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第一話 断罪の日

 鈍い光が高窓から落ち、玉座の前に据えられた断罪台の縁を白くなぞっていた。

 王都アーベルの大広間。磨かれた石床は冷たく、秋の朝の息がまだ消えずに漂っている。


「公爵令嬢エレナ・ヴァン=ローゼ。罪状は三つ──」


 老書記官の声は、乾いた羊皮紙をめくるたび脆く砕け、静まり返った貴族たちの胸郭に淡く響いた。

 私は鎖の擦れる音に、ほんの一瞬だけ視線を落とす。手首の金具は美しい彫り物で、宮廷工房の職人が王妃のために作るものと同じ意匠だ。皮肉なことに、私が命じて整えた宮廷の“均整”は、私を縛るためにも淀みなく働いている。


「第一に、王冠への不敬。第二に、国家財政の私的流用。第三に、王太子暗殺未遂……」


 ざわめきが波のように広がる。

(不敬、ね)

 私は唇を湿らせ、目を閉じた。数日前、王の執務室に積まれていた収支帳──表紙の角が異様に新しく、インクの匂いが、いつも使うランベルト産の黒ではなかった。私はおそらく、その時点で気づいていたのだ。私の手からこぼれ落ちるものの重さに。


「弁明はあるか」


 玉座に半身で凭れた王太子──いまや王となったセドリックが、金線の袖を丁寧にたくし上げた指で、退屈そうに頬杖をつく。

 彼は私の方を見ない。視線はいつも、彼自身が映る硝子か、誰かの称賛の上を滑っていく。

「あります、陛下」

 私はまっすぐ、彼の手許に置かれた赤い封蝋を見た。王室印だ。

「王室印の在庫は、先週“偶然”一つ失われました。補填の記録は今朝付。しかも、その封蝋に押された書状は、三日前の私の決裁として作成されています」


 大広間の空気が一度だけ沈黙に深呼吸をし、またざわついた。

 セドリックは腕を組み、爪で肘布を軽く叩いた。

「詭弁だな、エレナ。印はどこにでもある。書状など、そうやっていくらでも辻褄をつけられる」

「辻褄を作ったのは、私ではありません」


 私は一歩、断罪台の縁まで進み、顔を上げた。

 天井画に描かれた聖女は、黄金の皿に秤を載せ、目元に布を巻いている。

(正義は目隠しをする。誰のためでもなく、重さだけを量るために)

 私は胸の内で、その布を自分の目に結わえ直すように息を吸い込んだ。


「財政の私的流用についても、申し上げます。王家の塩倉に記録された“欠損”は、塩そのものではなく帳簿上の錯誤です。御用商人グレーディの小切手は、二重計上。出納係の筆跡が、五日前から微妙に変わっている。──そしてこれは個人的な推測ですが、陛下、あなたの側近の一人が……」


「黙れ」


 王の声は、想像よりも低かった。

 セドリックはゆっくりと立ち上がり、玉座の階段を二段だけ降りた。

「断罪の場を、劇場にするつもりはない。王命は下った。私は慈悲深い。痛みは短くしよう」


 刃の音が遠くで鳴った。

 刃を研ぐ音は、この国で最もよく整った音だ。私はふと笑いそうになり、唇に歯を立てる。

(笑ってはいけない。彼らはそれを“狂気”と呼ぶ)

 代わりに私は、最後の義務を果たすことに決めた。王妃として、国に捧げる言葉を。


「臣民に申し上げます」


 私は声を張り、広間の隅にいる、粗末なマントの男──城下のパン職人、いつも朝一番に王宮へ固い黒パンを届けてくれた彼に目を向けた。

 彼は驚いたように体を強張らせる。

「私は、私の職務のすべてを、あなたたちに捧げました。救えなかった者の名を、私は忘れません。もし私が罪人として終わるなら、その罪は“気づくのが遅すぎた”ことにあります」


