18.金の卵 sideアルベルト
sideアルベルト
「おお、珍しいな。……いいのか、仕事は?」
友人の一言に、私はただ小さく頷いた。
「……ああ」
今さら仕事の話などされたくなかった。ここは“紳士クラブ”と名を冠してはいるが、実際は金と欲望が飛び交う賭博場。昔はよく、友人たちと酒を酌み交わし、憂さ晴らしの場として楽しんでいた。だが今日の私は、ただ虚ろな心を引きずってここに流れ着いただけだ。
何もかもがうまくいかない。
マリーの助言は的確だった。だが、言われた通りに動いても、状況は改善されるどころか悪化の一途をたどっている。次なる有力な取引相手など見つかりはしなかった。それどころか、長年の顧客たちまでもが、まるで潮が引くように離れていった。
……やはり、誰も彼もが“コンラッド様のご機嫌”を損ねたくないのだろうな
『元奥様ほどの信頼があれば私たちも考えるのですが……ねえ』
ある商人にそう言われた時、私は何も言い返せなかった。含み笑いと共に投げられたその言葉は、私の商会がもはや、見る影もなく信用を失っている証だった。
今や、かつての半分にも満たない利益しか出せていない。
――くそ、何も考えたくない。
コンラッド様に状況を説明しようにも、今は他国を回っておられ、まともに話す機会すら与えられない。何度か面会を試みたが、結果は門前払い。その報せが来るたびに、心はさらに冷えた。
マリーにこの体たらくを知られるのも嫌で、私は今やタウンハウスにすら顔を出せずにいる。
「それはそうと、お前の商会……すごいな」
「……何がだ?」
一瞬、警戒心が走る。嫌味かと思った。
「またまた、とぼけて。久々に街に戻ってきたらさ、画家のマティアスの話題で持ちきりだぞ。あの絵を持つことが一種のステータスって話じゃないか。売れに売れてるらしいな」
「……マティアス?」
誰だ、それは。どこかで聞いた名のような気もするが、私の商会となんの関係が――
「は? お前のとこのクロエさんが支援してるって聞いたぞ?」
……クロエが?
「知らなかったのか? え? もしかしてお前、クロエさんとはもう……」
「……離婚した」
そうだ。こいつはしばらくこの街を離れていた。だから知らなかったのか。
「マジか! もったいないことしたなあ。そうか。お前、マリーに夢中だっな、もう少し我慢していればよかったのに」
もったいない?
「今じゃマティアスの絵、最低でも一枚あたり金貨二百枚はするって話だぞ」
「なっ……!」
「まさに金の卵を産む……なんとやら、ってな!」
――あいつ、離縁してから、そんな金になることを。商会の従業員からも画家の話なんか聞いたことがない……。金貨二百枚!? 最低でも!?
「ってことはさ、サンリリー商会はもうお前とは無関係ってことか。なんだ、紹介してもらおうと思ったのにな。ー新しい商会か、うかうかしていられないなあ、“男爵様”」
茶化すような言葉に、苦々しく口を開く。
「……男爵、私は当主ではない」
「は?」
「だから、私は“当主”ではない。当主の座は、母がクロエに譲ったのだ」
友人の表情が一瞬固まった。
信じられないといった顔をした友人に、私はこれまでの経緯を語る。
「……お前、それじゃ……クロエさんの気持ち一つで、明日から平民だぞ」
「なぜだ……!」
「なぜも何も、貴族の制度ってのはそういうもんだ。お前は嫡男だが跡継ぎではないのだろう。次男や三男と同じ立場。新しい当主が決まれば、他の兄弟は爵位も姓も失う。婿養子になるか、自力で爵位を勝ち取らない限り、貴族として生きていくことはできないんだ」
「そんな馬鹿な……私は、生まれてからずっと男爵家の人間だぞ!」
「意味ないって、今更そんなこと。とにかく、クロエさんが手続きをする前に、“貴族として”の権利を使って足場を固めないと、本当に何も残らなくなるぞ」
足場――
その言葉が胸に突き刺さった。もう、すでに崩れているようなもの……。
いや、そうだ。今の私には、友人以外の“繋がり”が何一つない。社交が面倒で、母に口酸っぱく言われていたが、結局その言葉が正しかったのだ。
思い返してみても、パーティーやお茶会の招待状すら見かけていない。
……いや、それすら、あの家、クロエのもとに届いているのではないか? 今や“男爵”の称号は、クロエのものなのだから。
「っ……くそ!」
悔しさと焦燥に喉が焼ける。
このままでは、私は何者にもなれずに終わる。
「わ、私は帰る!」
席を立ち、思わず声を張ってしまう。驚いたような友人の視線を背に、私はその場を飛び出した。
――今すぐに、有力な貴族の招待状を手に入れなければ。
――社交界に再び顔を出し、自分の名を広める必要がある。
――商会の存在を示し、信頼を取り戻さねばならない。
そうでなければ、私は本当に、ただの“過去の男爵家の令息”として忘れ去られる。
その恐怖が、背を押した。
私は、走る。すべてを取り戻すために。男爵家に来た招待は、まだ男爵家の一員である私が出席してもいいはずだ。まずは、招待状をどうにか手に入れなくては。
マリー。
マリーなら何とかしてくれるに違いない。




