31.近くにいるための理由
「――というわけなの、グレゴリー。ベラトラムの男爵家は……もしかしたら、もうすぐ終わるかもしれないの。でも、どうか許してほしいわ」
言い終えた瞬間、胸の奥が痛んだ。けれど、その痛みに負けてはいけないと、私は口元を固く結んだ。
グレゴリーはほんの一瞬だけ黙り込んだ。その目には、複雑な感情がいくつも交差していたように見える。
「クロエ様……ええ、きっと、並々ならぬ思いで決断されたのでしょう。それに――エレオノーラ様から、クロエ様が選んだ道を否定してはいけない、と釘を刺されておりまして」
「お義母様が……?」
「はい。あの方は、何もかもお見通しだったのかもしれません。クロエ様の行動もこの先に何が起こるかも、すでに……」
お義母様の穏やかな声が耳の奥によみがえる。あの人らしい、と私は思った。芯の強さを持ちながら、いつも一歩引いた場所から私を見守ってくれていた。
「ご安心ください。必要な書類は滞りなく整えましょう。なに、こういった手続きは二度目ですから、慣れたものです」
「……グレゴリー。ええ、頼りにしてるわ」
ふたりで思わず笑い合ったそのとき、扉の向こうからなにやら騒がしい物音が聞こえてきた。
「そういえば、商会の客室が少し騒がしいようだけれど?」
「ええ、実は……ルシアン様の元上司だという方が、お越しになっておりまして」
「元上司? ……まさか、連れ戻しに?」
「そのようです。王立魔導技術院の方とのことでして」
「やっぱり……」
ルシアンは以前、飄々とした様子でこう言っていた。
『意外と、研究費をケチるんだよね。あと、指定されたものばっかりで、自分の作りたいものが作れないんだ』
それでも、あれほど優秀な魔道具師を、王立魔導技術院がそう簡単に手放すとは思えなかった。
「……なんだか、言い争っているみたいね。ちょっと、様子を見てくるわ」
廊下を進み、扉の前に立つと、内側から男性のやや苛立った声が聞こえてきた。
「だから、研究費は好きなだけ使わせていたし、お前が作りたいと言ったものに反対したことなど一度もないだろう! いったい何が不満なんだ」
好きなだけ……反対したことない……
「不満? うーん……だって、王立魔導技術院にはクロエがいないだろ?」
――私? 私の名前……?
「はぁ!? お前は王立魔導技術院の仕事を、なんだと思ってるんだ!」
「そう言うと思ったから、辞めたんだよ」
「ぐ、ぬぬ……っ」
……これは、完全に平行線ね。
私は一度、深く息を吐いてから、扉を軽くノックした。
「失礼いたします。はじめてお目にかかりますわ。クロエ・ベラトラムと申します」
扉の向こうの空気が一変した気がした。
「ああ、あなたが。私はリオ・ラモールと申します。王立魔導技術院にて、このルシアンの直属の上司を務めておりました。私は魔道具師ではありませんが、魔道具師への依頼調整や特許関係の事務を一手に引き受けております」
――事務方、というわけね。
「そうでしたか。私は、現在のルシアンの雇い主です」
「……ルシアンに手紙を出してもも埒が明かず、こうして参上した次第です。ベルトラム様、どうか……ルシアンを説得していただけませんか。王立魔導技術院には、彼の力が必要なのです。国の宝といっても過言ではありません。なのに、こんな商会……あ、失礼……このまま連れて帰れなければ、私は降格も……」
ふと、彼の表情に滲む焦燥と諦念が見えた。
『こんな商会』には腹が立つけど、何だか、少し可哀想にすら思えてしまう。
「……私の人生を、あなたの人生の都合で動かす気はないよ」
ルシアンが、珍しく頑なだった。ラモール様の肩がわずかに落ちる。
「――あっ、そうだ。ルシアンのこれまでの功績から、爵位を授けるという話も出ているのだ。だから戻ってほしい!」
「爵位なんて、いらないよ。クロエがまだ貴族だったら、話は別だけど……今のクロエは、平民に戻るつもりなんだ。だったら、そんなものはますます必要ないよ」
どういうこと……?
「……しゃ、爵位だぞ。それっでも戻らない、というのか」
「戻らないよ。まあ、妥協案として――商会に依頼してくれれば、開発には協力してもいいかな」
「なっ! ほ、本当か?」
「ああ。もちろん、クロエが許してくれたら、だけど」
その瞬間、ラモール様の視線が、私を縋るように見つめてきた。
その目には、どうしようもない切実さがあった。
「ええ、ルシアンに過度な負担がかからない範囲であれば……お引き受けいたしますわ」
微笑んでそう答えると、ラモール様の顔にぱっと安堵の色が浮かんだ。
「助かる! 本当はね、引きずってでも連れて帰りたいところなんだが……ルシアンが頑固なのは皆知っている。いやもう、魔道具師はみんな頑固だ。己の道を曲げないんだ、まったく……」
ぶつぶつと愚痴のような独り言をこぼす彼に、私は思わず小さく笑った。
「では、契約関係の書類についてはグレゴリーにお任せくださいませ」
そう告げると、グレゴリーが無言で一礼し、すぐさまラモール様を別室へと案内していった。
部屋に静寂が戻る。残されたのは私とルシアン。
私は彼の横顔を見つめながら、静かに口を開いた。
「……戻らなくてよかったの? 研究費は好きなだけ使わせてくれてたし、作りたいものにも口出しされてなかったのでしょう?」
ルシアンは、少し困ったように笑った。
「はは……ばれてしまったか。でも、戻らないよ。せっかく、クロエの近くにいられるようになったんだから」
「……近くに?」
「ああ、傍にいないといけないんだ。だって、クロエって、ちょっと目を離すと、すぐ結婚しちゃうだろ?」
「ちょっとって……」
唖然としかけて、それでも笑ってしまった。
「勝手に、私はずっと……クロエは私のことを待っていてくれると思ってた。何も約束なんてしてなかったのに、おかしいだろ? 漠然と、なんとなく……そう思っていたんだ」
「ルシアンは、私のことが……好きだったの?」
彼はあっけらかんとした顔で、少しだけ首を傾げた。
「え? 気づかなかった? おかしいな。けっこうわかりやすかったと思うんだけど」
「そんなの……わかるわけ、ないわ」
私の声は、自分でも驚くほど小さく、震えていた。
「君の家の事情も分かっていた。でも、手を伸ばすのが少し遅れた。一人前になったら、出世したら、と。……クロエから結婚の報告を手紙でもらったときは、手が震えたよ。もう、遅いんだって」
「……ごめんなさい」
心からそう思った。
「……何に対してのごめん?」
ルシアンは少し意地悪そうに微笑んだ後で、急に表情を引き締めた。
「あっ、待って。もし“好き”ってことに対して謝ってるなら、それは今聞かなかったことにする。クロエ、焦らなくていい。ゆっくり考えて。すべてが終わってからでいいんだ」
その声には、どこまでも優しさが込められていた。
「……わかったわ」
私は彼を見つめ、静かに頷いた。