 言い終える前に、誰かの嗤いがかぶさった。貴族席の上段、薄い指輪を重ねた婦人が扇で口元を隠し、隣の男が肩を竦める。

 彼らの衣の刺繍は美しく、しかし針の先は民の皮膚から引き抜いた税の糸で縫われている。私はそれを、知っている。

(けれど、もう終わりだ)

 私の内側で何かが静かに着地した。恐怖は、いつか終わる。終わった恐怖は、ただの記録だ。


 処刑台へと導く兵は、目を合わさない。

 淡い亜麻色の睫毛が下を向き、喉仏が硬く動く。

 私は痛ましさよりも、奇妙な親しみを覚えた。この国の兵は、命じられたことを丁寧に遂行する。私の代で、無用な苛烈を減らす訓練体系に変えたからだ。

 彼らはその通りに動き、いま、私の首の位置が正しく収まるよう、台の高さを微調整する。


 石床の上で、誰かの靴音が止まった。

 視界の端、柱の陰に、黒い影が立つ。

 粗末な外套、旅人の姿。顔は見えない。だが、その立ち方を私は知っている気がした。

(誰──?)

 影はわずかに顎を上げ、こちらに“見る”という仕草を投げる。

 その瞬間、私は自分の胸の鼓動が一つ飛ぶのを感じた。

 彼──名前を知らないその黒影が、右手を持ち上げ、人差し指で空に文字を書くようにゆっくりと動かした。


 ──ぱらり。


 音がした。

 どこからか、一冊の小さな黒革の帳簿が落ちてきた。

 私の足許、断罪台の角に、ありえない滑らかさで着地する。

 誰も気づかない。兵も、書記官も、王でさえ。

 私だけが、その異物を見ている。

 黒。夜の色。革の表面には、古い王家の言葉で二文字、金で焼き印が押されている。


 ──『記録』


 喉が音を忘れた。

 私は鎖の遊びを最大限に生かし、気づかれぬ範囲で膝を折る。

 指先で帳簿の角をかすめ取ると、驚くほど軽かった。冷たさはない。温もりがある。

 表紙を開く。

 そこには、見慣れた筆致が横たわっていた。

 しばらく言葉の海で溺れたのち、私は最初の行を読み返す。


《王暦四二四年・秋。王妃、断罪台に立つ。刃は三度空を切り、四度目で首が落ちる。鐘が鳴る。群衆は歓声を上げ、パン職人は涙を拭う。王は背を向け、黒い影は去る。》


 背筋に、薄い刃が沿った。

 これは“記録”ではない。

 これは“これから起こること”の記述だ。

 二行目を、私は震えない声で追う。


《この記録を読む者へ。あなたがページをめくった瞬間から、記述は可塑となる。あなたが選べば、四度目の刃は落ちない》


 息が、戻る。

 私はふと、笑った。

 笑いは喉の奥で小さく弾け、涙に変わる。

(神よ。神と呼ぶべきものよ。あなたが誰であれ)

 私は文字の海に沈みながら、足許から世界がほどけていくのを感じた。


「──始めよ」


 王の合図。

 刃を持つ兵の足が、私の背後で位置を定める。

 私は帳簿の第三行を、静かに読む。


《“四度目の刃”を回避するには、王の左手の合図より先に“金の鐘”を鳴らすこと。鐘は、玉座の背後の綱に繋がる。綱の結び目は、朝の時点で“ほどけやすい”結びに変えられている。今、左の兵の靴底は濡れている。彼が滑る》


 私は顔を上げた。

 玉座の背後、金の鐘。その綱は、確かに、下がっている。

 左の兵の靴底には、薄い泥。秋の朝露。

(記録は、私の“知っていたこと”しか書けないのだろうか)

