奈落
「婚約破棄されたんだって?」
……来ました。
一番会いたくなかった人が。
「出て行って」
「それで大泣きねえ」
笑いを堪えながら声の主は私が座るソファーに近づいてきます。
それは楽しそうに。見なくてもわかります。
抱えたクッションに押しつけていた顔を上げ、私は声の主を睨みつけました。
「お義兄様」
「なんだい、クリスティン」
「聞こえなかったのですか?出て行って下さい。ここは私の部屋です」
「知ってるさ。だから来たんだから」
「未婚女性の部屋に入って良い異性は父親だけです」
「父親が良いなら兄も良いだろう」
「義理です。《義理》の兄。アウトです」
「固いこと言うなよ。小さい頃はいつもここで一緒に遊んだじゃないか」
「いつの話ですか。それに、小さい頃でも乳母が一緒でした。
二人きりになったことはありません」
「そうだったか?」
「いいから出て行って!」
「そう言うな。慰めに来てやったんだ。それにドアはちゃんと開けてあるよ」
「…………」
お義兄様は睨む私など気にもせずに、笑いながら向かいの椅子に座りました。
「驚いたよ。まさか恋人を連れて卒業記念パーティーに乗り込んで行くとはねえ。
あいつがお前に婚約破棄を言い渡したのを聞いていた人間は何人いた?
教師、学園を卒業し成人貴族となった者たち。親もいたか?
これは絶対、覆せないね」
「…………」
「ははは、あいつもなかなかやるじゃないか。見直したよ」
お義兄様はいつもこうです。
私の胸をえぐるようなことばかり、平気で言う。
「お義兄様」
「何かな?」
「そんなに私が嫌いですか?」
「嫌われる心当たりがあるのかい?」
はっとして視線を落としました。
私はこの国で唯一の公爵家の一人娘。
王太子殿下と結婚し、王家に入れば公爵家は後継者を失います。
お義兄様は私の代わりに公爵家を継ぐべく《ここ》にいるのです。
けれど。
王太子殿下と結婚しないのであれば、私が公爵家を継ぐことになるでしょう。
その時、お義兄様は―――――
「……ごめんなさい……」
思わず言ってしまいました。
ですが、謝って済むことではありません。
そんな言葉ひとつで償えるものではない。
私が起こしたことで、お義兄様の人生を変えてしまうのです。
私が……いらない想いを抱いたせいで……。
「ああ、気にしなくていいよ」
意外にも優しく言われ胸が痛みました。
「ただ呆れているだけだ。自分の評判を落として、皆に迷惑をかけて。
それであいつに手酷く振られて、大泣きして。馬鹿なのか?ってね」
……違う痛みが胸に刺さりました。
だからお義兄様は苦手なのです。
わかっています。
言われていることは全て当たっています。
それは、お父様を含め私のまわりにいる誰もが言わない本音、でしょう。
ですが
ここまではっきり言われて傷つかない人などいるでしょうか?
王太子殿下に婚約破棄を言い渡されてから一番、涙が溢れました。
ぼろぼろと。
散々泣いたのに。
自分のどこにまだ、これほど涙があったのかと驚いたくらいです。
「出て行って……」
かろうじて、それだけを言って私はまたクッションに顔を埋めました。
立ち上がる音がしました。
ようやく、お義兄様が出て行く―――そう思ったのに。
私を嘲笑うかのようにすぐ横で囁く声が聞こえました。
「……もういい加減、目を覚ませ。
今すぐ覚まさせてやるよ。
聞いていないんだろう?
義父上は言えなかっただろうからな。
どうせすぐに――遅くとも《会議》では、嫌でもお前の耳に入ると言うのに」
「え?」
何を?と聞く前に
お義兄様は言いました。
「ミリア嬢のお腹には子がいるらしいぞ。お前の愛しい王太子殿下のな」
――― う そ よ ―――
そんなはずがないわ。
だって王太子殿下は
彼は
――「君は、僕にはもったいなさすぎる」――
そう言って。
わかったの
彼は
私を
だから私は―――――
彼は
……何か……言ってくれた…………?
突き落とされた気がしました。