19.記憶を飾る邸
sideクロエ
マティアスの絵は、すぐに評判となった。
特に室内に飾る風景画は入荷するとすぐに買い手が見つかるほどだ。
絵の中の柔らかな日差しが、室内に淡い光を注ぐような空気感を感じさせる。見る人に安らぎと温もりを与え、見る度に、時間がゆっくりと流れているかのように感じられる。マティアスの絵を室内に飾ることで、空間に落ち着きと優雅さが加わると評判だった。
本人は更なる技術の向上に貪欲で、絵もどんどん洗練されていった。
今日はマティアスの絵が数点入荷されたため、私も画廊に出向き、レイアウトを考えていた。
数点、壁に飾ったところで、画廊の扉が開き、品のある貴族の夫人が静かに足を踏み入れた。周囲をゆっくりと見渡しながら、展示された絵画に目を向ける。
「展示されているマティアスの絵は、これで全部なのかしら?」
優雅な絹のドレスが揺れ、華やかな香水の匂いが漂う。
「他にもお求めですか?」
「ええ、ルミエール画廊の紹介で来たのだけれど」
夫人は気品ある仕草で扇を畳み、視線を向ける。その眼差しには、ただの観賞ではなく、強い関心が宿っていた。私は一瞬だけ考え、奥の部屋を指さす。
「奥にあるものを持ってきますので、気に入ったものをぜひお選びください」
「いいえ、あるもの全部いただくわ」
マティアスのファンなのかしら。それとも転売?
「……全部ですか? まだご覧になっていないのに?」
「ええ、全部よ」
その言葉には迷いがなかった。しかし、私は苦笑しながら首を横に振る。
「それは申し訳ありませんが、できかねます。こちらの画家、マティアスは新鋭の画家ですが、作品が入荷するとすぐに売り切れてしまうほどの人気なのです。販売できるのは一点のみとなります」
「え? そ、そんなに人気なの?」
夫人の目が見開かれる。驚きと戸惑いが入り混じった表情が、彼女の端正な顔立ちに見えた。
「ええ、実は、彼の無名時代の荒々しいタッチの絵も非常に評価されておりまして、お求めになりたい方が後を絶ちません。それに、ここにあるものを仮にすべてをお買い求めになるとしたら……そうですね、伯爵家並みの邸が買えるほどの金額になります」
「そんなに!」
夫人は息を呑み、思わず扇を握りしめた。
値段を知らなかった? そうか、ルミエール画廊の紹介ということは、昔からの絵の値段を知っているということね。でも、彼女の思っている以上に、マティアスの絵の価値は高まっているのだ。
しばし沈黙が流れた後、静かに尋ねた。
「どうなさいますか? 一点、お選びになりますか?」
呆然としていた夫人は少し考えた後、扇を閉じ、思いがけないことを口にした。
「そうね、今日はやめておくわ。それとは別に、あなたに相談があるのだけれど‥‥‥。実は、私、マティアスの無名時代の絵をかなりの数、持っているのよ」
かなりの数! 驚きに心が揺れる。
「本当ですか? もしや、貴族の間で彼の絵が評価される前から、収集されていたのですか?」
「ええ、そうなの」
「では……そのお話をしていただけるということは、いくつかお譲りいただけると考えてもよろしいのでしょうか?」
「もちろん、そのつもりで話しているわ。ただ、その前に絵が本物かどうかを確認してほしいの。だから、画家本人を私の邸まで連れてきてもらえないかしら?」
夫人の提案に、慎重な面持ちで頷いた。
「分かりました。マティアスに聞いてみます。それではこちらに、お名前と住所をお書きいただけますか?」
差し出した帳簿に、夫人は静かにペンを走らせる。
探していた無名時代の絵をお持ちの方が現れた。これは、偶然なのか、それとも運命なのか――。
*****
「僕の昔の絵をたくさん持っている貴族の夫人なんて。最初聞いた時はびっくりしたよ」
馬車に揺られながらマティアスは眉を上げ、小さく笑う。
「本当、物好きだね。はは」
「お目が高い夫人と言えますわ」
私は、得意げに微笑んだ。
「君のおかげで、今は僕の絵がびっくりするくらいの値段になっているけれど、昔からのコレクターがいるなんてやっぱり驚きだよ」
「まあ? 私も所有している数では、その夫人に負けていないかもしれませんわよ」
「そうだった。君も僕のファンだったね。これは失礼をした」
そんな他愛もない会話をしながら、馬車に揺られていた。
やがて、馬車が目的地に到着する。マティアスは扉が開けられた瞬間、目の前に広がる屋敷を見て、思わず目を見開いた。
「着きましたわ。さあ、行きましょう。当主とご夫人がお待ちしていますわ」
「……ああ」
私に促されながらも、マティアスは馬車を降りる。
執事長と思われる方が深々とお辞儀をしており、また、マティアスは呆然としてしまった。
その執事長に案内され屋敷の中へと足を踏み入れる。玄関に入った瞬間、視界に飛び込んできたのは、壁一面に飾られたマティアスの絵だった。
「まあ、素晴らしい。壮観ですわね……マティアスの絵で間違いないですか?」
感嘆の声が思わず出る。
「……ああ」
彼は息をのむように返事をしながら、一枚一枚の絵に視線を移した。廊下を進むたびに、新たな絵が目に飛び込んでくる。
「見覚えのある作品ばかりだ。どれも、私が無名時代に描いたもの。雑然とした部屋で、一心不乱に筆を走らせた日々の記憶が蘇るーーなぜ……」
マティアスは信じられないといった表情で口元に手を当てた。
「ルミエール画廊の画商に聞きましたら、定期的に画廊にあるあなたの絵をすべて買い取っていく貴族がいたそうです。ご存じでしたか?」
私の言葉に、マティアスはゆっくりと首を振る。
「……知らなかった」
「そうでしょうね。口止めしていたそうですから」
それを聞いて、彼は苦しそうな表情をした。
「――僕が、家を飛び出して最初に描いた絵もある」
気づけば、マティアスの目からとめどなく涙がこぼれていた。




