35.春の扉が開くとき
sideクロエ
窓辺から差し込む朝の光が、柔らかくカーテンを透かして室内に満ちていた。
私はその光を目を細めて見る。遠くで鳥が囀っている。
「――あの二人、どうなったか、知っている? グレゴリー」
静寂を破った私の問いに、机に向かっていたグレゴリーは顔を上げる。
彼は眼鏡の縁を軽く押し上げて、静かに首を振った。
「……いいえ」
私は再び視線を窓の外へ戻した。春の風が庭木の枝を揺らし、揺らめく緑の影が壁に踊っている。
「アルベルト様は、マリーに完全に捨てられ、……絵を描いているそうよ」
何気ないように告げたその一言に、彼の眉がほんのわずかに動くのが見えた。
「絵を? まだ諦めていなかったのですか?」
「他に、何も残っていないのでしょう。……マティアスが以前住んでいた場所にいるそうよ」
かつて貴族の地位を捨ててでも、絵の道で生きていこうとしたマティアスが住んでいたあの場所に――。
「ゲンでも担ごうとでも言うのでしょうか。しかし、これまで売れたのは、たった一枚。しかも……それも、マリーが裏で動いた“演出”だったと聞いております」
「……唯一の“自信”が、虚飾だったのに、そんなものにしがみついて」
夢を見ているつもりで、実際は夢の抜け殻を抱いているだけ。
中身は空っぽなのに、彼はきっと気づいていない。気づきたくないのだろう。哀れなほどに――。
「マリーは、どうしたのでしょうか?」
グレゴリーが静かに尋ねる。
私の返答を待つその横顔には、怒りも憐憫もない。ただ、ひどく冷めた目があった。
「家からは縁を切られ、利用していた者たちは皆、彼女を離れていった。あっさりとアルベルト様を見捨てたあとは、後妻の座を狙っているらしいわ。“再起”を図っているとか」
私は肩をすくめ、机の上の書類を指先で押しやった。
ぺらりと音を立てて紙が滑る。そこに記されているのは、例の魔道具の真実の断片――
「通常なら、あのしぶとさでどうにか立ち回るのでしょうが……もうすぐ、すべてが明るみに出ると聞きました」
「他国で魔道具の件に関わった使用人が捕まり、口を割ったそうよ。再捜査が始まる。マリーの名も……当然、挙がっているわ」
マリーの虚飾の仮面が剥がれ落ちるその時が、もうすぐ来る。
「マリーという虚像に踊らされた者たちも、可哀想ですな」
「そうね」
見抜けなかった彼らが愚かだったのか。あるいは、見抜いてもなお惹かれてしまった心の弱さこそが、罪だったのか。
私は椅子の背にもたれ、深く息を吸った。
胸の奥まで満ちた空気を吐き出すようにして、私は彼の方を見つめる。
「グレゴリー、私はもう、貴族ではないけれど……貴方には、これからも商会の支配人として残っていてほしいの。……駄目かしら?」
声に混じるのは、ほんの少しの不安と、感謝と、それから……今の私なりの願いだった。
「なんと、辞める気など、さらさらありませんでしたよ」
グレゴリーは一転して明るく笑い、胸を張ってみせる。その仕草が妙におかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「このグレゴリー、サンリリー商会が大商会と呼ばれるまで、粉骨砕身で働くつもりです」
彼の誇らしげな声に、肩の力が少し抜けた。
「クロエ」
背後から、聞き慣れた声が届く。振り返らなくても、わかる。
「――あら、ルシアン。聞いてたの?」
「少しだけ、ね。……全部、終わった、でいいのかな?」
ふっと微笑むと、グレゴリーが気配を消すように立ち去った。
「ええ。終わったわ」
「でも、本当によかったのかい。義母から譲られた爵位を手放して」
「ええ。いいのよ。……本当は譲られたものは“ひとつ”なんかじゃないもの。お義母様との思い出もそのひとつ。ちゃんと胸の中にあるわ。それに、あの家で学んだ商売の知恵が、今の私を支えてくれている。支配人のグレゴリーや、従業員、使用人たちも、全部――あの時間があったから出会えたの。……それに、貴方ともまた会えた。貴方が私を、想っていてくれたことも、知ることができた。嬉しかったわ」
「じゃあ……」
ルシアンが小さく息を呑む。そして、まっすぐに私を見つめた。
「私の想いに、答えてくれるってことで……いいのかな?」
私は、一瞬だけ目を伏せ、そして――そっと笑う。
「……その。まだ、遅くなければ」
「もちろんだよ!」
即座に返ってきたルシアンの声は、春の陽だまりのように優しかった。
「ねえ、ルシアン」
「ん?」
少しだけ迷ってから、ふと彼に視線を向ける。
「私、商会をもっと大きくしていきたいの。“新しい価値”を生み出す場所にしたい。家具だけじゃなく、文化や、人生そのものに関わるような……そんな商会に」
ルシアンは目を細めて、ゆっくりと頷いた。
「君らしいな。でも、それを叶えるには、簡単にはいかない。……それでも、君はやるんだろう?」
「ええ」
「……なら、私もその未来に関わりたい。僕の力が役に立つなら、君のそばで使いたい」
「――それって、プロポーズかしら?」
「あー、そういうことならやっぱり言い直すよ」
ルシアンが一歩踏み出し、私の前に立つ。そして、まっすぐに見つめた。
「クロエ。私は君と、生きていきたい。君の夢を、支えたい。どんな道でも、君と一緒に歩いていたいんだ」
それは飾らない言葉だった。けれど、真っ直ぐで、揺るぎなかった。
「ええ、喜んで」
すると次の瞬間、ルシアンの手のひらに、小さな金の光がふわりと灯った。やがてそれは、繊細な細工の施された指輪となった。
「これは……?」
声を漏らすより早く、その指輪がふわりと宙を舞い、私の左手の薬指で、ぴたりと止まり、指に合わせて静かに、形を変えていく。まるで、生きた魔法が、彼の想いごと自分に寄り添ってきたようで――胸の奥が熱くなる。
私は、そっと微笑んだ。
「……ずっと傍にいてね」
「もちろん。君がどこへ行こうと、私はいつだって、君の隣を選ぶよ」
少しの沈黙が訪れる。けれどそれは、気まずさではなく――優しい静寂だった。
窓の外には、春を告げる風が吹いている。
マリーの幻影も、アルベルトの虚勢も、もう遠い過去の影。
ここから始まるのは、ふたりの、新しい人生。
クロエは目を閉じ、静かに息を吸い込んだ。
「さあ、今日も始めましょうか。グレゴリーに任せっきりじゃ、商会長失格だものね」
「じゃあ、私は君が喜びそうなものを作るよ」
「楽しみにしてるわ」
扉の向こうには、春の朝日が差し込んでいた。
窓の外では風がそよぎ、街の喧騒が遠くから微かに聞こえてくる。
新しいこれからが始まろうとしていた。




