コロラド川のヒキガエルは神の味を知っている
科学を知らぬまま研究に固執してしまう人は、まさに舵も羅針盤も持たずに船に乗り込むようなものであり、どこへ行くかは絶対に確かではない。
―レオナルド・ダ・ヴィンチ―
私は人生の羅針盤を求めていた。これまでの意識拡張体験の中で、大体は空疎な体験であったが、私は未来とは粘土に近いものであるという確信めいた思いを抱くようになっていた。つまり未来とは粘土である、不定形である。その未来は内的な、もしくは外的な作用によってさまざまに形が変形され、現在という窯に入れられる。窯の中で焼かれることで粘土が陶器へと変わるように、不定形性が強かった未来という粘土は、成形され、現在という窯で焼かれ、過去という堅牢な陶器へと変わる。私は、未来をどのように成形するべきなのだろうか。そもそも、私はどのような未来を求めているのか。それはつまり、私はどのような過去を未来に求めているのだろうか。その答えが得られそうな体験や思考には何度も接近したように思うが、その都度、彼らは頭の中に何の理解も残さずただ通り過ぎていった。そのうち私は考えたのである。そんなことがわかるのは、やはり全知全能の神しかいないのではないか、と。だから私は、神に会いに行ってみることにしたのである。
※当時の私のプロフィール
男、一般的な会社に勤める一般的な会社員。意識拡張物質について有名どころはすでに何度か経験。その他処方薬や市販薬も嗜んでいたが、基本的には意識の拡張体験を好んでいた。
とある信頼できるつてを使い、私は一つのカプセルを手に入れた。このカプセルの中には若干茶色味がかかった白色を呈する、湿っぽい粉体のようなものが入っている。約15mgの5-Meo-DMT、それがこのカプセルの中身だ。5-Meo-DMT、略せずに言えば5-methoxy-N,N-dimethyltryptamineか。化学構造式で言えばかの有名な幻覚剤であるDMT(N,N-dimethyltryptamine) の芳香環5位がメトキシ基に置換された構造を有する。DMTとの強い化学構造相関性から予想できる通り、5-Meo-DMTも極めて強力なサイケデリクスである。この分子はDMT同様に自然界にもともと存在している。Anadenanthera peregrina(Yopo) や一部のアカシア類、山萩類といった植物は少量の5-Meo-DMTをその体内に含有していることで知られるが、最も有名な天然源はやはりIncilius alvarius(Colorado Riverヒキガエル) だろう。彼らの皮膚や毒腺から滲出される毒液には高濃度の5-Meo-DMTやブフォテニン(同じくサイケデリック特性を持つとされる物質) が含まれていることが知られており、毒液を集めて乾燥させたものを喫煙するだけでトリップできるともいわれる。つまりコロラド川のヒキガエルはこのきわめて強力なサイケデリクスを高濃度で日常的に味わっているのだ。もっとも、5-Meo-DMTはMAOI-Aと併用しないとないと傾口活性はないので、基本的に彼らは常にシラフでいられるわけだが(両生類にも腸管にMAOはあると勝手に思っているのだが実際どうなのかは知らない)。
繰り返しになるが5-Meo-DMTは極めて強力なサイケデリック効果を有しており、その純粋な強度(サイケデリクスの効果に『強度』という尺度を用いることの是非は置いておいて) はDMTに匹敵するほど強力である。十分な量とコツさつあれば、比類するのは死くらいであろうとも言われる厳然たるブレイクスルー体験を使用者にもたらす。ところで、化学構造はとても類似しているDMTと5-Meo-DMTであるが、両者の主観的体験の違いについて多くの先駆者達が主張している。具体的な言及はこの場では省略するが、5-Meo-DMTはDMTのような宇宙的、次元横断的な体感や鮮明なヴィジョンは弱い一方、よりスピリチュアルで神秘的な体験を使用者に与えるとされる。DMTがよく魂の分子と呼ばれるのに対して、5-Meo-DMTは神の分子と言われるのはそのような効果の違いからきているのだろう。神の分子、いい響きだ。神に合うことを望んでいる私にとってはうってつけの分子ではないか。約二週間、付け焼刃的なセット&セッティングの時間をとり、いざ、私は第二次元速度まで加速できるロケットに乗り込んだのである。
