手に選ぶんです。
先輩に嘘告してきた子は、どんな表情でした? いじめられっ子の顔してましたか? 罰ゲームがつらい顔とか、してなかったんじゃないですか? むしろ、きらきらワクワクの顔としてませんでしたか?
その子、ほんとは、先輩に本気にしてほしかったかもしれないですよ?」
瀬戸の言葉に、伸司は思い出を掘り返そうとする。相本さんの表情はどうだっただろうか。彼女はいつも、楽しそうに笑っていた。やっぱりきらきらした目で、伸司を見ていた。けれど。
「まあ、いじめられっ子の女の子にいじめの命令して、嫌われっこの男子に告白させる、みたいのもあるらしいですけども」
「おい・・・」
「でも先輩別に嫌われっことかじゃ、なかったでしょ?そんな感じじゃないもん」
フォローになっているのか、なっていないのか。伸司が言葉に窮していると、瀬戸はふらり、と立ち上がった。
「ごめんなさい先輩、またですけどちょっともう一度、お手洗い行ってきます」
その背中が、やけに頼りなく見えた。
戻ってきた瀬戸の顔色は、明らかにさっきよりも悪化していた。白い頬から血の気が失せ、唇がかすかに震えている。
「大丈夫か、ほんとに顔色わるいぞ」
「大丈夫です、ほんとに大丈夫ですけど、そっち座っていいですか?肩かしてください」
「え、ああ、ああ、かまわないけど、、、」
伸司の許可を得るやいなや、瀬戸は向かいの席から隣へと滑り込んできた。そして、ためらいもなく伸司の肩にこてんと頭を乗せて目を閉じる。いきなりのことに、伸司の心臓が跳ねた。
「腕も貸してくださいね」
有無を言わさず、瀬戸は伸司の右腕を抱きしめた。ワークシャツ越しに伝わる柔らかな感触と温もり。
「矢立、あの、そんなにしたら胸当たるぞ」
「気にしないでください。先輩のこと、ただの大きなぬいぐるみだと思ってますから」
「ええ?あ、ああ」
伸司は曖昧に頷くことしかできない。そんな伸司の戸惑いが伝わったのか、瀬戸はふっと息を吐き、さらに深く体を預けてくる。
「うん、なんか落ち着いてきました。ふふっ、先輩の匂いがする、、、」
「えーと、嫌そうに言ってないから、違うとは思うんだけど、臭いってことか? 今朝出る前にシャワーも浴びてきたし、そんなに匂ったりなんてしてないはずなんだけど」
伸司の言葉に、瀬戸は目を閉じたまま楽しそうに小さく笑った。からかわれているのだろうか。
「ふふ、心配性ですね先輩、大丈夫です。とってもいい匂いです。先輩の匂い、これ、なんの匂いかなあ。洗い立てのシャツの匂いと、なんだろ。赤いスイートピーなら、タバコの匂いだけど、先輩、タバコなんて吸わないですよね」
「当たり前だろ、未成年だ」
「知ってます」
袖にうずまるように身体を預け、ぎゅっと目をとじたまま伸司に頭を擦り付ける。瀬戸の髪が、伸司の肩のあたりでさらさらと揺れる。
「どうですか? 先輩、わたしの匂いはしますか?」
「するする、いい匂いだ。うーんシャンプーの香りかな?」
「私も朝、必死で身体も髪も洗ってキレイキレイしてきましたもん、でも、そうかー、シャンプーの香りかぁ、、、」
瀬戸は、少しがっかりした声で言う。
「なんだ?、シャンプーの香りじゃダメだったか? なんかあの、香水とかつけてきたのか?気付けなくてごめん」
そんな伸司の言葉に、瀬戸はふるふると首を横に振った。
「そーじゃないです。えっとね、こう、私くらいの歳の女の子、いい匂いする子は、なんかすっごいいい匂いなんですよ?。香りがなんか、桃みたいな。タキちゃん先輩とか、抱きつくと、ほんとにいい匂いするんですもん」
「そ、そうか」
伸司の間の抜けた返事に、瀬戸の表情が曇る。期待していた反応ではなかったのだろう。彼女は自嘲するように小さく笑いを含む。
