39.番外編:こぐまのトト
ーー2年後ーー
「クロエ、お土産だよ」
ルシアンが、手に本を持っている。
「これは……?」
私は本を受け取り、目を丸くする。優しい色合いの装丁に包まれた一冊の本だった。
「絵本だよ」
ルシアンは、優し気に微笑む。
「小さな子に読み聞かせるための本なんだ。絵がたくさんで、文章も優しくて。少し大きくなったら、自分でも読めるようにできてる」
私は思わず、彼の顔と、絵本とを交互に見比べた。この柔らかな絵本と、いまにも私のお腹から生まれようとしている小さな命とが、ふわりと重なる。
「まあ……ルシアン。まだ生まれてもいないのに、気が早すぎじゃなくて?」
自然と笑みがこぼれる。
私は両手でお腹を包み込むようにさすった。ルシアンは、そんな私の仕草を見ながら、なおも嬉しそうに続けた。
「まあまあ。実は、グレゴリーにも同じものを買ってきたんだ」
「私にも、ですか?」
「うん。おそろい。きっと大人が読んでも楽しめると思って」
グレゴリーと目が合い、ふっと笑みを交わしてから、私はそっと絵本に目を落とした。
『こぐまのトト』
絵本には2足歩行をしている動物たちが描かれていた。
「可愛らしい熊だわ」
「優しいタッチの絵ですな。小さな子が読むにはちょうどよさそうです……作者は、アルベルト……?」
え?
思わずルシアンを見る。けれど彼は、いたずらっぽく微笑んで言った。
「いいから二人とも、早く読んで」
*****
ーこぐまのトトのお約束ー
森の奥に住む、こぐまのトトとお母さんぐま。
トトは元気いっぱい、でもちょっぴりおっちょこちょい。
近所の狐さんは、ちょっと口うるさいけど――ほんとはとっても優しいご近所さん。
そして、もうひとり。
トトには妹のミミがいます。
ミミは小さいけれど、どこか大人びたしゃべり方をします。
「トトったら、またそんなことして……ほんと、しょうがないんだから。ほら貸して」
なんて口をとがらせながらも、誰よりもトトのことを心配し、姉のように世話をします。
喧嘩ばかりしてるけれど、トトにとってミミは、ちょっとお節介だけど賢く頼りになる妹なのです。
ある日、どうしてもはちみつが食べたくなったトトは、こう言いました。
「お母さん、僕、もう子どもじゃないから。自分で取りに行く!」
「だめよ。蜂はとても危ないのよ。近づいちゃいけないわ」
お母さんが止めるのも聞かず、ぷんすか怒ったトトは、ついに家を飛び出してしまいました。
川のほとりまで来ると、足を滑らせて、川の中へ、ドボン。トトはびっくりして叫びました。
そのとき――
「トト! ここは、危ないって言っただろう!」
悲鳴を聞いて、キツネさんが駆けつけて助けてくれたのです。
川から上がったトトは震えながら、ぽろぽろと涙をこぼしました。叱られるのが怖かったのではなく、助けに来てくれたことが、嬉しかったのです。
キツネさんはそっと頭をなでて、優しくおぶってくれました。
家では、お母さんが心配そうに待っていました。
その後ろに立っていたミミは、ふくれっ面をしていました。
「ごめんなさい……」
トトがぽつりとつぶやくと、お母さんは優しく微笑んで、ぎゅっと抱きしめてくれました。
「大丈夫。ちゃんと帰ってきてくれて、ありがとう」
ミミもそっと近寄り、顔をそっぽに向けたまま言いました。
「……ちゃんと帰ってきたなら、まあ……いいけど」
でもその直後、ミミの目からぽろぽろと涙がこぼれ始めました。そして、目を真っ赤にしながら、わんわん泣き出しました。
「心配したんだから……うわああん」
驚いたトトは、小さな声でつぶやきました。
「ごめんね、ミミ……」
それでも、次の日。トトは、約束を破って、こっそり、はちみつを取りに行こうとします。
もちろん、すぐに見つかって、みんなに怒られました。
