第五話 燃える鉱山と血の誓い
風が重く、赤い夕陽が王都の外壁を染めていた。
その空の向こう──南部の山々から、黒煙が上がっている。
未来の帳簿に記された通り、鉱山が炎に包まれた。
王国最大の鉄鉱地帯〈ルグナ鉱山〉。
そこは、戦争と陰謀の発火点となる運命の地だった。
「王太子が……ヴァルネアに密約を?」
報告に駆け込んだのは宰相の息子であり、いまは“保守派”の貴族フェルナー卿。
彼は汗に濡れた髪を掻き上げ、私の前で膝をついた。
焦りに満ちた目の奥には、すでに“恐怖”があった。
彼は知らない。三年後、その密約が露見して“裏切り者”とされ、首を刎ねられる未来を。
──私は知っている。
「……エレナ様、陛下はこの件を伏せておられます。民に知られれば、王国の信用が崩れる。どうか、誰にも……」
「わかりました」
私は静かに微笑んだ。
その笑みが“了承”のものだと思ったのだろう、フェルナー卿は安堵して去っていった。
だが、その背が消えるやいなや、私は帳簿を開いた。
黒革の表紙の上に、金文字が再び浮かぶ。
《ルグナ鉱山の爆発は、王国による“裏切り”の証としてヴァルネアの怒りを買う。
王国は戦火に包まれ、レオン・ヴァルネアはあなたを逃がすため命を落とす。》
──それが、記録された未来。
でも、私はその未来を拒む。
私はすでに、書き換える方法を知っている。
“読者”でなく、“筆者”として。
羽ペンを握り、余白に書き込む。
《私は鉱山へ行く。彼の死を回避する。未来を、燃やし尽くす。》
筆先がページを走るたび、文字が光を放つ。
未来の形が、軋む音とともに変わっていく。
光の中、ページの下部に、新しい文が現れた。
《南部へ向かう途中、あなたは裏切り者に遭遇する。
彼は“王太子の密使”。》
◇
王宮の裏門。
日が落ちる前、私はフードを深く被り、外套の裾を結んだ。
隣にはレオン。
無言で馬に跨り、私の合図を待っている。
「行くわ。帳簿が告げた“裏切り者”を探すの。」
「どこに?」
「南の峠、鉱山へ向かう道の途中。
──未来が、そこで試すと言っている。」
レオンは短く頷いた。
「では、その未来を叩き潰そう。」
馬の蹄が石畳を叩く。
夜風が頬を裂き、私は冷気の中に息を吐いた。
眼前の山影は黒く、まるで巨大な獣のように口を開いている。
その口の奥に、未来の炎が待っているのだ。
◇
峠道。
霧が濃く、道はぬかるみ、遠くから鉄の匂いが漂ってくる。
レオンが手綱を引き、馬を止めた。
「動くな。──誰かいる。」
その声と同時に、茂みの陰から数人の影が現れた。
黒いフード、薄い革鎧。
その中心に、見覚えのある顔があった。
王太子の腹心、ギルド長官マリウス。
「まさか……あなたが。」
「ご無沙汰ですな、王妃殿下。」
その口調に、露骨な侮辱が滲む。
彼の手には小さな木箱。
その蓋には、王家の紋章。
──罪の証拠を運ぶ“密使”。
「お前が……鉱山を爆破するつもりか?」
レオンの声が低く響く。
マリウスは笑った。
「国が火を放つのではない。民が暴発するだけですよ。
ただ、誰かが導くだけだ。」
その“誰か”が、王家であることを隠しながら。
「愚かな男。」
私が呟くと、マリウスは片眉を上げた。
「愚かなのはあなたです、エレナ殿下。
王はもう、あなたの存在を不要としている。
未来に抗っても、あなたの結末は変わらない。」
「……それを、確かめに来たのよ。」
私は馬を降り、黒革の帳簿を開いた。
風が吹き抜け、ページがめくられる。
文字が浮かぶ。
《ここで選べ。
命を奪うか、運命を赦すか。
選んだ瞬間、未来は変わる。》
私は視線をレオンに向けた。
彼は剣を抜かず、ただ静かに私を見つめている。
その瞳に、何のためらいもない。
「……赦す。」
私がそう告げると、帳簿が一瞬だけ光を放った。
その光に包まれた瞬間、マリウスの顔が恐怖に歪む。
彼の手の箱が弾け、中から火薬が飛び散った。
だが、爆ぜる前に、空気がねじれ、火が消えた。
──未来が、書き換わった。
レオンが一歩前に出て、剣の鞘でマリウスの胸を打つ。
彼は気を失い、倒れた。
周囲の兵たちは逃げ去り、峠に静寂が戻った。
私は息を吐き、帳簿を閉じた。
そして、微笑む。
「ねぇ、レオン。あなた、まだ生きているわね。」
「当然だ。まだ死ぬ予定はない。」
「いいえ、予定なんてものは、もう書き換えたのよ。」
私の声に、彼がわずかに笑う。
その笑みは冷たいはずなのに、不思議と温かかった。
◇
夜、鉱山の入口にたどり着く。
遠くで火が揺れ、燃え残る坑道から風が吹き抜ける。
焦げた鉄と土の匂い。
私は崩れた岩の上に立ち、夜空を見上げた。
「これが、帳簿の書き換えた“未来”……?」
「いや。」
レオンが隣に立つ。
「未来を変えたのは、あんた自身だ。」
私は目を閉じ、冷たい夜気を吸い込む。
もう誰の指示も、運命の文も必要ない。
私が決める。
彼と共に、国を変える。
──その誓いを胸に、指先で帳簿の表紙を撫でた。
次の頁が、ゆっくりと開く。
《王暦四二一年・秋。
王は狂気に染まり、王妃を“魔女”と呼ぶ。
だが、王妃はもう王を恐れない。
その背後に、“灰色の狼”が立っている。》
風が吹いた。
レオンのマントが揺れ、灰色の狼の紋章が光を反射する。
「灰狼騎士団……あなたの軍ね。」
「ああ。今度こそ、俺の軍は“真の王”に仕える。」
「真の王?」
「それは、あなたのことだ、エレナ。」
──その言葉に、胸が焼けるように熱くなった。
私は帳簿を閉じ、強く抱き締めた。
未来を記す神の書ではない。
これは、私と彼が歩む“戦いの記録”だ。
(王よ。次は、あなたの番よ。)