当日。時刻は午後の13時。この物質は人によっては強い吐き気をあとに残すという情報を見たので、食事は朝に軽く済ましたきりだ。手元にはミネラルウォーターと落としも準備している。正直落としなんて飲んでる暇はないんだろうが、まぁおまじないだ。約10分ほど心を落ち着かせるための瞑想を行った後、私は遂に意を決した。試験管のような形をしているやや大きめのガラスパイプの中にカプセルを入れ、ターボライターを用いて慎重に炙る。薄い乳白色の煙がガラスパイプの底を満たし始め、早くも心臓の鼓動が早まっているのを感じる。私は大きく息を吐くと、そのいきおいでガラスパイプの底に溜まった煙を一気に吸い込んだ。やや刺激はあったものの、思ったより吸いやすい。口の中に入ってきた煙は、舌の味覚受容体および鼻腔の嗅覚受容体を刺激しつつ、気管支を通り肺の中に充満する。私の中に神が満ちる。そしてそのまま息を止める。5秒……10秒……15秒経ったのち、肺から吐き出す。神は、微かな生魚臭を有する焦げた食パンのような味がした。
…おや?。この分子の喫煙は、それはほんの数秒で効果が始まると聞いている。しかし今のところ心身は普通なように思える。うまく吸い込めていなかったのかもしれないと思った私は、再びガラスパイプを炙ろうとターボライターを手に取ろうとしたその時であった。視覚に映っている物体すべてが爆発を起こした。非常に驚嘆した。もちろん物体が実際に爆発したわけではない。だが、申し訳ないが私の貧弱な語彙力ではそれ以外にうまい形容の仕方が思いつかないのだ。物体が持っている性質(形状、化学的・物理的特性等) はそのままに、全ての物体を覆っている一枚の透明な薄皮が膨張し破裂したかのような感覚。それはつまり、これまで私は事物を直接見れていなかったことを私に理解らせる感覚。あの薄皮はいったい何だったのか、おそらく偏見、レッテル、そういった類の、私の自我が勝手にそれらに押し付けていた「意味づけ」のようなものだったのではないだろうか。例えばだが、これまで性的に見ていた異性が結婚したり何か酷い事件を起こしたりしてそういう目で見れなくなった、みたいな経験。憧れていた相手の本性を知り幻滅したとかそういうのでもいい。それはつまり自分が相手に抱いていた、というより一方的に押し付けていた関係づけ意味づけが解除される体験だともいえる。それと似たようなもの、その時の私の目に映っていた事物に対する自我による存在認識におけるよりプリミティブな意味づけが取り払われる感覚、つまり自我による事物認識におけるバイアスの消失。おそらくそれがこの爆発体験の本質なのではないかと思う。つまり今目の前に映る、いや感じる物体は物体本来が所有している自然に近い、自我の干渉のない本来の姿なのだ。だからなのだろう、目に映るすべてが持つその現実性・写実性は私を圧倒するに足るものだった。現実世界のリアリティの変容はサイケデリクスにおける典型的な認知的効果の一つであるが、私はこの時ほど強烈なリアリティの変容をこれまで味わったことはない。しかも徐々にではなく爆発するように世界のリアリティが一変したのだ。
恐ろしいことに、まだ効果を感じてから30秒もたっていない(おそらく)。この爆発体験のあと、私の知覚は急速に渦を巻き変容していった。心臓の鼓動は短距離走をした後のように激しい。アドレナリンラッシュによる典型的な闘争-逃走反応だ。体の感覚は引き延ばされ、意識はグニャグニャに変形し、「私」がどんどん収斂されていくような感覚。ゴォォォというトンネルの中を車で走っている時のような音が聞こえ始めたと思ったら徐々にその音量を増していく。もはや「知覚」が変容しているのか、それとも「知覚を処理するプロセス」が変容しているのかわからない。おそらくどちらももはや正常ではなかったのだろう。変容した知覚を何とか認識しようとしている間にも深みはどんどんと増していく。この段階でもはや、かつてLSDXM※1で体験した強烈な深みのピークをはるかに超えているほどの深みだ。目の前の空間が細かい立方体に分割されて、それがばらばらと崩れ去っていくような激烈な変容。耐えられず目を閉じるとぼんやりと瞼の裏に何かが映っている。そのまま目を閉じているとそれは徐々に結像し、真っ黒の背景に浮かぶ巨大な白い多角形となった。多角形は正五角形になったり正六角形になったり正三角形になったりと変化しながら、かなり速いスピードで時計回りに回転している。雲一つない冬の夜に空を見上げたら、夜空の2/3を覆っている回転する白い六角形が見えたという状況を想像してほしい。あまりに巨大な多角形だった。そのままだんだんと目の前が真っ白になっていき、そして、越えた。何を越えたのか、何が越えたのかはわからない。だが、明らかに壁を越えた。ポテンシャル障壁に囲まれていた粒子がトンネル効果により障壁の向こうに滲み出たように、私はどこまでも真っ白な、おそらく正確には色のない世界、とても現世とは思えない場所にいた。
