第四話 監視と微笑:偽りの護衛契約
朝霧が王都を包み、鐘楼の屋根に残る夜露が一筋の光を跳ね返した。
私とレオンはまだそこにいた。
屋敷を焼く炎の残滓が遠くで煙を上げ、冷えた風が頬を撫でる。
黒革の帳簿は、膝の上で静かに閉じられている。
いまや私は、ただの“追放寸前の王妃候補”ではない。
未来を知り、未来を書き換える者──その重みを、ようやく理解し始めていた。
「王妃殿下。これからどう動く?」
レオンが問いかけた。
冷徹な声の奥に、わずかに柔らかい響きがある。
“殿下”という呼び方も、皮肉めいているが、どこかに敬意が滲んでいた。
「まずは……“平静を装う”わ。私が生きている限り、王は安心しない。
だけど、すぐに手を出せるほど愚かでもない。今は、罠を仕掛ける番よ。」
「罠?」
「ええ。王は必ず“監視役”を寄こすはず。その人こそ、利用する価値があるわ。」
レオンの口元が、淡く笑った。
「つまり──“俺”だな。」
「ええ、“あなた”よ。帳簿には、そう書かれていた。」
「本に書かれていなくても、俺はあなたの護衛になっていただろう。」
不意にそう言って、レオンは立ち上がった。
月明かりの名残を背に、外套がはためく。
その言葉の意味を、私はすぐに理解できなかった。
彼の言葉には、常に戦略と感情が混ざっている。どちらか一方では決してない。
◇
──翌日。
王宮の回廊は、相変わらず清潔で、静謐で、欺瞞に満ちていた。
白い大理石の床、香油の匂い、衛兵の無言の行進。
それらすべてが「秩序」を装う仮面だ。
けれど私は、もうその下に“何が潜むか”を知っている。
「お帰りなさいませ、エレナ様。」
出迎えたのは侍女メイラ。
目の下に少し隈があり、昨夜ほとんど眠っていないのがわかった。
私は微笑み、そっと手を取る。
「ありがとう。あなたのおかげで、命があったわ。」
「お嬢様……本当に、昨夜は何があったのです?」
「ただの火事よ。少し、運命の風向きが変わっただけ。」
メイラは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
──信じてくれる人が、一人でもいる。
それだけで、この宮廷に戻る勇気が湧く。
◇
午後、王の使者が私室を訪れた。
黒い礼装、銀の胸章。
王命を告げる声は、淡々としていた。
「エレナ・ヴァン=ローゼ。
宰相の件に関して、陛下は甚だ遺憾に思われている。
ついては、今後あなたの行動を“監視下”に置くとのこと。」
「監視下?」
「はい。すでに人選は決定しております。」
使者が差し出した書簡を受け取る。
封を開けると、見慣れた筆跡が目に入った。
『王命により、ヴァルネアの将軍レオン・ヴァルネアを臨時護衛として任ずる。
任期は無期限。行動の自由は制限されるものとする。
王太子セドリック』
──笑うしかなかった。
彼は、自ら“敵”を送り込んだのだ。
まるで、未来の帳簿に従うように。
使者が去ると、扉の向こうから重い足音が近づいた。
開かれた扉の向こうに、漆黒の軍装。
レオン・ヴァルネア。
冷たい瞳のまま、深く一礼する。
「王命により、あなたの監視を務めることとなった。王妃殿下。」
「“護衛”と呼んでいいのかしら?」
「どちらでも構わない。あなたの指示があれば、俺はそれに従う。」
「……従う、ね。監視とは思えない言い方だわ。」
レオンは視線を少しだけ逸らした。
その横顔が、窓の光に淡く照らされる。
戦場で鍛えられた男の顔。
だが、その眼差しの奥には、氷よりも深い“誓い”のようなものが宿っていた。
「俺は、任務としてあなたを見張る。
けれど──目的は、王のためではない。」
「なら、誰のために?」
「あなたが選んだ“未来”のために、だ。」
その瞬間、胸の奥で何かが震えた。
冷たくも、確かな光。
誰かが私を信じ、共に戦おうとしている──それだけで、全ての恐怖が霧散する。
◇
夜。
王宮の塔の上、月が満ちようとしていた。
私は書斎にこもり、黒革の帳簿を広げた。
インクの匂いがわずかに漂う。
新しい頁には、未来の記述が浮かんでいた。
《王暦四二一年・夏。
王太子セドリック、南部の鉱山利権を巡ってヴァルネアと密約を結ぶ。
だが、裏切られ、王国の鉱山は炎に包まれる。
──その炎の中で、レオン・ヴァルネアは“あなたを救う”。》
私は息を呑んだ。
──彼が、死ぬ。
あの未来の断罪の日、帳簿に記されていた通り。
この男は、私のために死ぬことになっている。
けれど、私はもう“記された運命”に従うつもりはない。
私は羽ペンを取り、余白に書き加えた。
《彼は死なない。
この手で、未来を奪い返す。》
ペン先が震え、文字が光に包まれる。
帳簿が再び脈打ち、新たな頁が開いた。
そこには──まだ見ぬ言葉。
未来が、ゆっくりと姿を現し始めていた。




