神になりたいとは言ってない
昔々のことでございます。枯れ果てた地に、たいそう飢えた獣がおりました。
猟師共に仲間を狩られ、ただ一匹生き残ってしまった獣は、縄張を失い、這う這うの体で神にも見放された不毛の地に逃げのび、そうして絶えようとしておりました。
空舞う鴉共が馳走を今か今かと待っておりました。耐え症のない虫けら共は獣の禿げ上がった皮を食んでおりました。
遠くなった耳に、咆哮が轟いたのでございます。獣の兄弟の遠吠えでも、飛び去る鴉共のだみ声でもございません。
きっと痛みはあったのでしょうが、獣は最早痛痒を失っておりましたので、体のどこを撃たれたのやらも判然と致しません。ただ、僅かに残った鼻が、己の皮を剥ぎにやってきた猟師が纏う臭いを教えたのでございます。それは紛うことなき、遠く懐かしい兄弟たちでございました。
幾ら経ったかわかりません。獣は化け物となっておりました。
不思議なことに、首を絶たれようとも臟を抜かれようとも尽きることはなく、けれど幾ら食べても飢えはおさまらぬのです。
幾つの山を食い尽くしたかわかりません。幾つの里を食い尽くしたか知れません。化け物は尽きぬ獲物と安息の地を求め延々と歩き続けたのでございます。
白い神がおりました。彼は鄙びた村の小さな神でありました。
化け物は里や山の神を幾度も食ろうて来ましたが、白い神は化け物の牙が届かぬ水神であったため、力及ばず、彼の住処たる湖の底深く深くへ縛られてしまったのでございます。
暗く、冷たく、陰気な水底に住まう神は、どうしたものか、やたらと陽気で無闇にお喋りでございました。
化け物が問うてもいないのに彼が語るには、白い神は元は単なる獣であり、偶然白く生まれたその身をたいそうありがたがった村の人間たちに持て囃され、祈りを受けて神となったのだそうでございます。
化け物は白い神が纏う人間の臭いを厭い、たいへんに毛嫌いしておりました。その上たいへん煩わしい声で村のよしなし事を延々聞かせるものですから、隙を突いては水底から這い上がろうと試みるのでございますが、無論湖には呪いがあり、瘴気に塗れた化け物は外へ出ずることを許されぬのでした。
その村はたくさんの祭がありました。祭があるたびに白い神は湖を留守にし、帰ってくるや延々と外の話を聞かせるのです。
その村にはたくさんの草木がありました。花や実をつけるなり、村人は喜び勇んで祭壇に捧げ、白い神は喜ばしいことだと笑うのです。
その村では多くの子が生まれました。皆が皆家族であるのだと、子が生まれるたびに白い神は酷く喜び、たくさんの幸いを授けるのです。
化け物はずっと水底におりましたが、口の止まらぬ神様が延々と外を語るので、裏手の椿や悪戯坊主なんぞ、さも見てきたような心地でありました。
白い神が祭りに行こうと宣いました。化け物が己は行かぬと申せば何故かと詰ります。
何を言う。貴様が俺を閉じ込めているんだろうが。俺とて行けるものなら行っている。空に咲く花火とやらが見てみたいのだ。
なんだい。お前は間抜けだね。どうりでいつまでも引きこもっていると思ったら、気付いていなかったの。穢れなんかとっくの昔に祓っちまって、今のお前は私の眷属だよ。
まったく間抜けだねえ。と笑う神に、知らぬ間に眷属にされてしまった化け物はたいそう臍を曲げてしまいまして、共に花火を見上げたのは翌年からでございます。
もとは人間を食っていましたから、そんなものに媚びる神様の眷属なんぞやっていられんと突っぱねましたが、所詮は畜生あがりの化け物でありましたから、同じ畜生あがりでもみなに崇められる神様には叶わぬのでございます。
そら何処そこの子の見舞いに文旦を、何処そこにはこの梨を、そうだ彼処に文を書いたのだった、帰りがけに届けておいて、呉々も失礼のないようにね。などと、さんざ使いっ走りにされ、ときには日に四度も村を駆けまわっておりました。
