こわれた指環の、終わらない記憶
今日こそ、誰かに渡すつもりだった。
赤いカバーの本が、指先にじんわりと汗をにじませていた。
路地裏の風は、まだ少しだけ冷たい。
まるで、あの人の声のように。
私は、足元の石畳を一歩ずつ確かめるように踏んでいた。
この道を歩くのは、何度目だろう。
それでも今日は、少しだけ胸が重かった。
カバーの赤は、私の色だ。
嘘と空想の色。
本当のことを描くのが怖くて、逃げ込んできた場所。
そんな私が、唯一、本気で誰かのために書いた本がこの「こわれ指環」だった。
田山花袋と名乗っていた、あの人。
彼はいつも静かだった。
店の奥で、まるで自分の存在を消すようにページをめくる姿を、今でも覚えている。
いつもは元気に開ける扉を、今日は静かに、ゆっくりと開いた。
私の一番の親友だった、田山 花袋は、私と同じLie Stageの常連で、良く互いの本を交換し合っていた。
ある日、一気に関係が崩れた。
理由は、私の軽い気持ちで言った一言だった。
「あなたの物語は、嘘がなさすぎて苦しい」
言ってから、空気が変わった。
あのときの彼の目を、私は今でも覚えている。
……いや、忘れられないだけか。
彼は一瞬目を見開き、私の本を勢いよく机において、出て行ってしまった。
その日以降、彼はここに来なくなった。
本当は、褒めたかった。でも、そんな言い方しかできなかった。
やわらかく言えばよかったのに。
――あのときの自分を、今でも殴りたい。
私は、激しい後悔の念を抱いた。
嫉妬だった。嘘のない綺麗な小説が羨ましかった。
後悔した私は、こわれ指環を書いた。
本来は、花袋に渡すはずだった本を。
「本日は、どのような御用で?」
マスターの声で一気に現実へと引き戻された私は、
例の部屋へ、と一言告げ、赤いカバーの本を手渡した。
カチャリ、と軽く開いた扉の奥には、鴎外さんと漱石さんがいた。
「紫琴か、」
「紫琴かって、、、まぁいいや」
「今日は何を持ってきたんだ?」
「今日も、こわれ指環」
「次は我に貸してくれ」
「、いいよ~!」
戸惑っていることを悟られないように、一呼吸おいてから、赤いカバーのかかった、思い出の本を、手渡した。
「……今日は、声が少し静かだな」
「そんなことないってば~、ねえ鴎外さん、声が静かなんて言われたら傷ついちゃうな~?」
「そうか」
無言の部屋の中で、静かにつぶやいた
「ねえ、花袋。
あのとき渡せなかった“本当”を、
今は“嘘”って呼んでもいいかな?」