11.赤い揺らめきと冷たい目 sideマリー
sideマリー
ワイングラスを傾けると、深紅の液体がゆるやかに波を描いた。揺れる色に目を細め、私はゆっくりと微笑む。室内には、熟成された葡萄の香りがふわりと広がっていた。
だが、目の前の報告書が、その余韻を容赦なく断ち切る。
「……アルヴェリオ商会の従業員が、何人も辞めたのね」
胸の奥で、かすかなざわめきが泡のように弾ける。不快というより、不穏。計算が狂う予感。
対面に控えるのは、実家から連れてきた古参の使用人。恭しく一礼しながら、手元の紙束を差し出した。
「お嬢様、こちらが退職者の名簿になります」
私はそれを受け取り、視線を落とす。
「私の息のかかった人間以外は……全滅、というわけね」
これは、想定の範囲外。
私は数字を見るのが好きだ。ただし、経営の才も、現場の手腕も父ほどにはない。策を弄することはできても、それが確実に利益に結びつくか判断できる器ではないことは、わかっている。
それでも、見える。想定していた動きが、金の匂いが、私の考えていたものと違う。
アルヴェリオ商会には、私の駒を何人か潜らせていた。名目はアルのため。実際は観察と抑止。けれど、旧来の従業員たちが、突然ごっそり抜け落ちたのは、計算外。しかもその足取りが、奇妙なほど揃っている。
「サンリリー商会……で間違いないわね? クロエが設立したという、あれ」
くるくるとワインを回しながら問いかけると、使用人が慎重な声音で答える。
「はい、確かに。とはいえ、商会の設立には相応の資金が必要です。一体どこから資金を……」
私は唇に指を添え、静かに考えた。
「規模はまだ小さい。設立のため、伝手をたどって借金でもしたのかしら。でも、思いつきにしては手際が良すぎる。間違いなく計画的ね」
ワイングラスを口元に運びながら、目を細める。離縁に向け準備をしていたということね。やるじゃない。
「従業員はともかく、こちらの取引先にも仕入れ先にも手を出していない。なのに、しっかりと回り始めてる……どういうことかしら」
通常、新規の商会は既存のネットワークに食らいついてこそだ。だがクロエは違う。まるで、最初から別の土俵を持っていたかのような動き。それが私には、不気味でならなかった。
「……それと、もう一つ」
使用人が身を乗り出し、小声で告げる。
「スパイとして送った者たちが、ことごとくサンリリー商会の面接で落とされています」
「……ふふ、面白いわね。なかなか警戒が強い」
グラスを音もなく置き、唇の端をゆるやかに持ち上げる。
以前、アルヴェリオ商会には、簡単に潜り込めたのに。おかしいわね。むしろ、あえてそうするよう仕向けたのかしら。
「お嬢様、次のご指示は?」
「そうね……今はまだ、こちらの手を晒す時ではないわ。様子を見ましょう」
言葉を柔らかく発したが、その裏には冷えた静謀が流れていた。
「けれど、手は打っておくわ。バルト商会の人間を数名、更にアルヴェリオ商会に送り込んで」
「かしこまりました」
私は椅子にもたれ、優雅に足を組む。
計算は好きだ。数字を眺めていると気持ちが落ち着く。だから、ただの好奇心で数字を眺めているわけじゃない。そこに違和感があれば、きっと何かに気付く。そう思える程度には、私は賢いのだ。
まだ、余裕だわ。さあ、クロエこれからどうするの?
「それにしても、アルが当主の座を失ったのは痛手だったわね……。もう動き出していた契約もあったのに」
机の上の書類を整える。
アルには爵位がある。いや、あるはずだった。けれど、残念ながらそれだけ——彼には、卓越した経営の才も、商人としての鋭さもない。
ならば、私の巡らせた策略に乗ってもらわないと。まあ、最終的には父の手も借りよう。
当主の座を失った男の商会など、誰も見向きもしない。信用は砂のように崩れていく。このままでは、立てていた計画すべてに綻びが生じる。
ならば——
「まずは当主の座を取り返さなくてはね」
静かに呟いたその言葉に、傍らの使用人が反応する。
「……あの屋敷で働いていた元使用人、お嬢様の息のかかった者を買収して、証言を偽造するのはどうでしょう?」
「クロエが、義母を騙してサインさせた、という証言かしら?」
軽く顎を引いて考える。悪くない。だが、まだ足りない。証言だけでは、事実は動かせない。
グラスの縁をなぞりながら、思案に沈む。もっと、確かな“証拠”がいる。
「……母親とクロエの会話を偽造するのはどうかしら? 声に似た人物を探して、音声で」
「おお、いい考えです。承知しました。人物を探し、魔道具をご用意いたします」
使用人が柔らかく笑う。その瞳の奥、冷えた炎がじっと灯っていた。
「とにかく、アルには男爵位を継いでもらわないと」
商会も、爵位も、未来も——すべて、この手のひらの中になければ、意味がないのだから。