どうだい、この村は。なかなか呑気で良いとこだろう。
使い勝手の良い眷属にことかいて、近頃はめっきり動かず水底の程よいところで眠ってばかりの白い神が、さも読み通りと言わんばかりに笑うので、その年ばかりは無理くり引きずって年々派手に大きくなっていく花火で驚かせてやったやったのでございます。
しまいには神様業まで眷属に押し付けようという神様でありましたが、畜生の野良育ちの眷属では、市井の人語に苦労はなくとも、宮司や神主の難しい言葉なんぞは、てんで理解できぬものでありました。
なあに、適当でいいのさ。などと気楽に宣う神様に辟易して、彼は思ってもない謗りを申しました。
飢えも痛みも苦しみも知らず、ただ見目だけで崇められ持て囃されて死に神となった貴様に、俺が教わる道理が何処にある。
流石に怒って罰を与えれば良いものを、白い神は、それどころか手を打って喜びました。
なるほど。上手いこと言った。たしかにそいつに関しちゃお前のほうが一家言ある。どうだい神主、世の中も拓けてきたことであるし、ここらで神も代替わりといこうじゃないか。
眷属はたいそう機嫌を損ねまして、村は三月ほどカンカン照りの日照りが続きました。
悪かった悪かった、話があるから聞いとくれ。喧しい、貴様なんぞ知らん。知らんで良いから聞いとくれ。知らんやつの話なんぞ聞かん。まあまあそう拗ねるな、ほうらお前さんの好きな人骨だぞ、正直何が良いんかさっぱりわからんが、これをやるから聞いとくれ。
人や獣に寿命があるように、神や鬼にも寿命がございます。ただ肉の身とは少し異なり、我等の命数は人の願いでございます。
気付けば、祭囃子は随分と昔のことでございました。
神々に縋り祈りを捧げるばかりであった脆弱な人間は、いつの間にやら神への祈りを忘れるほどに強かになっておりました。
そんな気配はあったから、今更さほど驚きゃしないが。
そんなら日照りにすることなかったではないの。
それなら、俺が神になる必要もなかろうが。俺は人間を祟る怨霊だ。人助けなんぞクソ喰らえだ。
それで構わんよ。人はどんどん潔癖になっていくからね。お前のような物騒なのがいれば具合いが良い。
そういう話をしているんじゃない。だいいち、俺が神になったら貴様はどうするんだ。どうせ水底に潜って安穏と隠居生活を送る気だろう。
それも悪かないね。だけど私は輪廻に還るよ。あわよくば人間になれるかもしれない。
なんだと、お前、人間なんか絶対許さんからな。速攻で見つけだして人生終了してやるからな。
人間が憎くないかと訊くと、どうしてだいと驚くのです。裏切られたとは少しも思っておられません。それどころか、腹一杯に満たされた顔で、随分と長く楽しませてもらったよ、と宣うのです。
いくら地上を照らそうが近隣の川から引き入れた水は田畑を潤し、家々に繋げられた水道管は毎日浴びるほどの水を運びました。どれほど手を尽くそうと、人々は水の恩恵を願いませんでした。
代わりのように、人々は眷属に願いを懸けます。誰それが憎い誰それが怖い誰それさえいなければ。お互いを容易に殺すことが出来なくなった世の中では、彼のような祟り神が返って有り難がられるようでございます。
いくら言っても神の依代に入りたがらない眷属に白い神は遂に説得を諦めました。
眷属を依代に封印し、魂が器に馴染むまで長い眠りにつくよう呪いを掛けたのでございます。
彼は知らぬ場所におりました。新たな神の為に誂えたのでしょう、溜め塗りを施された打板は所々が薄くなっておりましたが、彼がいくら強く踏み込んでも軋み一つあげませんでした。
見知らぬ場所でございますから、当然湖はありません。ただ、鳥居の向こうから覚えのある山が見えましたから、此処が元居た場所の程近くであることが知れました。
