37.破滅の中 sideマリー&とある男
sideマリー
マリーは、“表”から姿を消した。
かつて肩を並べて笑い合っていた友人たちは、今やその名を肴にして嗤う。
――「魔道具の事件、あの人も関わってたらしいわよ」
――「でも逃げ切ったんだって。さすが、慣れてるものね」
噂だけが、薄暗い路地をさまよう亡霊のように、街のあちこちにしぶとく残っていた。
マリー本人はというと、王都の喧騒から離れた郊外の町。 歴史に取り残されたような、石畳の通りと、煤けた看板の並ぶ一角。 その小さな宿の一室に、ひっそりと身を潜めていた。
もう、化粧も絢爛なドレスもない。 鏡に映るのは、目の下に濃い影を落とした、やつれた顔。 それが――今の彼女だった。
「……どうして、うまくいかなかったの?」
ぽつりとこぼれた声は、自分自身に向けた問いだった。 もっと、賢く立ち回ればよかった。 美貌も、才知も、駆け引きも――すべて、持っているはずだった。
それなのに、一度“地に堕ちた”女に向けられる視線は、想像以上に冷たく、鋭かった。 どれだけ装っても、どれだけ嘘を重ねても、誰も信じてはくれない。
それでも――
「私が……終わるわけないじゃない」
鏡の中の自分に微笑みかける。 その笑みには、かすかに、かつての輝きが宿っていた。
だが現実は無情だった。
国外に逃がしたあの者たちは次々に捕まり、ついには”マリー”の名も告発の中に刻まれた。 逃げ道は、もうどこにもない。
アルに頼る? いいえ、無理よ。
あの人は、きっと私のことを……恨んでいる。
それでも、まだ。
沈みかけた太陽が、宿の小さな窓から朱色の光を落とす。 赤く染まる部屋の中、静かに手紙の束を広げた。
古びた便箋。潰れかけた封蝋。その中の一通。 ある男がかつて送ってきた、たった一枚の手紙に指を滑らせる。
《困ったときは、思い出してほしい。君の味方でいたいと思った、あの頃の私を。》
今となっては、鼻で笑ってしまいそうなほど青臭い言葉だ。 けれど、その「青臭さ」に縋りたくなるほど、私は追い詰められていた。
「……思い出してあげたわ。頼られるの、待ってたんでしょう?」
そっと手紙を畳む。 トランクの奥、隠していた小さな革袋を取り出す。 中には、わずかな金貨と、偽造した身分証。
それは――“彼”に会いに行くための、最後の切り札。
彼はかつて、王都の片隅で小さな商売をしていた貧しい貴族の次男。 今は地方で商会を営んでいる……という、かすかな噂の男。
扉を開ける。 冷たい風が頬をかすめ、薄いコートの裾を揺らす。
これは、逃亡じゃない。
――もう一度、“上”に戻るための一歩だ。
*****
side とある男
宿から出るマリーの背中を見つめる影が、ひとつ。
石畳の向こう――夕闇の中に立つ男の瞳が、じっと彼女を射抜き、低く名を呟く。
「……マリー。やはり、君は動いたか」
それは、セリウス商会の中枢にいた男。商会長の右腕とまで呼ばれた、影の調整役。決して表には立たず、ただ冷静に、裏側からすべてを支えていた男。
だが――
誰よりも冷静だったその男は、誰よりも彼女を見つめていた。
マリーに密かに懸想していたことなど、誰も知らない。彼は、彼女の甘い声に心を乱されても、決して表情に出すことはなかったからだ。
けれど――
彼は思っていたのだ。マリーが自分に微笑むたび、どこかで自分を一番想ってくれているのだと。さりげないやりとり、視線の交錯、そのすべてに希望を見ていた。
他の男はただの駒。きっと、彼女は自分を選ぶ。そう思っていた。彼女が婚約をするまで。
マリーの運命は、とうに複数の“手のひら”の上に乗せられていた。
*****
sideマリー
馬車の発車時刻まで、あと十数分。
帽子を深く被り、顔には黒いヴェール。
誰の目にも映らぬように、息を殺し、闇に溶け込むように人目を気にしながら立っていた。
小さな革の鞄には、偽造身分証とわずかな金貨、そして――あの手紙。
すべてを取り戻すための、最後の切り札。
だが――
「――マリー、身柄を確保する」
その声が響いた瞬間、世界が音を失った。
反射的に逃げようとした。
けれど、遅かった。
三人の男が、周囲の闇から現れ、彼女を取り囲む。
そのうちの一人が帽子を持ち上げ、静かに視線を重ねた。
「……やっぱり、君だったな」
見覚えがある。
かつて“影”のようにセリウス商会を管理し、情報を集め、裏で全てを操っていたであろう男。
「……あなた……エドワード……?」
言い終える前に、腕を捻られ、冷たい石畳に押し倒される。
背にかかる重み。押しつけられる現実。逃げ場など、どこにもなかった。
通行人の足が止まり、視線が集まる。
これまで、自分が浴びていた賞賛とは正反対の、冷笑と好奇。
「……見ないで」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
美しく、誰よりも注目を浴びていた私が、今――地面に伏せられ、軽蔑の視線にさらされている。
「……私が……こんな……違う」
声が震える。
泣いてはいけないと思っても、涙は抗えず頬を伝っていた。
そのとき、エドワードが口を開く。
感情を押し殺した声で、冷たく、そしてほんの少しだけ哀しげに。
「――お前を信じる人間は、もうどこにもいないよ」
その一言が、心を深く切り裂いた。
けれど、私は震えながら、笑った。
「そんなことない……! まだ……」
誰が何を奪おうと――この“心”だけは、折れない。壊れない。まだ終わってなんかいない。
だが――
カチリ。
冷たい音が、確かに響いた。
鉄の手錠がカチリと閉じる音が、誇りすらも容赦なく締め付けていった。




