◆12 クロエ
ヨゼフの左胸から、血まみれの腕が生えている。分厚い脂肪をたやすく突き破った細い腕は迷いもなく引き抜かれる。小太り男の肉体は力なく倒れた。まるで人形のように。
一瞬の、しかし見間違えようのない出来事に、まわりはじわじわと凍りついていく。
ルッツが悲鳴をあげた。
「……ひっ! ヨゼフ!?」
土を這う赤い液体のそばで、クロエは生気がない姿のまま動かない。
彼女がした行動に俺も固まったが同時に別の思考もまわる。あの朝に見た光景は夢ではなかったんだ。洞穴をでた彼女はあの足取りでここに来た。そして履歴が正しければ過去も定期的にここへ足を運び、惑星の情報を得て、そのあいだは自分を、記憶を失っている……。
いいや、頻度はもっと多いはずだ。岩で塞がった道が通れるようになったあの日も、まさか――
持参した通信機が鳴りだす。ダグラスが応じた。
「マーク!」
マークの声が漏れ聞こえてくる。
〔船長大変です! さきほどドロイドの固有品番をデータベースと照会しました。そしたら、……女ドロイドについて書かれたニュース記事がでてきました〕
〔見出しは【行方不明の暗殺ドロイドは何処へ】。……あの女ドロイドは、当時のエル国大統領を暗殺するためにテログループが改造したガイノイドドールです。グループはテロ実行前に拘束されたらしいのですが、ドロイドだけが行方知れずで、懸賞金がかけられています〕
〔船長、ドロイドを慎重にあつかってください。もしなにかの拍子で凶暴になったら〕
「マーク。……もう手遅れだ」ダグラスが声を震わせる。
「船をこっちによこせ! はやく」
〔……だめです。船はまだ飛べません〕
マークの返答にダグラスは喉を詰まらせ、悪態を吐き、通信をきった。
クロエの肩がびくりと震える。ぎこちなく動きだす彼女はダグラスたちに向く。表情は虚ろで、なんの感情を読み取れない。
「……クロエ」
彼女は俺に振り返ることもなく、ダグラスたちへ歩きだした。
「よ、ヨゼフをよくも!」
ルッツが足もとの金属パイプをもった。振り下ろした金属パイプは、しかし片手で受け止められる。
パイプは握り潰され、捨てられ、ルッツの左腕をわしづかみにした。
悲鳴と、骨の砕ける音が俺の耳にとどいた。
クロエは手を離し、ルッツは叫ぶ。
「やだ! いやだ死にたくない。いやだぁー!」
よろめき、転び、悶えながらルッツは駆けだした。
「ルッツ! まて落ち着け!」
混乱し逃げ去るルッツをダグラスが追いかけていく。クロエも彼らを力なく追いはじめる。
俺は彼女のゆく手を阻んだ。
「クロエ、お願いだ。もうやめて」
足に力がはいらない。でもこれ以上、クロエのこんな姿を見たくなかった。
クロエは俺に顔を向けるとすぐに拳を飛ばしてきた。思わず避け、風のかたまりが頬をかすめる。だがつぎの払いのける腕に、俺の身体は横腹から宙に浮いていた。
意識がちらちらと明滅してぼやけた景色がだんだんと形になる。砂が入った目も、全身も痛くてたまらない。
思い切り飛ばされた俺は岩に背中を打ち、それから気を失っていたらしい。呼吸をしようとしてむせるような咳がでた。
ルッツとダグラスが遠くに見える。彼らは『惑星のおへそ』がある奇岩、そこにつながる道を走っている。彼らのうしろには、ゆっくりと追いかけるクロエがいた。
「……だめだよ、クロエ」
身体じゅうの関節が痛くて、頭はぐらぐらする。それでも俺は足を踏みしめる。見捨てない。クロエにどんな過去があったとしても、俺は絶対に彼女を助ける。
……約束だってまだ果たせていないじゃないか。一緒にランチボックスをひらいたときに俺は言ったんだ。「きみに花を渡す」って――
痛みをこらえ俺は奇岩につながる橋を進んでいく。あのさきは行き止まりで、彼女にかならず会える。