 いや、違う。朝、鐘楼係の少年が、結び目をいつもより緩くする理由なんて、私の“知識”ではない。


 刃が持ち上がる。

 私は鎖のわずかな遊びを利用し、全身の重みを左側へ投げた。

 石床に鉄が擦れ、左の兵が一歩踏み出す。その靴が、滑る。

 彼の肩が私の背を掠め、兵自身が驚きの呻きを漏らす。

 その反動で、私は上体を右側へ捻り、玉座の背後へ伸びる綱へ、両手の鎖を絡ませた。


「何を──!」


 誰かの叫び。

 私は祈るように、綱を引いた。

 結び目は、ほどけた。

 金の鐘が、鳴る。


 ──ゴォン。


 大広間の空気が震え、壁に立つ槍の穂先がわずかに鳴いた。

 刃を振り下ろすはずだった兵の腕は、鐘の衝撃音で瞬間的に止まる。

 王が顔を上げ、群衆が喉を詰まらせる。

 私は綱に巻きつけた鎖を離し、息を吐いた。


《鐘が鳴れば、刃は落ちない。記録は、ここまであなたに与える。次は、選べ》


 帳簿の文字はそこで一度切れ、真新しい余白が現れていた。

 私はその余白に、迷いなく指先で文字を書く。

 インクはない。だが、黒い線は、確かに紙の上に現れた。


《私は生きる。王冠を取り戻すために。》


 誰もが私を見ている。

 王がゆっくりと手を上げ、衛兵たちが一斉に剣を抜く。

 私は足を踏み出し、断罪台の端に立つ。

 恐怖は、ない。

 恐怖は“記録”になった。


「王妃を取り押さえよ!」


 命令が落ちるより早く、私は声を投げた。

「王家の鐘は、非常の合図。王都守備の規定では、鐘が鳴った場合、王は王妃の身柄を安全な場所へ避難させる“義務”がある。五年前、あなたが署名した改定条文、覚えておいででしょう、陛下」


 セドリックの瞳から、初めて余裕が消えた。

 彼は言葉を探し、唇を開き、閉じた。

 その隙間に、私は自分の人生を滑り込ませる。


 黒い影──柱の陰の旅人は、静かに頷いた。

 その仕草は、奇妙に懐かしい。

(あなたは誰)

 問いは声にならず、代わりに帳簿が答える。


《ここから先は、あなたが記す。》


 私は兵に囲まれながらも、背筋を伸ばした。

 鐘の余韻がまだ空気の深部で揺れている。

 世界は、ほんのわずかだが、私のために傾いた。

 私はそれを掴み、引き寄せ、次の頁を開く。


 頁の最上段には、震えるような細い文字で、こう記されていた。


《戻れ。三年前へ。失ったすべての前夜へ。》


 息をしたら、世界が砕けた。

 鐘の音が、逆回しになって耳に入る。

 光が糸になってほどけ、石床が水面のようにたわむ。

 兵の顔が遠ざかり、王の冠が霧に沈む。

 私は落ちていく。

 黒革の帳簿だけが、私の胸に貼り付き、熱を持っていた。


 ──そして、目を開ける。


 そこは、薄い灯のともる私室だった。

 窓の外には初夏の雲。

 机の上には、未だ白い婚約式の招待状。

 鏡台の前、若い私が、驚いた顔で私を見ている。


 私は息を吐き、掌の黒革を確かめる。

 そこに、確かに“未来の記録”があった。

 そして頁の端に、見知らぬ筆致で、たった一行だけ新しい文字が増えている。


《ようこそ、二度目の人生へ。──レオン》


 私はその名を、静かに口の中で転がした。

 冷徹な隣国の将軍。

 契約結婚の相手。

 そして──私がこれから“書き換える”未来の、要。


 私は鏡の中の自分に微笑みかけ、招待状を裏返した。

 そこに、今日の日付を書く。

 王暦四二一年・初夏。

 断罪の三年前。

 二度目の人生の、最初の日。


(愛も王冠もいらない──この命で、国を取り戻す)

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