声のない場所
音がなかった。
風のない空間。どこまでも白い地平線。
遠近感はなく、空も地も同じ色に溶けている。
視線を移しても、何もない。ただ、何もないことだけが永遠に続いていた。
私はその中に立っていた。
立っていた“つもり”だった。
この身体は、もはや輪郭さえ曖昧で、輪郭の中にも“空っぽ”しかなかった。
肌も、爪も、声もないのに、私はまだ「ここにいる」と思っている。
それだけが、私の存在証明だった。
髪のようなものがふわりと浮かぶ。
肩にかかる長さ。黒に近い濃紺。
けれどそれは風に揺れているのではなく、“思い出”として揺れているだけだった。
私は――ユマ。
たぶん、それが私の名前だった。
でもその名は、もう私の中で響かない。
ここは、“声のない場所”。
名前を失った者が行き着く、夢の底。
自分が何者かを知ることも、誰かに届くこともない、無音の牢獄。
それでも私は、考えている。
その考えが、淡い光の粒となって宙を漂う。
感情もまた、色になって空間に滲む。
今、私の周囲には薄い紫の霧が浮いていた。
それは、“迷い”の色。
どこへ向かえばいいのか分からないという心の濁り。
時おり、空間の向こうに“かつての記憶”が現れる。
歪んだ本のページのように、空に映し出される断片。
少女の声。
「ユマ、見て! 空が割れてる!」
手を伸ばす誰か。
夕暮れのなかで、叫んでいる。
私はその光景を見ながら、胸の奥に痛みを感じた。
私にも、かつて“声”があった。
誰かに届く言葉が。確かに、あった。
でも今は――
声を失ってなお、言葉を語りたいという衝動だけが、私の中に残っていた。
そうでなければ、私は本当に“消える”。
だから私は、歩き出す。
この、音のない世界で。
姿なき足で、一歩ずつ。
“語りかける誰か”が、どこかにいる気がした。
そしてそのとき、私はまだ知らなかった。
自分の問いが、誰かの灯をともすことになるとは――