内包されてる狂気
ギリギリのバランスで日常と非日常が僕の中で平均となっている中、三日目になった。
レミリアさん不在という、この半年では珍しい事態でも僕は一人分減ったから負担が少し軽くなったというか、元に戻っただけかという、特に残念でも何ともない感情になりながら朝の家事を終わらせ、いつも通り一人で朝食をとって姉さんが降りてきた頃には食べ終わって食器を片付け始める。
レミリアさんという部外者のいない久し振りの朝な気がする……なんてぼんやり考えて、慌てて首を振る。
ああまずい。段々と戻ってる。姉さんが出て行った当初の僕に。佳織がいなくなるまでの、あの当時に。
推測する。戻ったらあの頃以上に荒れる可能性があると。
断定する。僕の精神の摩耗は、想定より早いことに。
そして確定。少なくとも二日以内に、僕はこの思考を放棄し、どんな手段をとるか分からないことを。
僕は自分のすべてを知ってるわけじゃない。それは、他の人達もそうだろう。
だけど僕は度重なる心労と疲労による入院を繰り返していたことから、他人より自分の精神状態に関しては理解が深い自信がある。あと、両親が対人技能極振りという極端なせいか、僕や姉さんもそれなりに会話から推測、周囲の人間を観察して場の空気を読んで発言するのが得意だ。それのおかげで女優としてのスターダムな道を歩んでいるのだろうし。若くしてね。
つまり何が言いたいかというと、基本的に僕は自分の状況の把握や現状の整理を行ってから相手の言いたいことや言わんとしてることを先に言っている。こういうのは状況の把握と相手の感情の推察、そこから何を言おうとしてるのかと思考のトレースがつながっているのを理解していれば誰にだってできると思う。圭の場合は情報を整理した中で出てくる相手の心理状態を話してるみたいだけどね。
自分で自分の首を絞めてるみたいだなぁと気を落としながら自室へ向かい、姉さん達が食べているのをしり目に「行ってきます」と呟いて家を出た。
空を眺めて歩きながら、空を飛べたら嫌なこと忘れられるんだろうかと現実逃避する。
さっきから僕が戻る戻る言ってる意味が分からないだろうから説明すると、中学校を卒業した姉さんが単身家を出たせいで家事に関するすべての負担が当時小学生だった僕すべてにのしかかり、精神がおかしくなった。姉さんは同級生にあった時に聞いたかどうか知らないけど、商店街の人達が「手伝うか病院へ連れていくか判断に迷ったレベル」だそうだ。
当時を思い出すとするなら……クラスメイトの名前なんて一切憶えてなかったし、そもそも学校が邪魔だとさえ考えていた。当時鬱陶しく絡んでくる奴らなんか正直な話、路傍の石ころが何の用? 位興味がなかった。
あるのただ一つ。家の平和を守ること。ただただそれだけ。
ぶっ倒れることなんかしょっちゅうで、そのたびに医者からの追及をかわし続けての繰り返し。
佳織が突如として転校した小学六年以降はなりを潜めていたんだけど……やっぱり根底にあるからか、時々顔を出しているのが分かる。周りにばれているかどうか知らないけれどね。
そんな佳織はどうやら一緒に登校しないらしい。まぁ他に友達もできただろうし僕的にはどうでもいいけどね、ついて来ようが来ないが。
学校に到着していつも通りの日常が始まる。今日は菫さんと佳織も休みになったという話で始まったけど。
相も変わらず。僕側からしたら「非日常」であるはずなのに「日常」を送れているという不安定さに慣れず、多少の会話で済ませる。
中島愛という設定であるはずの人物が我が物顔で僕達の日常を振り回している。
大黒は「大丈夫だ」と保証してくれたけど、今この時ばかりはそれが嫌だった。
授業が本格的に始まったとしても、中等部で習った事の復習みたいなものだ。一応ノートをまとめておくけど、必要になるかどうかは別だ。この学校が存続してるかどうか難しい話だろうし。
指名されたときは適当に間違えてありがたい解説をノートにまとめつつ、今後のことを考える。
良くて休校。悪くて廃校……かな。休校になったら多分、家からでなくなるかもしれないし、家にいないかもしれない。ちょうどいい機会だし、姉さんみたいに僕もこの地を出ていこうかな。無事に終われたら。
