1.別れの刻
義母であるベルトラム男爵家当主の葬儀が終わった。厳かな鐘の音が遠ざかり、冷たい風が喪服の裾を揺らす。
私の旦那様、アルベルト・ベラトラムは、やはり葬儀に来なかった。
見上げた空には重たい雲が垂れ込め、今にも雨が降り出しそうだった。本当の母のように、大事にしてくれた思い出が浮かんでは消える。
喉の奥まで染み込む湿った空気。その向こうに、お義母様の命を早めたであろう"あの人"の顔がちらつく。胸の奥にある何かが重く沈んでいく。喪に服す人々が静かに言葉を交わしながら帰路につく中、不意に静寂を裂く声が響いた。
「クロエ、話がある。場所を移そう」
聞き覚えのある、冷えた声。……葬儀が終わってから、のこのこ現れるなんて。
お義母様の一人息子、そして私の旦那様。悲しみの欠片もない淡々とした声音に驚きはしない。彼は母の死を悼んではいないのだから。
*****
私は無言のまま、彼のあとに続き、屋敷へ戻る。
客室の扉を開けた瞬間、そこに待っていたかのように、一人の女が駆け寄った。
深紅のドレス。紅く艶やかに歪められた唇。その色は、この日の弔いにはあまりに不釣り合いだった。
「分かっていただろうが、今日この時をもって、お前とは離婚する」
アルベルト様はそう告げると、その女――マリーを迷いなく抱き寄せた。
マリーは優雅に微笑みながら、こちらを一瞥する。まるで勝者の余裕を見せつけるかのように。
「そうでございますか」
私はゆっくりと瞬きをし、静かに答えた。
――ええ、言われなくても分かっていた。今日だとは思わなかったけれど。そんなに待ちきれなかったのかしら。
「……理由は聞かないのか?」
アルベルト様の眉がわずかにひそめられる。
「ふふ、マリーさんと結婚なさるのでしょう?」
見透かしたように微笑むと、彼の表情に一瞬、苛立ちが浮かんだ。
愛し愛されて結婚したわけではない。結婚式の夜ですら、彼は寝所に来なかった。
――お前を愛することはない。
そんな巷の小説のような決定的な言葉すら、彼の口から聞かされることはなかった。
白い結婚の三年目はとうに過ぎている。離縁など、いつでもできた。それでも私は、病に倒れたお義母様を看取るまではと、踏みとどまったのだ。アルベルト様は、お義母様が病に伏し、やせ細っていく間も、ただ金の無心にしか邸を訪れなかった。
お義母様は、不肖の息子を心配し、それでも愛し続けたというのに。
……こんな人間のどこに、母の愛を注ぐ価値があったのかしら。
心の中で、乾いた笑いが漏れた。
彼の心にいるのは、ただひとり、マリーだけ。
アルベルト様は、ライバル商会の一人娘であるマリーとの結婚を反対され、仕方なく、お義母様が薦めた私と結婚した。
だが、一度たりとも私に心を向けることはなく、ただマリーとの未来を夢見続けていた。
「マリーとは惹かれ合う仲だ。これは生涯変わらない」
憤りを滲ませるように、アルベルト様は吐き捨てる。
――あら、まるで恋愛小説の主人公みたいね。そんなに「惹かれ合う仲」なら、さっさと駆け落ちでもすればよかったのに。
「当主である母は、決してマリーとの仲を許してはくれなかった。それどころか、お前のような平民の女をあてがうとは……。平民でもよければ、同じ平民のマリーでいいではないか。なぜ認めてくれなかった!」
……なぜ私にそれを言うのかしら?
