静かな読書
鮮やかな赤が、今日のこの店には似合いすぎていた。
紫琴の笑い方が、ほんの少しだけ軽すぎた昨日のことを思い出す。
指先で赤いカバーを撫でながら、俺はそっと、ページをめくった。
最初の数ページで、これは“普通の嘘”ではないとわかった。
綺麗すぎる言葉が、逆にひどく痛かった。
きっとこれは、“誰にも読まれたくなかった本”なのだ。
紫琴が、本当に誰に渡したかったのか。
答えは、黙っていても届くように書かれていた。
誰にも読まれたくなかった物語を、誰かに渡すと決めた勇気が、行間に滲んでいた。
嘘で守ってきた人間が、本気で書いた嘘は、真実より痛い。
名前は書かれていない。
だが、これは“田山花袋”を呼ぶための物語なのだと気づいた。
気づけば次々にページをめくっていた。
最後のページには、水が落ちたような、小さな跡があった。
ページを閉じる手が、一瞬止まった。
読み終えた後、鴎外はしばらく本を見つめたまま動かなかった。
鴎外は、静かに本を閉じた。
辛かっただろう、苦しかっただろう、其れを表に出さずにいることが、どれほど大変なことか。
これは、誰かに渡された本ではない。置かれた本となる方がふさわしいのだろう。
だが、
「マスター、これを預かってもいいか?」
「なぜですか?」
「渡された気がするんだ。……言葉じゃなくて、全部」
「…わかりました。大事にしてくださいね」
赤いカバーを取り外し、黒いカバーを付けた。
「あいつ、強いな。俺なんかより、ずっと」
鴎外が去ったあと、白い本を手に取り、マスターは記録を書いていた。
『こわれ指環』――渡した者:紫琴 受け取った者:鴎外
備考:静かな返事
カフェの灯りが消えた。