マスク
香月よう子様の「夏の夜の恋物語企画」参加作品です。
「アイス」
それだけで君が『コンビニにアイスを買いに行きたいから付いてきて』と言いたいのがわかる。
10年来のお隣さん同士はラフなTシャツと短パン、そして今じゃ欠かせないマスクをつけていつもの道を歩く。
太陽はもう沈んだが、湿気が肌に纏わりつく。
マスクで顔が蒸し暑い。
涼しい家から地獄の外へ出てきたことを僕は少し後悔している。
君も暑いのか長い髪を結いてポニーテルにした。
少し焼けて茶色になった髪と程よく焼けた健康的なうなじを見つめる視線に気がついて、君は変態と手で首を隠しながらわざとらしく眉を寄せてみせた。
「今日の英語の小テストあったじゃん」
「うん」
「負けた方がアイス奢りね」
珍しく点数が良かったと見える。
僕はそれでも動揺一つせずいいよと言った。
「71」
「……70」
「やった!」
君は嬉しそうに飛び上がる。
彼女のことだから聞いてなかったのかもしれないが、今回の平均は80点。僕も15点ほどサバを読んだ。
知らぬが仏、彼女が幸せならそれでいい。
スキップしながら何を食べようか目を輝かせて悩んでいる。いつものにしようか、それとも新作を買ってもらおうか。何がいいと思う? と僕の顔を横から覗き込んで聞いた。
彼女の手が触れそうで触れない距離にある。
冷房で冷えきっていたはずの体温は溶けるようにじんわり上がっていく。それはきっと夏の夜のせいじゃない。
「高いのはダメだから」
僕の声に君は目を細め、意地悪な色を浮かべてどうしようかなと首を傾げる。
やっぱりその笑顔が見たい。マスクの下の素顔が見たい。
今だってきっとその下には僕が見たいものがある。
二年前までよく見ていたはずの笑顔を、最後にきちんと見たのはいつだったのかも思い出せない。
手を伸ばせば簡単に取れる距離。だけどそんな事したら君に怒られるだろう。
「じゃあさ、今度勉強教えてよ」
「いつも教えてるじゃん」
「今の生温い感じじゃなくて、次のテストで90点取れるぐらいにして」
「急だなぁ」
「だってそれぐらいじゃないと同じ大学行けないもん」
僕は意外な言葉に驚くと、驚きすぎとバシッと背中を叩かれた。
てっきり推薦で別の大学に行くのかと思っていた。腐れ縁もここまでかもしれないと僕がずっと焦っていたのを君は知らないだろう。
思わず顔が綻んで、緩んだ目元を見た君は馬鹿にしてると勘違いして少し不機嫌そうにしている。
二人分のひっかけのサンダルが道をする音が心地いい夜。
なんだかこのなんの変哲も無い夜を一生忘れない気がした。
なんだかこのなんの変哲も無い気持ちを一生忘れたくないと思った。
夜の中一際目立つコンビニの明かりを見つけて約束だからねと走りだすその手を気がついたら僕は掴んでいた。
不思議そうな顔でこちらを振り返る大きな瞳に見つめられ、僕は棒立ちのまま何も言えないでいた。
「何?」
ただならぬ沈黙に君の声音は少し緊張していた。
僕も意図せず掴んでしまったので内心、どうしようかと焦ってはいたがマスク越しでもわかるぐらい君が驚いているのを見て僕は決意する。
目を見開いた君に僕はカラカラに乾いた喉でこう言った。
「先についた方が次回奢ってもらうってことで」
よーいどん、と僕は勢いよく走り出した。
まともにやっていたら絶対に僕は負けてしまうのに、ぽかんと呆気に取られた君は僕がコンビニについてからようやくノロノロと歩き出した。
「ズルい」
それだけ言って店に入る君の耳は真っ赤に染まっていた。
僕の大事な気持ちはマスクをした君ではなく、何も飾らない君の顔をきちんと見ながら伝えよう。
僕の好きなコロコロ変わる表情を見ながら、必ず伝えよう。
その時はどんな顔を見せてくれるだろうか。
嬉しそうな顔か、嫌そうな顔か、それとも怒ってるかもしれないし、泣き出すかもしれない。
いや、多分君ならきっとーー