34.崩壊の日 sideマリー&アルベルト
sideマリー
「マリー様、セリウス商会のエリック様がおみえ……あっ!」
「……マリー! お前、俺を利用したな!」
使用人を押しのけ入ってきたエリックの怒声が室内に響き、空気が一瞬にして張り詰めた。
その端整な顔に怒りが走り、凍てついた瞳が燃えるような激情を宿している。
彼の背後では、護衛たちが慌てて扉を閉めた。
私は紅茶を口に運ぼうとした手を止め、ゆっくりとカップをソーサーへ戻した。
「エリウス様、どうかなさいまして?」
唇には微笑みをたたえたまま。でも、来た理由に想像がつく。
「婚約って――どういうことだ!」
ああ……やっぱり、知ったのね。エリックの低く、けれど抑えきれない怒りが、言葉の端から噴き出していた。
「ごめんなさい。父の……意向に、逆らえなくて」
できるだけ穏やかに言ったつもりだった。
でも、その言葉は彼にとって、ただの挑発に聞こえたのだろう。
「調べたぞ。……嘘をつくな、マリー」
彼の目は、まっすぐ私を見据えている。感情がぶつかる。もはや、笑顔など意味をなさなかった。
「は……はは。今朝、父に提言した。“バルト商会との全契約を即座に凍結すべきだ”ってな!」
「何ですって!!」
思わず目を見開いた。けれどその瞬間、彼が叫んだ。
「黙れ!」
机が叩かれ、音が弾けた。部屋の空気が震え、周囲にいた使用人たちが身を引く。誰も、口を挟めなかった。
「“俺との婚約を考えている”と俺に言っただろ。それを信じて、お前のために、どれだけの契約を通したと思ってる? ……裏切ったのは――そっちだ! 父は、元々お前のとこの商会を手に入れようと動いていた。私がそれを止めていた。なのに、なのにだ!!」
一歩、エリックが前に出る。その気配に、空気が張りつめる。その時、使用人が慌てた足音で駆け寄り、耳元で小声で何かを囁いた。
「……! 本当に、全ての契約が……?」
その様子を見たエリックは、顔を歪めながら、ニヤリと笑って出て行った。
「旦那様が……お呼びです」
ああ……まずい。
ゆっくりと立ち上がり、けれど内心は、冷たい汗が背筋を伝っていた。
「見ろ! この取引も、打ち切りだ!!」
父の怒号が、応接間に響き渡る。その手に握られていたのは、届いたばかりの報告書だった。
「……ローズ商会との香料契約も……本日をもって無効ですって……?」
震える声で書類を読み上げる。紙の端が、細かく揺れている。
目の前で崩れていくのは、ただの契約ではない。
我が家の「信用」そのものだった。
机に広げられた報告書の山。
そこには、主要な取引先の契約解除通知が、次々に積まれている。
――その全てに、ただ一つ共通するものがある。
“セリウス商会”の名だ。
あの商会が後ろ盾となっていた者たちが、次々と我々との関係を断ち切ったのだ。
まるで合図でもあったかのように。
「やられた……水面下で、全部仕組まれていた……!」
父の肩が、初めて見るほどに落ちていた。
豪胆で知られた男の背に、言葉にならない敗北の色が滲んでいる。
「お父様……」
私が声をかけると、父は顔を歪めて、こちらを見た。
「マリー……お前だ。お前が魔道具を借りて、偽証のために使った。そして、それがセリウス商会にとって格好の脅しの材料となった。よりによって、あの商会長に弱みを握ぎられている……! 手が出せん」
「……そんな……」
「噂が広がる。手を講じなければ、こちらに否があるように皆が受け取る。このままだと、バルト商会は“信用のない商会”として……すべてを失うぞ」
そこへ、足音を荒げて、会計係が駆け込んできた。
「ご報告を! ……商会本部のある土地が、買収交渉に入った模様です。セリウス側が――地主と接触しています!」
空気が凍る。
「まさか、我々を……追い詰めるためか……!」
父が唇を噛む。冷や汗が額に滲んでいた。
(――囲い込まれている。私たちはもう、どこにも逃げ場がない……)
数日前まで華やかだった応接間。笑い声の絶えなかった空間は、いまや凍りついた静寂に包まれている。
貴族たちは、誰よりも早くこの空気を嗅ぎ取るはずだ。
その時、扉の前に立つ執事が、震える声で告げた。
「……セリウス商会の使者がお見えです」
重く、軋む音を立てて、扉が開かれる。
現れたのは、端正な身なりの、初老の男。その顔に浮かぶのは、穏やかすぎる微笑みだった。
「バルト商会が、正式に“合併”をお考えであれば、我々はその意志を尊重いたします」
「……貴様ら……最初からそのつもりで……!」
父の声は震えていた。
怒りと、恐怖と、何よりも――悔しさで。
「早くお決めになってください。“切り札”がまだ残っているとでも? たとえば――“ベラトラム男爵”の名義ですか?」
彼は、ほんの僅かに口元を歪めた。――冷たく、余裕のある勝者の笑みで。
「すでに彼の個人資産は債権者に押さえられました。爵位は持っていても、実態は“借金まみれの貧民”です」
応接間の空気が変わった。誰も、言葉を継げない。
父が、静かに言い放った。
「バルト商会は、このままではもう……終わりだ。マリー、お前のことを切り捨てる」
「私は……一人娘よ。そんな……」
「そうだな。だが――婚外子なら、何人もいる。お前が“もっとも有益”だったから、傍に置いていただけだ」
世界が音を失ったようだった。
「アルヴェリオ商会はお前にくれてやる。……婚約者と共に勝手に生きろ」
アルと……負債を、背負って――?
私は、立っているのがやっとだった。
*****
sideアルベルト
書斎の中では静かな沈黙が満ちていた。
私は、机の前で一枚の書類を見つめ、額に手を当てていた。
「……これは、なんだ? 資産差し押さえ?」
眉間に深く皺を寄せる。
目の前の数字が、現実と思えなかった。
「アルベルト様、旧ベラトラム家の資産と共に、“負債”も爵位継承と共に移りました。貴族法第十三条、“家の権威を受け継ぐ者は、義務と責任を同じくする”」
執事の言葉は、冷たく理路整然としていた。だが、胸を抉ったのは、まさにその“冷静さ”だった。
「……まさか……これ全部?」
時期を見れば、私の名義での借金が帳消しになったのと、まったく同じ時期だった。
書類に並ぶのは、豪奢な宴の記録、賭け事、贈答品――繰り返された散財の数々。かつての私が、何の責任も持たずに重ねた借金か?
「私は……借りてなんか……!」
「“ベラトラム男爵”が借りたのです。あなたは、その名を継いだのですから。今まではエレオノーラ様、その次はクロエ様が支払っていました。今回の差し押さえは、貴方が、確実に返していける保証がないと判断されたからでありましょう」
乾いた声だった。
感情を一切含まない、ただの事実の通告。
膝から力が抜けたように、壁にもたれた。ゆっくりと、身体が崩れ落ちる。
更に商会を継いでからの借金も加わるという。どういうことだ? マリーが手配した者が、上手く都合をつけていたのではなかったのか?
「……こんな金額、返せるわけがない」
ささやくような声しか出せなかった。
自らの過去が、自らの足に鎖を巻いたのだ。




