第六話 灰狼の咆哮:反逆の夜明け
夜明け前の空は、まるで血を薄めたような灰色をしていた。
王都アーベルの遠景が霞む中、風が吹き抜ける。
霧の中に点々と灯る松明──それが「灰狼騎士団」の集結の合図だった。
私の足もとで、黒革の帳簿が微かに脈を打つ。
それはまるで、鼓動のように、私の決意に呼応している。
この夜、私はもう「断罪された王妃」ではない。
私は──反逆者エレナ・ヴァン=ローゼ。
そして、未来を記す“書き手”だ。
◇
「全員、集結完了。」
低い声が霧を割った。
レオン・ヴァルネア。
灰色の軍装をまとい、黒鉄の剣を背に差した男。
その背後に、百を超える灰狼騎士たちが並んでいる。
沈黙の軍。恐れを知らぬ忠誠の群れ。
「王都への進軍は三刻後だ。偵察によると、王は南門の防備を強化している。」
「民は?」
「民兵の動員命令が出ている。
王太子セドリックは“魔女討伐”と称して民衆を集め、あなたの処刑を再び宣告した。」
──予想どおりだ。
未来の帳簿に、次のように記されていた。
《王暦四二一年・秋。
王妃は再び断罪される。
だがその夜、王都は炎に包まれ、鐘は二度鳴る。
“灰狼”が咆哮するとき、王の時代は終わる。》
私は帳簿を閉じ、風の中で静かに言った。
「……つまり、次の“断罪”が最後になるのね。」
「その通りだ。お前が死ぬ未来など、もう存在しない。」
レオンの声が、静かに燃えていた。
炎ではなく、鋼の熱だ。
「レオン。」
「なんだ。」
「あなたが最初に私に言った言葉、覚えてる?」
「“契約成立だ、王妃殿下”──だろう?」
「ええ。でも今日で、その契約は終わり。
これからは、共に立つ同盟者として──あなたと歩む。」
レオンは少し目を細め、うっすら笑った。
「了解した。ならば、殿下ではなく“エレナ”と呼ぶ。」
「……それでいいわ。」
夜風が二人の間を抜け、松明の火を揺らす。
灰狼騎士団が一斉に膝をついた。
彼らの前に立つレオンが剣を抜き、空へ掲げる。
「我ら灰狼騎士団は、もはや国王に仕えず。
我らの王は、ここに立つエレナ・ヴァン=ローゼとする!」
地を揺るがすような歓声が、霧を破って響いた。
狼の咆哮のような声。
その音を聞いた瞬間、帳簿の頁が勝手に開いた。
《“灰狼の咆哮”が響くとき、未来は確定する。
王国の時代が終わり、“新たな秩序”が芽吹く。
しかし、その秩序の根は──血に染まる。》
……血。
私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「未来を変える」ということは、誰かの未来を奪うことでもある。
それを、私は分かっている。
でも、もう止まれない。
◇
三刻後。
王都アーベルの南門は、夜の闇に包まれていた。
王都兵たちは“王妃討伐”の名目で集められているが、その多くが疲弊し、恐怖に怯えている。
民は空腹に、王は傲慢に、国は腐り果てていた。
私たちの軍が姿を現したとき、兵の一部が膝をついた。
彼らは私の名を知っている。
“断罪された王妃”。
けれど今は──“復讐の象徴”。
「降伏する者は、罪を問わない!」
レオンの声が響く。
兵士たちは迷い、次々に武器を下ろしていく。
やがて門が開き、王都の夜が露わになった。
火の灯る広場、金の尖塔、鐘楼。
その中央に、王宮が黒く聳えている。
「行きましょう。」
私は馬に乗り、王宮を見据えた。
「この夜で、すべてを終わらせる。」
◇
王宮前庭。
私とレオンは並んで立っていた。
王はまだ出てこない。
代わりに、群衆の中から一人の声が上がった。
「……王妃殿下!」
振り向くと、メイラがいた。
侍女服のまま、涙に濡れた頬。
「生きて……生きておられたのですね!」
「ええ、メイラ。あなたの信じた通りに。」
私は笑いかける。
その瞬間、王宮の扉が開いた。
金色の衣をまとった王太子セドリックが現れる。
その顔には、王冠の重みに押し潰された男の影。
もはや“王”ではない。
恐怖と後悔に憑かれた亡霊。
「……生きていたか、エレナ。」
「ええ。あなたが滅びる未来を見るために。」
「ふん、戯言を。お前が持つその“魔書”こそ、国を呪う元凶だ!」
セドリックが叫ぶと同時に、弓兵が矢を放った。
その瞬間、帳簿の頁が開く。
私は文字を読み上げた。
《この瞬間、風が吹く。矢は逸れ、灰狼の旗が王の冠を貫く。》
──風が吹いた。
矢が反れ、灰狼の紋章旗が、王の足もとに突き立つ。
セドリックの顔が蒼白になり、レオンが一歩前に出た。
「王よ。あなたの時代は、終わった。」
「……貴様、外様の将が、我が王に──!」
王の叫びが終わる前に、鐘楼の鐘が鳴り響いた。
──ゴォン。
──ゴォン。
二度。
それは、帳簿に記された“終焉”の合図だった。
広場に炎が上がり、灰狼たちの咆哮が轟く。
私は馬から降り、王の前に立った。
「セドリック。あなたは、もう王ではない。
あなたが築いた国は、私が引き継ぐ。」
「……貴様に、そんな資格が──」
彼の言葉が途切れた。
その瞳に、燃える王都が映る。
私は静かに帳簿を閉じた。
「資格ではない。これは、選択よ。」
風が吹き、灰狼の旗が翻る。
その下で、王は膝をついた。
未来は、再び書き換えられた。
◇
夜明け。
王宮の最上階。
私は窓辺に立ち、帳簿を開いた。
最終頁には、ひとつの短い文だけが記されていた。
《未来は白紙となった。
以後、この記録は、あなたの筆で綴られる。》
白いページが、朝の光を反射してまぶしい。
私は羽ペンを取り、ゆっくりと書き始めた。
《王暦四二一年・冬。
新たな国の名は──アウローラ。
その始まりに、二人の名が刻まれる。
エレナ・ヴァン=ローゼ。
レオン・ヴァルネア。》
書き終えた瞬間、背後から声がした。
「新しい章の始まりか。」
「ええ。今度こそ、私たちの手で書く未来よ。」
レオンが微笑み、外の光に目を細める。
灰狼たちの旗が風に揺れ、朝日がそれを黄金に染めていた。
私は帳簿を閉じ、彼の手を取った。
もう、この本がなくても大丈夫。
私たちは、未来を自分たちで書けるのだから。
(さようなら、“記録”。
ようこそ、“物語”。)
──完──




