22.沈黙の庭 sideアルベルト
sideアルベルト
「これで、いいかしら」
受け取る指先に力を込めて、マリーに小さく呟いた。
マリーが手に入れてくれたのは、ラフィーユ伯爵家から男爵家へ送られた、ガーデンパーティーの招待状だった。どうやって手に入れたのか、詳しくは聞いていない。けれど、マリーのことだ。おそらく、微笑み一つ手に入れたのだ。
「男爵家の物は、あなたの物よ」
そう言って、マリーの顔が花のように微笑んだ。罪悪感? そんなものは、とうに捨てた。クロエの方がよほど“盗んで”いるではないか。奪われたのは、家の誇りであり、名誉でもある。
ラフィーユ伯爵家。
王都近郊の緑に恵まれた丘陵地帯に、広大な領地を構える名門貴族。古くから学術と文化を重んじ、貴族の中でも特に“教養ある一族”として一目置かれている。
その当主、エリオット・ラフィーユ伯爵は、知識と慈愛の象徴のような人物だと聞く。穏やかで品格にあふれ、情に厚い一方で、無駄を嫌う合理主義者。物事を見極める目を持ち、成金趣味を軽蔑し、志ある者にのみ手を差し伸べるという。
……つまり、コンラッド様とは水と油。あの人のような、金の音にしか耳を貸さない人間とは、決して相容れない。
それなら、私にも――わずかでも、可能性があるかもしれない。
だから、気合を入れて挑まなくてはならない。
この招待状は、ただの紙切れなんかじゃない。運命を変える扉の鍵。私にとって、未来そのものだ。
支援を得る。それが、目的。
失敗は許されない。
*****
馬車を降りた瞬間、思わず息を呑んだ。
ラフィーユ伯爵邸。
格式高い貴族の象徴とされるその邸宅は、建物もさることながら、その庭園こそが名高かった。
石畳の小道を囲むように季節の花々が咲き乱れ、薄紅のバラに濃紫のアイリス、真珠のように白いユリが風に揺れている。噴水の水音が優雅な音楽のように響き、どこからともなく鳥のさえずりが聞こえた。全てが美しく、完璧だった。
一歩ごとに身が浄化されていくような、非現実の空間。——ここで私は、今日新たな道を切り開くのだ。
すでに庭園の中心には人だかりができており、その中心には、あのラフィーユ伯爵の姿があった。人々は笑みをたたえ、伯爵の言葉一つひとつに耳を傾けている。まるで太陽のようだ。
だが、後れを取るわけにはいかない。今日の目的は一つ——支援の申し出。だが人を押しのけるのは無粋というもの。私はじっと、順番を待った。
やがて、私の番がきた。
「ご挨拶をしてもよろしいでしょうか」
伯爵がこちらを振り返る。目元には深い皺が刻まれ、しかしその双眸は鋭く、どこか人を見透かすような眼差しをしていた。
「君は……アルフレッド・ベラトラムだったかな? 君の母とは旧知の仲だった。今日は君が参加かね」
「はい、ベラトラムの代表として参りました」
「そうか、君とは初めてだが……クロエさんとも付き合いがあってね。今日は彼女が来るかと思っていた」
「今日は体調が優れず、私が代わりに参りました」
「……離婚したと聞いたが? 当主はクロエさんだと。ふむ、だが、君はまだベルトラムの名を名乗っているのだな。なら、関係は悪くないのだろう」
「私には他に愛する人がいたため離縁しましたが、今は、母の計らいでクロエとは義兄弟となりました」
「いやはや、それはなんとも複雑な話だ」
早く本題に入りたい。だが、どう切り出せばいいのか——タイミングが掴めない。私の背後では次に控える者たちの視線が突き刺さる。圧を感じる。焦るな、私、落ち着け。
「そうだ、君は慈善事業についてどう思うかね?」
慈善事業?
予想外の質問に、頭が一瞬真っ白になる。これは試されている。伯爵は情に厚いと同時に、合理主義者でもあると聞いた。さて、どちらに寄せるべきか——否、自分を偽ってはならない。
「貴族が貧困層に施しを与えたところで、社会の構造は何も変わりません。支援がなければ生きられないという依存を生むだけ。それは、本当の意味での幸福とは言えないと思っております」
——沈黙が訪れる。間違ったことを言ったか?
風が止んだような気がした。伯爵は表情を変えず、じっと私を見つめている。
「……ほう。君の母は、慈善活動に熱心だったが」
「それこそ無駄だと、何度も申し上げました。もちろん、クロエにも」
その瞬間、さらに空気が張り詰めた。鋭い視線があちらこちらから刺さる。だが、私は逃げなかった。先駆者は常に孤独だ。だが、志の高さはきっと伝わる。そう信じていた——が。
「き、君……知らないのか?」
小声で、後ろの男が囁いてきた。
「この方は、孤児院・養育院ネットワークの設立者のおひとりだぞ」
——え?
「早く謝った方がいい。ラフィーユ伯爵家は『沈黙の大飢饉』の際、私財を投じて数千人の命を救った。そんな方に、慈善事業は無駄だなんて……君は何をしにここへ来た?」
『沈黙の大飢饉』知らなかった……
いや、思い出せば……確かに母やグレゴリーの話の中に「ラフィーユ伯爵」の名はあった。医療費補助基金、貧民街の再建、失業者支援……自己満足な偽善者だと、どこかで嘲っていた。
その伯爵が、ラフィーユ伯爵……!
ああ、なんてことを。私はいま、この人の屋敷で、その人の功績を真っ向から否定したのか。
「君は今日、何をしに来たんだね? このパーティーはチャリティーも兼ねているのだが」
——足が震える。でも言わねば……
「……し、支援を。我が商会への、支援をお願いできればと」
伯爵の瞳に、冷たい光が宿った。
「なるほど。だが、君の言葉を借りれば——『支援がなければ生きられないという依存を生むだけ。それは、本当の意味での幸福とは言えない』——だったな。私は無駄なことはしたくないのでね」
——終わった。
その言葉が、頭の奥でこだまする。
「私はクロエさんには注目している。彼女の活動も、孤児院での支援も、密かに見守ってきた。そのうち、正式な支援者として名乗りを上げるつもりだ。……ああ、君には関係のない話だったね。失礼するよ」
また——クロエ。
誰の口からも、彼女の名が出る。私は、何だ。誰からも必要とされていないのか。
冷たい視線に晒されながら、私はその場を後にした。心の芯が凍りついたようだった。足取りは重く、庭園の花々でさえ私を見下しているようにすら思えた。