やっと奇岩の入り口に手をついたとき、ルッツの悲鳴が反響した。
急いで内部に入るとルッツは奥の足場で、首が不自然に曲がった姿で息絶えていた。
そばには見下ろしているクロエがいる。
クロエに迫った。身体の痛さも忘れて。
「やめてくれ! 俺だ、ユーリだよ。……クロエ思い出して」
至近距離で呼びかけた俺にクロエはおもむろに動きだす。ヘーゼル色の瞳に生気はなく、息づかいもない。
「……クロエ」
クロエは俺ににじり寄る。それはまるで殺す対象を見つけたような気配だった。呼びかけに応じない彼女にだんだんと追いつめられ、最後は枝分かれする足場の左側、――空中にとび出た道に俺はいた。
さらに一歩踏み寄ったクロエは、俺の首を両手で絞めはじめた。その細い腕に見合わない凄まじい握力に俺は目を見開く。
離そうとしても無駄。しだいに持ち上げられ、自分の体重さえ首にかかる。
息苦しさも痛みも感じられなくて力が入らない。首の軋む音が聞こえ、視界は黒く濁り、意識が薄れていく。
……こんな感覚、前もあった。クロエと初めて会ったとき、助けられたときだ。
ある意味マシな終わりかもな。彼女に出会えて、身を預けると決めたんだから――
――消えかけの意識が急にゆり戻され、視界はひろがる。地面に足がつき、首の圧迫が解けている。
クロエは、その場で固まっていた。俺の首から手を離して。
「……クロエ? クロエどうしたの」
まとわり付いた血を厭わずに彼女の腕をつかむ。俺一点を見つめたまま制止したクロエは、悲痛な表情をしていた。
「返事してよクロエ。ねえ……」
「やっと停止をしたか! この狂いドロイド」
クロエが奇岩の壁側へと引っぱられる。その勢いで腕をつかんでいた俺も前方へ倒れこんだ。
鈍い音が聞こえる。顔をあげたとき、クロエはダグラスに無造作に転がされていて、ダグラスは彼女を蹴り飛ばしていた。
罵声を吐き、蹴り、彼女の顔を踏みつけるその光景に、俺の背筋は、頭は、例えられない怒りで煮えたぎった。
「ダグラス!! クロエから離れろ! いますぐ」
「……なに。この期におよんでまだ庇うのか! そうかそれほどまで俺たちが嫌いか!!」
響きわたった怒声もいまの俺には関係がない。あふれ出る感情を込めてダグラスを睨みつけた。
ダグラスは顔を歪ませる。憎しみに満ちた顔で。
「ユーリ、お前だ……俺たちをこんな目にあわせたのは。お前がいたからヨゼフとルッツが、俺の大事な仲間が死んだ。お前は不貞の子じゃねえ、疫病神だ! ……殺してやる。ころしてやる!!」
逃げ場のない俺めがけダグラスが突進してくる。道の下は底が見えない大穴だけ。走ってくる振動で足もとが揺れる。
このまま突き飛ばされるか絞め殺される――
ダグラスが目の前に迫ったそのとき、
突如として彼の姿勢が大きく崩れた。うしろから引っ張られたのだ。
「……こいつまだ動くのか!」
「ユーリにげて!」
クロエが、そこにいた。汚れきった姿の彼女はダグラスの二の腕をつかんでいた。俺をまっすぐ見つめる瞳には意志が宿っている。
「クロエ! もどったのか」
「いいから、はやくにげて」
俺は動いた。よろけたダグラスの隙をつきクロエの後ろにまわる。
「くそう! 許さねぇぞお前ら!」
ダグラスは俺が逃げたことに悔しがり、クロエの腕を振りほどこうとしている。
「だめだよクロエ! こいつに構わず逃げよう」
クロエは何も言わない。
腕を振りほどいたダグラスが彼女に掴みかかる。かろうじて耐えるクロエの、足が動いた。
ダグラスを後ろへと押しやる。何度も、何回も。焦るダグラスの背後からついに道がなくなった瞬間、クロエは最後に思いきりぶつかった。
道の先端が、崩れた。