「うーん、そういう匂いはしてなさそうって事は、私はハズレ女ってことですね。私も、自分じゃあわからないけど、少しくらいは、そういういい匂いしないかな、なんて思ってたりしたんだけど、あーあ。やっぱりダメかぁ。そうだよね。自分で自分嗅いでも、さっぱりあんな匂いしないもんなぁ」
瞑った瀬戸の瞼のフチに、涙がにじんでいる。伸司は、そんな瀬戸の様子に、心底焦っていた。まずい。なんだかよくわからないが、泣かせてしまうなんて。どうすればいい。正解の応答はなんだ。
「ハズレ女なんて、そんなこと無いだろ、体臭なんかで、、、いや、なんかで、なんて言っちゃいけないのか、とにかく、矢立もいい匂いだよ。多分シャンプーの匂いだけじゃないよ。お前の匂いだよ。いい匂いだ」
テンパった頭で、なんとか絞り出した言葉。なかなかに支離滅裂だ。だが、その必死さが伝わったのかもしれない。伸司の腕の中の瀬戸が、くすりと笑う気配がした。
「ふふふ、先輩ありがと。わたし、いい匂いです? ホントに?」
顔を上げた瀬戸の瞳は、まだ少し潤んでいたが、そこにはちいさな笑みも浮かんでいた。
「ああ」
肯定すると、彼女の表情は、さらに花が咲くように明るくなった。
「よかった。 ほら、お互いいい匂いがするって思う男女は、遺伝子レベルで相性がいいんだ、っていうじゃないですか。わたしと先輩、相性がいいと良いなって」
「ああ、そうだな」
これ以上彼女を悲しませたくない一心で、伸司は深く考えずに頷いた。その瞬間、瀬戸の動きがぴたりと止まる。
はっと目を開けて、彼女はゆっくりと身体を起こした。そして、至近距離から、射抜くような視線で伸司の顔を覗き込む。
「『ああそうだな』って、そう? 先輩も、先輩とわたし、相性がいいと良いなって、おもったって事ですか?」
なぜか爛々とした輝きがその瞳に宿っている。なんだかさらにまずい。また何かやらかしたのか。
「あ、ああ、そりゃ、悪いよりは良い方がいいだろ、相性ってのは・・」
しどろもどろに言い訳する伸司の言葉を、瀬戸は遮った。
「えー。でもホントにいい匂い? いやほら、さっきトイレでえづいちゃったからー、私、ゲロの匂いしないかな? って」
ゲロ。
その一言が、伸司の思考を完全に停止させた。
なんだって?今、このかわいらしい後輩の口から、なにかおよそ似つかわしくない、破壊的な単語が聞こえなかったか?
「おい、ちょ、おま・・・」
「ちゃんと、口、念入りにゆすいだし、マウスウォッシュでお口クチュクチュもしてきたんだけどー」
悪びれもせず、瀬戸は続ける。その言葉に含まれた「マウスウォッシュ」という単語に、伸司の脳内で、バラバラだったピースが、カチリと音を立ててはまった。
そうだ。さっきから感じていた、シャンプーの香りとは別の、もう一つの微かな匂い。爽やかで、少し薬品っぽくて、どこかで嗅いだことのある、この匂いは。
「あああー、うわそっか、しっくり来た。何だろうと思ってたんだ。そうだよこりゃ。マウスウォッシュの匂いだよなー。それだ」
謎が解けた開放感で、伸司の口がつい滑らかになる。目の前の瀬戸の表情が凍りついていくことにも気づかずに。
「モンダミンの薫る女!矢立瀬戸! つって、うん・・?」
言い切ったところで、伸司はようやく、自分が取り返しのつかないことを口走ったと悟った。
瀬戸は、能面のような無表情でこちらを見ている。じとっと睨みつける瞳は、何の光も映していない。への字に固く結ばれた口元。
「私・・・モンダミン女・・・」
低い声。
「えーと、、」
「・・先輩」
「ど・・どうした?」
「泣くぞ?」
「すまん」
即座に、脊髄反射で謝罪が口をついて出た。
沈黙。
カタン、ゴトン。電車の走る音だけが、気まずい二人の間を通り過ぎていく。
やがて、耐えきれなくなったように、瀬戸がぷっと吹き出した。そして、堰を切ったようにけらけらと笑い出す。
「あはははは!モンダミン女って!ひどい!ひどすぎます先輩!」
涙を浮かべて笑う瀬戸を見て、伸司は心底ほっとしながら、自分の迂闊さを呪った。