それに、お義母様が何度も説明していたと記憶しているのだけど、聞いていなかったのでしょうね。そんな大事な話も。
私はただ、じっと二人を見つめた。
「お前のような冷たい女と暮らすのは耐えられない! 反対する者がいなくなる時を待っていた。やっと、やっとだ。私は愛するマリーと一緒になる!」
……待っていたですって? お義母様の死を望んでいたとでも言いたい口ぶり。
苛立ちのあまり、音がしそうなほど奥歯をかみしめる。
アルベルト様の瞳は喜びに輝いていた。
まるで長年の牢獄から解放された囚人のように、晴れやかな笑みを浮かべて。
その隣で、マリーは微笑んでいるだけ。女王のように、優雅に顎を上げて。
「可哀想なクロエさん。あなたのことは同情していたけれど……仕方がないわよね? 愛のない結婚なんて、誰にとっても不幸だもの」
愛ですって? あなたのアルベルト様への愛だって……本当かどうか怪しいわ。
「本当に、長い間ご苦労さまでした。ああ、アルは、ようやく解放されるのね」
縛り付けた記憶など、ないのですけど。まあ、いいわ。
「承知いたしました。それでは、アルベルト様、引継ぎなどもありますから……」
「引継ぎ? そんなもの、お前でなくても他の誰かに聞けばわかることだろう。ここに留まろうとするのはやめろ!」
親切で言っているのに……聞けばわかる頭だとでも思っているのかしら。
「いらないと言うのであれば、すぐにでも出ていきますわ」
私が微笑んでそう応じると、アルベルト様は舌打ちした。素直に出て行くと言っているのに何が気に入らないのか、苛立ちを隠そうともしない。
「それはそうと、私もアルベルト様にお話があります」
そう告げると、彼は待ってましたと言わんばかりにニヤリと笑った。
「それは、母上が死後、お前に何かを譲ろうとしていた話か?」
「まあ、知っていたのですか?」
意外だわ。あなたのことだから、何も知らずに騒ぐものだと思っていたのに。
「はは、知らないとても思っていたのか。当然知っている、私の邸だぞ? 私に情報を教えてくれる使用人などいくらでもいる」
彼は嘲笑を浮かべる。
なるほど、告げ口をしていたのは、マリーの息のかかったあの使用人たちね。いつも盗み聞きをしていたあの。めったに邸に帰らないあなたより、私の方が邸の人間を把握しているのに、得意げな顔が腹立たしい。
「それでしたら話が早いですわ。私は断ったのですが、お義母様が是非にとおっしゃるものですから……」
「別に構わない。しかし、母上が何かを譲るというなら、私がお前に渡すものなどないな。夫婦としての生活もしていないのだし。これまで贅沢な暮らしができたんだ、慰謝料なども必要ないだろう? 母上がお前に譲ったというものを持って、さっさと出て行くがいい」
「分かりました。それでは、あとから盗んだと言われても嫌ですので、お義母様がお譲りになると決めたものに異議は申し立てないと、一筆書いていただけますか?」
アルベルト様の顔が僅かに歪んだ。
すぐに顔に出すなんて、単純。
「……書かずとも、盗んだなど、せこいことは言わないがな。一筆……いいだろう、書いてやる。はは、なんなら、この家にあるものなど、お前が持てる範囲でいくつでも持っていくがいい。母の古いアクセサリーか? 秘蔵のワインか?」
「アルったら、だめよ。美しいジュエリーは、私がほしいわ。あと玄関の絵も」
マリーがわざとらしく甘えた声を出す。私に見せつけるように、アルベルト様の腕にしなだれかかりながら。
特にその様子を見ても私の心にダメージはないと伝え……なくてもいいわね、別に。
「はは、そうか。おい、クロエ。それ以外にしろ」
……まあ、仲睦まじいことですこと。
これから苦労を共にする相手ですものね、存分に甘えておけばいいわ。
「持っていくものは、それらではありませんから、ご安心を。そもそもお義母様から譲られたのは、一つだけ。ですので、一つだけ頂戴いたしますわ」
「一つだと? 母上はケチだな。まあ、いい。そこまで言うなら、持って行っていいのは一つだけだ。お前こそあとで文句を言うなよ。とにかく、今日はマリーの家に行くから、自分の荷物を持って明日までに出て行ってくれ」
「クロエさん、お元気でね」
彼女はアルベルト様の腕にそっと手を添え、親しげに寄り添った。アルベルト様は誇らしげに頷き、私を一瞥する。
私はただ静かに、微笑みながら二人の背中を見送る。
さようなら旦那様。短い幸せを、せいぜい楽しむといいわ。