「だって、はちみつが大好きなんだもん……」
失敗しても、怒られても――トトは、あたたかい愛に包まれて、今日も少しずつ成長していきます。
*****
「……狐さんは、もしかして私でしょうか……あの頃、手紙ではなく、私が迎えに行って叱っていたら……アルベルト様は、帰ってきたのでしょうか」
グレゴリーが、ぽつりと呟いた。
「“口うるさいけれど、優しい”ですってよ。グレゴリー」
「……そう、でしたか――昔、木から降りられなくて泣いているアルベルト様を見つけた時のことを思い出しました。助けた私にしがみついて、おぶって邸に帰るまでの間、いつの間にか眠ってしまって……」
彼の目に、かすかに光るものが滲んでいた。
「ミミは……私のような気がするわ。でも、あのころ、心配なんて少しもしたことなかった。……もしかしたら、本当は、心配されたかったのかもしれないわ。賢く頼りになるですって、本当かしら? だとしたら、勝手で調子がいいわね。迷惑ばかりかけていたくせに、ふふ」
――“ごめんね、ミミ”――
小さな声が、心の奥に沁み込んでくる。
「絵本、売れているらしいよ。どうする?」
ルシアンが微笑みながら言った。
「どうもしないわ」
そっと笑い、絵本に視線を落とす。
「お義母様は、この本を読んで、きっと喜んでいらっしゃる。だって、トトは、ちゃんと帰ってきたのですもの。……案外、柔らかい絵を描くのね、アルベルト様」
「ええ、とてもお上手になりました。初めて見ました、こんな優しい絵。ええ、トトは少しずつ成長しているのですね」
「まあ、グレゴリーったら」
母熊と笑い合っている絵にそっと指先を添える。
「ルシアン、お土産ありがとう。嬉しいわ」
「私も……とても嬉しいです。ありがとうございます」
「どういたしまして」
ルシアンに、そっと抱きしめられる。
――私は、気づかないうちに少しだけ泣いていたらしい。一体何の涙なのだろう…… 。
グレゴリーは絵本を大事そうに胸に抱き、静かに目を伏せていた。
アルベルト様――これは、きっとあなたが描いた、“もう帰ることのできない場所”のお話。
あなたに関わるものは、何ひとついらないと思っていた。……でも、最初で最後の贈り物だと思って。
この絵本、ひとつだけ、頂戴いたしますわ。
☆☆☆・・・・・☆☆☆
王都のとある孤児院で、女が働いていた。
名は「ミレーヌ」身なりは清潔だが質素で、爪は短く切られ、化粧もしていなかった。
子供たちに優しくスープを配りながら、時折、どこか遠くを見るような目をしていた。
それが――あのマリーであると、誰が気づくだろうか。
「ミレーヌさん、こっちの子たちにも毛布を……!」
「ええ、わかったわ。すぐに運ぶから」
彼女は、名前を偽っていた。過去を知られれば、働く場所も、居場所も失ってしまうから。
けれど、孤児院の院長――シスター・コレットは、ある日何でもないことのようにふと、言った。
「あなた、本当はマリーさんというのでしょう?」
マリーはその瞬間、すべてが終わったと思った。けれど、コレットは微笑んでこう言った。
「過去の新聞を見たわ。でも、私は――今のあなたを見る。今のあなたが、子どもたちに優しくしていることを、私はちゃんと知っているの。あなたはもう、昔のあなたじゃない」
それだけだった。
たったそれだけの言葉で、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちた。
涙が止まらなかった。
過去に傷つけた人たちの顔が、夜、目を閉じるたびに浮かんで、私を責め続けていた。
誰にも赦されるはずがないと思っていた。ずっと、誰かに――たったひとりでもいい、もう大丈夫と言ってもらいたかった。
その日から、マリーは、自分の名前で生きることを選んだ。
