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第十六話 胸の高鳴り

 自室の窓からのんびりと外を眺めていると、控えめに部屋の扉がノックされる音が聞こえてきた。


「エルミーユ嬢、いらっしゃいますか?」

「ブラハルト様? 今開けますね」


 扉を開けると、そこには真剣な表情のブラハルト様が立っていた。

 その真剣な様子を見て、何か大切な話があると思った私は、すぐにブラハルト様を部屋の中に招き入れた。


「何かご用ですか?」

「ええ。これについてなのですが……この本のタイトル、読めますか?」

「…………」


 ブラハルト様が差し出したのは、何の変哲もない本だった。


 どうしよう、読めるかと聞かれても、私には文字を読むことが出来ないのに……。


「その、えっと……」

「…………」

「………………」

「………………」

「……読めない、です……」


 なんとか沈黙で誤魔化そうと思ったけど、これは誤魔化し切れない。

 そう思い、潔く白状をすると、ブラハルト様は小さく頷いた。


「やはりそうなのですね。どうして読めないんですか?」

「昔から、社交界のマナーの勉強ばかり勉強してましたの」

「なるほど……」


 普通なら、どうして普通の教育を受けさせてもらえなかったのかと聞かれるだろう。

 でも、ブラハルト様は契約のせいで、私の過去について聞くことが出来ないため、納得がいっていないような顔で頷くことしかできないようだ。


「もしあなたが望むなら、専属の家庭教師を準備しましょう」

「家庭教師?」

「はい。文字の読み書きから初めて、計算や国の歴史といった、多くのことを学べると思います。いかがでしょうか?」


 勉強ができる……ずっと禁止されていた勉強が? 本当に!?


「いいのですか!? う、嬉しいです! 私、ずっと勉強をしてみたくて……!」

「それなら話が早い。では早速、明日から勉強の場を設けましょう!」

「ありがとう存じます……!」


 こ、こんなところで憧れだった勉強ができるなんて、夢のようだ。

 ……いや、本当に夢じゃないわよね? ちょっと頬をつねってみよう……。


「い、痛い……」

「エルミーユ嬢? 急にどうされたのですか?」

「あまりにも夢の様でしたので、本当に夢じゃないかの確認を……」

「なるほど。大丈夫、これは夢じゃありません」


 確かにこれは、甘美な夢じゃない。れっきとした現実だ。どうしよう、嬉しすぎてまたはしたない態度を取ってしまいそうだわ。


「でも、本当によろしいのですか? 私達は愛の無い結婚だというのに、こんなにたくさん良くしていただいて……」

「愛が無いからといって、大切にしてはいけないという決まりはありません」


 ……本当に、ブラハルト様は心の優しいお方だと思うと同時に、私の脳裏にとある考えが浮かんだ。


 こんなに良くしてくれるブラハルト様に、隠し事をしたくない。私の全てを知ってもらいたい。

 私の身に何があったのか、どうして結婚を受けたのか……理由を言ったら、呆れられてしまうかもしれないけど、ちゃんと話して、隠し事がない潔白の身で、彼の妻として生活したいと思った。


 お父様との契約で、ブラハルト様から聞くことは禁じられているが、私から話すことについては、何も契約をしていないから、自ら話すことは問題無いはずだわ。

 きっとお父様は、私が話すだなんて思ってなかったのかもしれないわ。


「あの、もしよろしければ……聞いてくれませんか? どうして文字が読めないのかも含めて……私の過去と、どうして結婚を受け入れたかを」

「聞きたいのは山々ですが、それは契約で禁じられているのは、ご存知でしょう?」

「私から話す分には、禁止されておりません」

「……それはそうですが……」


 何か懸念点があるのか、ブラハルト様は腕を組んで、何か考えているような素振りを取った。


「俺としても、妻になってくれたあなたのことを、色々と知りたいというのが本音です。しかし、あなたの過去はとてもつらいものだというのは、察しがつきます。それをわざわざ思い出させて、あなたが傷つくのは嫌なのです」


 こんな時も、私のことを考えてくれるなんて……本当に、ブラハルト様はどれだけ優しいお方なのだろうか。彼を誤解している多くの方々に、この優しさを伝えてまわりたいくらいだ。


