エピローグ 記録の終焉
冬の王都は静かだった。
雪が音を奪い、瓦の上に薄く積もっている。
王宮の塔は再建の途上にあり、まだ黒焦げの石の匂いが残っていた。
けれど、あの日の炎と叫びは、もう過去のものだ。
私は玉座ではなく、執務机にいた。
白紙の帳簿を前にして。
──かつて“未来の記録”を記した黒革の本は、すでに沈黙している。
最後の頁にあった「白紙」という言葉の通り、それはもう何も語らない。
「……静かね。」
つぶやくと、背後からレオンの声がした。
「嵐の後は、静かな方がいい。民も兵も、ようやく眠れる。」
彼は以前よりも柔らかな顔をしていた。
戦場では氷のようだった彼が、今は雪のように穏やかだ。
彼が持つ剣も、今日は壁に立て掛けられたままだ。
私は黒革の帳簿を手に取った。
すでに文字は消え、ただ古びた革の手触りだけが残っている。
だが、どうしても気になる。──この“本”はいったい何者だったのか。
「レオン、あなたはあの帳簿をどう思う?」
「神話の遺物、かもしれん。」
「神の言葉、という意味?」
「あるいは、誰かが“未来を記録する技術”を持っていたのかもしれない。
戦の前夜、ヴァルネアの学者たちが古い碑文を解読した。
“時間を写す鏡”──古代アウローラ文明の伝承だ。」
「……アウローラ。私たちが新しい国につけた名前と同じ。」
「ああ。偶然だろうか。」
私は本を撫でた。
革の奥から、微かな温もりを感じた。
──まるでまだ、私たちの会話を聞いているかのように。
「この帳簿は、きっと“神”なんかじゃないわ。
人が作ったもの。
過去に生きた誰かが、未来に向かってメッセージを残した。
“あなたが選びなさい”って。」
レオンは少しだけ笑った。
「なるほど。なら俺たちは、その意志を受け継いだんだな。」
「ええ。……でも、もう十分よ。」
私は机の引き出しを開け、蝋燭の火を一本灯した。
そして黒革の帳簿を炎の上にかざす。
「エレナ、それは──」
「いいの。これはもう、過去の記録。
これ以上、この国を縛る“未来”はいらない。」
火が革を舐め、煙が立ち上る。
ゆっくりと、頁が灰になっていく。
かすかに、かつての金文字が光り──
そして、完全に消えた。
灰が舞い、空気に溶ける。
私はその灰を見つめながら、微笑んだ。
「これで本当の意味で、自由ね。」
「そうだな。未来は、俺たち自身で書けばいい。」
レオンが机の上に新しい帳面を置いた。
真新しい白紙。
表紙には、金文字でこう刻まれていた。
《アウローラ王国記録》
「この国の最初の頁は、あなたが書け。」
「……今度は、“過去”を記すために?」
「いや、“これから”を記すためだ。」
私は羽ペンを取り、静かに書き出す。
王暦四二二年・春。
雪が解け、新しい朝が来た。
この国はもう、“未来に怯えない”。
未来は、私たちの選択によって生まれる。
書き終えて顔を上げると、窓の外に朝日が昇っていた。
光が帳面を照らし、灰狼の紋章が金に輝く。
レオンがその光を見つめながら、ぽつりとつぶやく。
「まるで……神話の再生だな。」
「いいえ、これはただの“記録”。
──私たちが選んだ、生きた証よ。」
私は笑い、ペンを置いた。
外では鐘が鳴り、街の子供たちの笑い声が響く。
灰狼たちは農民に姿を変え、王都の門を守っている。
そして、新しい国が、静かに息をしていた。
◇
夜、王宮の塔から見下ろすと、雪明かりに照らされた街並みが広がっている。
その下に、過去の廃墟と燃え残った記録の山。
私は胸の中で、あの本に別れを告げた。
(ありがとう、“記録”。
あなたが導いてくれた未来で、私はようやく“人”になれた。)
遠くで、灰狼の遠吠えが聞こえる。
夜風が頬を撫で、雪が舞い落ちた。
──未来は白紙。
だからこそ、美しい。
私はレオンと共に、その白い世界を見つめた。
「さあ、これから書こう。
“神なき時代”の物語を。」
──《終章:記録の終焉》完──
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『裏切られた王妃は“未来の記録”を手に、過去をやり直す』は、私にとっても特別な作品になりました。
もともとは「断罪」「追放」「契約結婚」といった王道テーマから始まりましたが、書き進めるうちにそれだけでは終わらない――“運命を書き換える物語”へと成長していきました。
もし「未来を知っている」人間が、本当に愛と正義を選び取ろうとしたらどうなるのか。
その答えを、エレナという一人の女性に託しました。
彼女は冷静で、理知的で、決して泣き崩れない強さを持つ一方、心の奥では人間らしい脆さや孤独を抱いています。
彼女が“記録”に抗い、“神”の書を燃やすラストは、単なる復讐の達成ではなく、
「自分の人生を自分で選ぶ」という、人間の自由の宣言でもあります。
そして、もう一人の主人公――レオン・ヴァルネア。
彼は冷徹な軍人として登場しながら、物語が進むにつれて「信じる者を守るために戦う男」へと変わっていきます。
エレナとレオン、二人の関係は恋愛というより“魂の契約”のようなもの。
互いに過去を背負い、未来を共有する――その静かな絆を描けたことを、私はとても誇りに思います。
本作のテーマは、
> 「運命に抗う力」
> 「記録ではなく、選択によって生きること」
> 「愛とは、未来を共に書くこと」
の三つでした。
小説というのも、結局は“未来の記録”を紡ぐ行為なのかもしれません。
書くたびに、物語が少しずつ違う未来へ進んでいく――その過程を、エレナと共に歩めたのは幸せでした。
最後に。
もしこの物語を気に入っていただけたなら、
ブックマークや評価、感想をいただけると嬉しいです。
それが、私にとっての「次の未来の一行」になります。
灰狼の旗が再び翻る日まで――
また、次の物語でお会いしましょう。