「うわあぁぁっ――――!」
ダグラスが仰向けの格好で落ちていく。
同時に、崩れた道はクロエの足もとに広がった。
「……クロエ!!」
落ちていく彼女へ走り、手を伸ばし――
崩れがおさまったとき、俺は腹ばいで、ぶら下がる彼女をかろうじてつかんでいた。
真っ暗な穴のうえで揺れる彼女の身体。離さないように強く握った。
「大丈夫、だからね。いまなんとかする」
「……ユーリ」
「心配したよクロエ。さあ帰ろう、……んっ、あれ?」
クロエを引き上げようとした。が、伸ばしきった腕にこれ以上の力がはいらなかった。姿勢さえも変えられない。
いまになって、俺の頭は真っ白になった。
バラバラ、というかすかな音が聞こえはじめる。音はしだいに目に見える『道のひび割れへ』と形を変えだす。俺が腹ばいになっている場所の真下にも広がった。
「……ねえユーリ」
クロエは俺に語りかけた。優しい面持ちで。
「あなたには生きて、ほしい。わかるよねユーリ」
短い言葉、短い間。なのにとても長くて、重い言葉。
「……なに、言っているんだよ。いやだよ、……嫌だ!」
拒否よりもさきに涙が湧きだした。とまらないまま目からあふれ、落ちていく。
いやだ絶対に嫌だ! 何度喚いても、クロエは顔を変えなかった。
「あなたに言ったでしょう、私はいつか惑星とひとつになるって。その日が来た、ただそれだけなの。私は『この惑星の精』だから」
「それは、ちが……。俺は、クロエと一緒にずっと」
言いかけたものを飲み込み、俺は泣いていた。
「あなたと暮らせてね、本当によかった。私はずっとこの惑星にいるから。ありがとうユーリ、きっといつか、また会える……」
「クロエ、……はっ!?」
気づけば俺の涙は腕をつたい、彼女をつなぎとめる手を濡らしていた。涙と手の血が混じりあい、ぬめりを帯びている。
彼女の手が、俺の手から抜けていく。
「いやだ、まってクロエ、クロエ!」
「またね。ユーリ」
クロエと、手が離れた。
「クロエェぇぇ――!」
落ちていく彼女に俺は叫んだ。頬笑んだままクロエは俺のもとから離れていき、遠く遠く、暗闇のさきへと消えていった。
コルタナ号の後方ハッチが開くとマークがそこにいた。彼が俺に驚いた――いや、悲鳴を上げた理由は考えるまでもない。
首と手は血にまみれ、衣服も血痕で汚れきったこの姿に無表情でいられるほうがおかしな話だ。
「ゆ、ユーリ。……船長たちは?」
マークの質問に俺は応えない。睨みをきかせたあと船のタラップを上がっていった。
丸い小窓から赤茶色の風景を眺めた。着替えを済まし、船の修理も終わり、コルタナ号はエンジンをうならせる。
クロエが下へ落ちていったあのあと俺は呆然として、つぎに泣きじゃくって、足元の崩れかけた岩の道を拳で殴り続けた。いっそここが崩れてしまえばいい。俺も彼女のもとに落ちたい。身を投げることだって考えた。……でも、できなかった。
生きてほしい――クロエの言葉が俺を思いとどまらせた。
この惑星でひとり『生身の人間』が生きていくのは到底無理だろう。彼女がいたから命をつなげてこられた訳で、だからこそ俺はコルタナ号に戻った。
慣れはじめていた窓の外の景色が、いまは寂しげに映っている。
マークの操作するスラスターが船を浮き上がらせる。赤茶色の砂塵を吹き飛ばし、大地は少しずつ、だが確実に離れていく。
――きっといつか、また会える。
彼女の言葉を思い出しながら、俺は遠くなる惑星をずっと、ずっと見つめていた。
――少年が惑星を去るとき、女性は見送りに来ることはありませんでした。
しかし少年はわかっているのです。しかたのないことだと。そして彼女と暮らした日々は、どんなものにも代えられない宝物になりました――