「ご心配していただき、ありがとう存じます。ですが、優しくしてくださるあなたに、これ以上の隠し事をしたくありませんの」

「……わかりました。あなたがそう望むなら、全て聞きましょう」


 いつも表情に乏しいブラハルト様は、ほんの僅かに微笑んだ。

 それを見た私は、深く深呼吸をしてから、自分の過去について話し始めた。


 自分の出生のことも、幼い頃にお母様を亡くしたことも、家での扱いも、自分の異常な記憶力も、全てをブラハルト様に話した。


「……ある程度は予想していたが、まさかそれほどとは……」

「ぶ、ブラハルト様?」


 なるべくわかりやすいように話し終えると、ブラハルト様は顔を俯かせた状態で、固まった。

 それから間もなく、私は突然動き始めたブラハルト様に、強く抱きしめられた。


 い、一体何がどうして抱きしめられたの!? だ、男性とこんなに密着するなんて、初めての経験なのだけど……!?


「本当につらかったんですね……よく一人で頑張りましたね……」

「……ブラハルト様」


 私の頭を優しく撫でながら言われた優しい言葉と気持ちが、私の心にじんわりと広がっていく。

 そのせいなのかしら……私の目から、ぽたぽたと涙と弱音が零れ始めた。


「……毎日家で仕事をさせられて、暴力を振るわれて、でも社交界では完璧な令嬢を演じないといけない……本当に、ただ耐えるだけの日々で、心も体も休まらなくて……本当につらかったです……結婚したら、家を出れると思っていたのに、妹のワガママのせいで婚約を破棄されて……私には家を出ることは出来ないって、絶望しました。でも、あなたに出会えた。私と話してくれた……婚約までしてくれた」


 そこまで話したところで、私は自分の両腕をブラハルト様の背中に回し、ギュッと力を込めた。


「でも、私は最低なんです。家を出るために、誰が相手でもいいから結婚したくて、ブラハルト様には、家のためと嘘をついて、すぐに婚約を受け入れてしまいました。ブラハルト様は、こんなにお優しいのに……私は、家を出るために、あなたを利用しようとした、最低な女なのです……本当に、申し訳ございません……」

「謝る必要はありません。俺だって、家の存続のために婚約者を探していたのですから。貴族にとって、自分の利益のための政略結婚は、よくある話でしょう?」


 感情がぐちゃぐちゃになっているせいで、言っていることが滅茶苦茶になっているのは、自分でもわかっている。後半の部分なんて、ただ自分の愚かさを懺悔しているだけだ。

 だというのに、ブラハルト様は私を優しく抱きしめたまま、慰めてくれた。


 その後も、私が泣き止むまで、ブラハルト様はずっと私のことを抱きしめ、慰めてくれた。


「申し訳ございません、少し落ち着きました」

「それはなによりです。つらい話なのに教えてくれて、ありがとうございます」


 結局十分以上は慰めてもらった私は、腫れぼったくなった目を指で擦ってから、深々と頭を下げた。


「あの、今更こんなことを言うのもおこがましいと思うでしょうけど……私、優しくて素敵なあなたと結婚できて、本当に幸せです。このご恩は、必ず返させてください」

「恩だなんて、そんなの気にしないでください。それにあなたは、既に俺にしっかりと返してくれているじゃありませんか」

「えっ……?」


 私がブラハルト様に返せたことなんて、一つもない気がするのだけど……。


「最初からあなたは、恐れられている俺のことを、偏見の目で見ずに接してくれました。そして今も、こうして俺と一緒にいてくれる……それが俺にとっては、救いになっているんです。あなたのような優しいお方に出会えて、俺は幸運でした。本当にありがとうございます」


 ブラハルト様の頬笑みを見て、私の胸は大きく跳ねた。それと同時に、自分の体が急激に熱を帯びていってるのが感じられた。


「そ、それならよかったですわ。でも、それだけでは自分が満足できないので、別の方法でお返しさせてください」

「わかりました」


 偉そうに返すと言ったのはいいけれど、私に一体何が出来るのかしら……?

 あと、さっきの胸の高鳴りと、この体の熱さは一体……?

ここまで読んでいただきありがとうございました。


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