孤児院の子たちは、初め、変な顔をしていたが、すぐに慣れたようだった。
嘘も、飾りも、何もいらなかった。皿洗いでも、草抜きでも、心を込めて働いた。子供たちに読み聞かせをし、熱が出た子の看病をし、時には一緒に泥だらけになって遊んだ。
笑顔が自然と戻るまで、そう時間はかからなかった。
春。
王都では花祭りが開かれていた。その日、孤児院でも色とりどりの花で飾りつけがされていた。
そこへ、一人の男性が絵の道具を抱えてやってきた。
「子どもたちのために、絵を描かせてほしいんだ」
「……アル?」
マリーは驚きに目を見開いた。彼は、とげとげしさの無くなった優しい顔で微笑んだ。
「え? マリーか? まさか、こんなところで会うなんて」
二人の間に、しばし沈黙が流れた。
けれど、それはもう、かつてのような張り詰めたものではなかった。
「……私、今はここで働いてるの。名を偽ってたけど、もうやめたわ。ちゃんとマリーとして、生きているの」
「そうか。元気そうで、よかった」
アルベルトの声は、まっすぐで温かかった。
「私は、今、町の古書店で働いてる。でも、こうして時々、絵を描いてるんだ。私の絵を、子どもたちが一番喜んでくれるから」
こみ上げるものがあったが、マリーは泣かなかった。嬉し涙も罪悪感の涙も違うと思ったからだ。すでに、過去は遠くなっていた。
アルベルトも――きっと同じなのだろう。その瞳に宿るのは、かつての虚栄ではない。穏やかで、どこか誇らしげな光だった。
「マリー。私は、いつか子どもたちのための絵本を作ろうと思ってる」
「絵本?」
「文字を読むのがまだ苦手な子にも伝わるように、絵と文章を組み合わせた本だよ。今、他国で流行しているらしい」
「ふふ、それ、いいかもしれないわね。絵は、上達したのかしら?」
「ははっ、ひどいな」
救いというのは、派手な奇跡なんかじゃなかった。
ただ、誰かと笑い合える――そんな当たり前の日々のこと。
それだけで、たとえささやかでも、確かに心は救われる。
*****
ある日、ラフィーユ伯爵の元に届けられた献本。それは、伯爵が支援している孤児院からの贈り物だった。孤児院に寄付された絵本「トトシリーズ」の中の一つで、支援している伯爵にお気に入りの本を読んでほしいと子供たちの可愛らしい手紙も入っていた。
作者の名前に既視感を覚えつつも、手に取ったその一冊――
様々な事情のある孤児院の子たちに、優しい愛を教えるような内容になっていた。
ページをめくる伯爵の手が、ふと止まったのは終盤だった。
「失敗しても、怒られても――トトは、あたたかい愛に包まれていました」
静かな書斎に、時が止まったような静寂が降りる。
アルベルト・ベラトラム
『貴族が貧困層に施しを与えたところで、社会の構造は何も変わりません。支援がなければ生きられないという依存を生むだけ。それは、本当の意味での幸福とは言えないと思っております』
絵本は、かつて彼が吐き捨てるように言った言葉を、やわらかく包み込み、消し去るようだった。
この絵本に描かれていたのは、「与える側」と「与えられる側」といった構図ではなかった。トトは、時に拗ね、泣きながら、それでも愛されて育つ。この本の愛は「支配」でも「依存」でもなく、「寄り添い」だった。
ページを閉じたラフィーユ伯爵は、目を伏せて、ひとつ息を吐いた。
気づけば、窓辺の光が傾いていた。
「……失敗しても、怒られても――か」
誰に向けたでもない呟きのあと、伯爵は立ち上がる。
机の上に置かれた絵本の横に、新たな書類を添える。
そこには、孤児院の改築支援と、絵本制作の資金援助に関する承認の署名が記されていた。
愛の中で立ち上がることができるなら、子供も大人も関係ないのかもしれない。
伯爵は、窓の外を見ながら、少しだけ微笑んだ。