先ほどこの分子をロケットと形容したが、それは全く正確ではなかった。ロケットの場合発射から終点までの間は時間的な過程が必要不可欠で進行することになる。つまり終点へは到達することになる。この物質は過程を許可しない。それは到達ではなく転位である。酸やキノコでは感じることができる、こちらとあちらの間に広がる場のグラデーションが存在しないか極めて弱いのだ。もはや時間感覚も肉体感覚もない。ただ私自身の存在それしか感じられない真っ白に光り輝く別世界の中に、私が拡散してる。どこまでが私で、どこからが私じゃないのかはわからない。もはや思考や判断や認識といったような高度な処理は働かない。私が今呼吸をしているのかも、生きているのかすらもわからない。ただ存在しているだけの「場」の中に、ただ私が存在している。ここから数分間(おそらくそのくらいだと思う) は体験のまさにピークであったが何もない。私はただただ揺蕩い、存在していた。
暫くして頭の中に冷たいものが流れる感覚を覚えると同時に、わずかな思考の余地が私の中に生じ始めた。この物質は思考やマインドへの影響はあまりないようで、余地さえいただけるなら意外と素面のように思考ができる。そして、今置かれている状況を理解しようとした結果、依然真っ白な世界に希釈されている私はある一つの確信をえた。ここは神であると。今、私の目の前に広がっているように見える真っ白で広大なこの空間こそは神そのものであり、私はその神に包まれているのだ。その場で私が邂逅したのは、具体的な表象としての神ではなく、神という概念で満ちている場そのものであった。神が神秘体験をもたらすものではなく、人性本然の己が神秘と衝突したときに生じる場こそ神だったのだ。神に包まれる体験、それはもはや臨死体験をも超越した、いわば越死体験といえる。私は今、死後の世界の一つを垣間見ているのではないか。この体験に比べれば、これまで体験した臨死的体験だの自我の死だのとよんでいた経験がなんと浅いことか。そしてもしこの世界が本当に別世界で、そして死後の世界であるなら、それは本当に「無」だ。意思もなく、感情もなく、思考もなく、人称もなく、ただ存在のみが存在する世界。苦痛も悦楽も感じない、そもそもそういった概念が存在しない別世界。現世とは明らかに異質で、異なる次元に存在するとしか思えない世界。いつか私は、またこの場へ行くのか。おそらく私は恐怖を感じていたんだろうが、それは周辺の神に溶け込み霧散していた。まさか、神とは全知全能の存在ではなく、現世を俯瞰する別世界そのものだったとは。
立ち上がりが極めて急峻であったのと同じように、この物質の終わりもまた急峻であった。いつしかあの世界は次元の彼方へと没却し、私の存在は私の肉体へと還る。吸引から20分ほど経った頃には体の感覚が戻ってきて、徐々に現実性の変容も収まり、1時間もする頃には至って平常な状態へと帰還することができた。ぼーっと壁を眺めながら、私はこの物質の力を借りるきっかけとなった動機を思い出す。神に会いに行き、人生の羅針盤を受け取る。だが、今になって思えば実に滑稽で浅はかな考えであった。この物質は文字通り別の世界に連れていく。異世界ではない、別世界だ。そしてこの物質は別世界への扉でも、それを開く鍵ですらもない。今我々が知覚できる世界とは断絶された世界へ連れていく転位装置だ。だからこちら側の世界で考えた動機や期待などは何の相互作用も与えない。極端な話、この物質の使用に関してはセットとセッティングは必要ないとさえ考えてしまう。あの断絶された世界へ転位されてしまえば、たちまちこちら側での準備は悉皆去勢されてしまうだろう。あの空間では全てを感じることができ、そして感じることが全てである。つまりあの場では空間が即ち意味となり、意味が即ち空間となっているのだ。そしてその空間に希釈され、溶け込む感覚。それはまさしく空間との、意味との、神との合一。梵我一如的体験。もう未来とか将来とかいい意味でどうでもよくなってしまう。これ以上の神秘体験を与える物質は、おそらくあとDMTくらいしかないだろう。しかしこれでもブレイクスルーには至らない量での体験なのだから、ブレイクスルーとは如何様な体験なのだろうか。残念ながら、これ以上の探求に二の足を踏んでいた矢先、5-Meo-DMTが指定薬物として日本では規制されてしまった。私は後悔するとともに大きな安堵も覚えた。なぜなら、おかげでやらなくて済む理由ができたからだ。5-Meo-DMTの世界は、興味だけで飛び込むにはあまりにも深すぎる。
コロラド川のヒキガエルよ、あなたはなぜこの味を知っているのか。
●注釈
※1
酸、もしくはそのアナログとDXM のカクテルの俗称。低用量同士の組み合わせであっても強烈な体験を与えるためよほど慣れてる人じゃない限り非推奨。