彼はすぐに元いた場所を目指しました。後から何事かを呼び掛ける若い男の声が致しましたが、長く眠っていたためでしょう、全身から力が溢れていて、とにかく留まってはいられなかったのです。
大きな建物がたくさん並んでおりました。鳥居も社も神楽殿も久しく共にあった草木さえみな影もなく、ただ黒ずんだ灰色の塔が墓標のように並んでおりました。湖には大きな道がありました。黒やら白やらの鉄の塊が目まぐるしく交差し通り過ぎていきました。
神は何処にもおられませんでした。新しい神社をあずかる神主に尋ねても、彼は頭を抱え、訳の分からぬ詫び言を繰り返すばかりでございました。
神気の残火さえないのですから、きっと眷属が目覚めるずっと前に、おそらくは彼を封じた直後に輪廻に還られたに違いありません。神とは無情でございます。
けれど、それほど人間になりたかったのなら、必ずや本懐を遂げるに違いありません。
彼は毎日神の御魂を探しまわりました。生まれたばかり赤子を確かめ、外から越してきた者を伺い、決して人とは限りませんから、そこらを飛び回る鳥や野良猫、果ては蛙にも協力を呼び掛けました。
神は帰って来られました。
仮にも眷属が間違える筈はありません。真新しい詰襟に着られた頼りない風貌の少年は、たしかにその身に白い神の御魂を宿しておりました。しかし不思議なことに、少年の目は全くの盲で、仮にも眷属の姿が見えず、あまつ声すらも届かぬようでございました。
眷属は少年に幾つもの災難を降らせました。己に黙っておかくれになられた仕返しも多少ございましたが、器を剥がしさえすれば神に戻るだろうと信じていたのでございます。
けれども、少年はなかなか死にませんでした。柵を腐らせベランダから転げ落とせば偶然通りかかった人間が緩衝材になり、運転手を眠らせ車を暴走させれば丁度逃げていたひったくり犯に衝突します。駅のホームから突き落とせば到着間際の車両が脱線しホームに突撃致します。
元怨霊では神を祟ることは出来ないということなのでございましょう。
いずれにせよ、次々と災難に見舞われることは少年にとって只事ではなかったようでございます。
高い塔は彼処此方にございまして、そのうちいくつかは人が入らなくなって久しいようでございました。すっかり心を窶した少年は、その塔の頂上より自死を試みたのでございます。
これには元怨霊もたいそう驚きました。彼の知る神は人を慈しむ神であらせられましたから、そのようなことをなさるとはちらとも考えませんでした。
自ら人の身を助けたのはそれがはじめてのことでございました。
何を言ったのだか覚えておりません。とにかく驚いて、とても侘しくなりました。見えも届きもしないと知っておりながら、まるで人のように声を張り上げ、叱りつけました。
少年は腑抜けた顔で涙を溢しておりました。あれほど死ぬ目にあいながら、自ら墓石を築いてようやく死を理解したようでございます。
情けなく濡れそぼった眼を覗き込むと、そこには、顔を真っ赤に染めて怒り狂った白い神が、目をかっ開いてこちらを見詰めておりました。「・・・・・かみ、さま」それは、涙で枯れ果てた少年の声でございました。
己を神を呼ぶその姿は、まこと脆弱で強かな人間の子でありました。そこに白い神はおりませんでした。否彼の知る白い神などもうどこにもいないのです。天にも現世にも地獄にも。もうずっと、どこにもいないのです。
人に望まれ神になったと仰いました。せめて一言くらい恨み言を吐けば良いものを、楽しかったと笑うばかりで、これでは代わりに祟ることも出来ません。
彼は途方に暮れました。胸が苦しくてかなわないのです。神様が勝手に押しつけた感情が、勝手に育って外に出たいと喚くのです。
捨てるのは恐ろしく、かといって返す先もないこの感情を、どこにやったら良いものか。彼は途方に暮れました。
これが私が神となった事と次第でございます。