4.誰のもの sideアルベルト
sideアルベルト
目覚めると、朝から屋敷は騒然としていた。
「な、なんだ何事だ?」
廊下を駆ける使用人たちの足音が響き、誰かが慌てて扉を開ける音がそこかしこから聞こえてくる。屋敷全体が蜂の巣をつついたような混乱に包まれていた。
まったく、朝から騒がしい。何事だ? 出て行った使用人たちが戻ってきたのか?
「誰か! 今すぐ来い!」
声を張り上げると、数秒の間を置いて、慌てた様子の使用人が駆け込んできた。
顔色は青ざめ、息も乱れている。
「た、大変です、旦那様! 何やら本日中に屋敷を明け渡すようにと契約書を持った者たちが、邸に入って来ました。すぐにおいでください!」
「……なんだと?」
信じられない。私は、寝ぼけているのか? だが、使用人の怯えた表情を見れば、夢ではないと理解せざるを得ない。
体に冷たい感覚が走る。思わず跳ね起き、支度もそこそこに部屋を飛び出した。
玄関ホールへ駆け込むと、そこには数人の男たちが立っていた。その中央にいる男が、冷静な口調で告げる。
「家主か。何も準備がされていないようだが、本当に今日中に屋敷を出られるのか?」
理解が追いつかない。
「……出ていく? 今日中? どういうことだ」
「どういうことも何も。この家は、売りに出されることになった」
背筋が凍りついた。
「そんな指示は出していない!」
「いや、そんなはずはない。ここに、家名のサインと印がある」
突きつけられた書状に目を落とす。確かに、そこには見覚えのある印――間違いなく本物だ。だが、サインは……。
「貸してくれ」
急いで書類を引き寄せ、まじまじと見る。筆跡が母上のものと違う。
「……これは、母上の字ではない」
血の気が引く。男爵の家名がしっかりとサインされているが、母上の字を間違えるわけがない。
「このサインは、偽物だ! 確認を取る。少し待ってくれ」
だが、男は無情にも首を横に振る。
「こちらにも都合があるからな。長くは待てない。明日までになんとかしてくれ」
明日……。引き上げていく男たちの背中を見ながら考える。
……誰がサインをして印を押したのだ。まさか、クロエか? いや、クロエしか考えられない。
「お、おい! 誰か、印章を持ってこい! 書斎にあるはずだ!」
だが、急いで確認に行き帰ってきた使用人の返事は予想外のものだった。
「……ありません」
「は? ……なんだと?」
思わず、息をのむ。
印章がない? ならば、一体誰が持ち出した?
――クロエ。
やはり、あの女しかいない。まさか、一つ持っていったものが印章!? 何て奴だ。
「クロエを探して連れてこい!」
「ですが、旦那様……クロエ様が今どこにいるか……」
「知らん! 何とかして調べろ! 必ず私の前に連れてこい! 今日中だ」
*****
夕刻
クロエが姿を現した。
王都の宿屋にいたらしい。何かあったときのために、屋敷の使用人の一人と連絡を取れるようにしていたのだという。
呼び出されたというのに、クロエは、涼やかな表情だった。
「お久しぶりというほどでもありませんが、どうなされましたか?」
淡々とした声。その後ろには元執事のグレゴリーが控えている。なぜまだクロエと共にいる。
「実は、朝一番に男たちが来て、この邸が売り出されたと聞いたが、何か知っているか」
「ええ、知っております。この邸は、私が売りに出しましたから」
「――やはりか!」
拳を握りしめる。
「何の権限があってこんなことを! あの契約書も……お前の字だな。偽造は立派な犯罪だ!」
だが、クロエは眉一つ動かさない。
「偽造ではありませんが?」
何……? 偽造ではないだと? よくもぬけぬけと。
「母上の代筆とでも言うのか!」
「代筆でもありませんが?」
「ごまかすんじゃない! 印まで押して。というか、この邸からそもそも印章がなくなっている。あれもお前の仕業だろう!」
クロエが言い終えるのを待たずして、グレゴリーが静かに前へ出た。
「印章を持ち出したのは、クロエ様ではなく、私です」
「……は?」
一瞬、頭が真っ白になった。執事が印章を持ち出す?
「何て奴らだ。偽造に窃盗……今すぐ衛兵に突き出してやる! 覚悟しろ!」
だが、クロエは困ったように微笑むだけだった。
「困りましたね……。お義母様が譲ると決めたものに異議は申し立てないと、一筆書かれましたのに。契約不履行となりますわ」
――まさか。
背筋に嫌な汗が流れる。
「ま、まさか……母が譲ったのは、この邸か? それとも印章か?」
クロエは軽く首を振る。
「いいえ、どちらも違いますが、正確にはどちらも正しいとも言えます」
その言葉に、不安だけが募る。違うのに正しい? 何を言っているのだクロエは……。
「遠回しに言わずはっきりと言え!」
「わかりましたわ、お義母様が私にお譲りになったのはーー」
もったいつけやがって‥…早く言え!!
「この男爵家の爵位です」
「しゃ、爵位? 爵位だと!!」
心臓が大きく跳ねた。
クロエは一歩前に出ると、まっすぐにこちらを見据え、静かに告げる。
「私は、男爵位を譲り受け、現当主でございます」
「そんな……馬鹿な……!」
呆然と呟いた声は、自分のものとは思えなかった。血が引いていく感覚に、思わず壁に手をつく。
母上がなぜ、私ではなくクロエに……。
クロエはただ静かに立っている。その姿は、確固たる意志を持つ、一人の当主――否、貴族としての誇りを湛えていた。
「お義母様は……最後にこう仰いました」
クロエはそっと目を伏せ、そして再びこちらを見据えた。
「――貴族とは、血ではなく、その責務を果たす者のことだと」
責務……そんなものこれからいくらでも果たそうと思っていたのに。胸の奥が軋むように痛んだ。