まぁ結局捕らぬ狸の皮算用といったところだけどなぁ。
ポジティブなことを考えてそれを自分で現実に引き戻し、何がしたいんだかと息を吐いて次の授業の準備を始めた。
特に何事もなく放課後。
普通に帰宅準備を終えた僕がそのまま教室を出たところ、元の妹である中島愛がいた。明らかに僕を待っていたのが分かる。
表立っては警戒しないで「あれ、元を守らなくていいの?」とこちらから話しかける。
すると向こうも警戒してないのか「久し振りに遇えて嬉しかっただけだから!」と笑顔で答えてくれた。
……多分、障害の一つとして数えられていないんだろうなぁ。
向こうから近づいてきた理由に当たりをつける。読み辛いからほぼ当てずっぽうだけど。
向こうが圭と話してるのを見たことがないので、一応当たりのはず。
となると一体どんな話が始まるのやら。なんて考えながら、僕は家に帰りたいためにそのまま歩き出す。
その行動に彼女は慌てて「ちょ、ちょっと待ってください!」と言われたけど半分無視。
向こうのペースに乗りたくないためでもあるし、さっさと帰って家のことがしたいという日常のためでもある。
そんな僕の行動に苛立ったのか、彼女は駆け出して僕の前に立ちふさがった。
「話を聞いてください!」
「別にいいけど。手短にね」
虎穴に入らずんば虎子を得ずの精神で罠だと分かる会話にあえて乗ってみると、彼女はにやりと笑い耳元で「貴方の彼女、取られたよ?」とささやき、後ろに回られた。
僕はその意味を反芻し、恐らく該当するだろう人物を特定し、そして「ふぅん」と答えた。
「…………え? うそ」
「中島愛さん、だよね。教えてくれてどうもありがと。きっとそのことも、周知の事実なんだろうね」
後ろを見ずにそう適当な感じで返しながら、僕は再び歩き出した。
校舎内から音が響いたけど、もう僕には関係ないので知らないふりをした。
家に帰って着替えて商店街に行って……なんて家事を済ませる。夕飯も食べ終えた僕は、誰もいないので自室で圭に電話をかけた。
『もしもし』
「あ、圭? ちょっと報告したいことがあるんだ」
『…何?』
「僕さ、帰る途中にアイツに言われたんだよ」
『内容は?』
食い気味な質問に、僕は普段とは想像もつかないほどに饒舌にしゃべりだした。
「レミリアさんが同じく編入してきた人と付き合ったとかそんな話だったよ。あははっ、昨日帰ってこない理由を姉さんから訊いけど嘘でも言われたのかな? いやあながち嘘でもないかもね。なにせ『そういう風』に言える職業だもんね。となるとこうなってからもうすでに姉さんは認識していたのかな? どうなんだろうってどうでもいいよねそんなこと。言われたことは最初のことだよ」
『……落ち着いたか?』
そう言われて数回深呼吸をする。心なんて落ち着かない。むしろやっぱりヒットしたなぁという気持ちが生まれ、段々と自己が堕ちていくのが分かる。
『で?』
「どうしたら……いい?」
『…………後でメールする。それまでは普段通りに』
そういって電話が切られ、つながらなくなった携帯電話をそっと机に置き、ベッドに向き直ってから思いっきり殴った。殴って殴って殴って……そして、叫んだ。
この日僕はおそらく初めて物に当たった。
「連ー! あんた電話に出なさいよ!! ……ったく」
叫び疲れてベッドに背中を預け、体育座りをして顔を隠していたところ、時間がそれなりに経過していたからか姉さんの怒鳴り声が階下から聞こえた。
顔を上げてのそりと立ち上がる。目元が濡れていたのでそれを拭き取る。そして携帯を見ると、『今夜果ての教会で』という圭からの短いメールだった。
…………引き籠れって、ことかな。
多少は収まったようだけど未だにぶり返す兆候が自分の中にあるのでそれを何とか抑え込み、姉さんの声を無視して中等部の時に使った旅行鞄に三日分の服と下着、それとどうせやることなんてないに等しいのだから勉強道具全教科一式を詰め込む。
携帯電話は後々面倒になりそうだけど、圭との連絡用に必要なので持っていくとして……家の通帳とかは……いらないか。こんな家、破産しようが僕にはもうどうでもいいしね。
このパンデミック? テロ? まぁ区分はよくわからないけど、これが無事に解決するかどうか知らないしねぇ。だったらいっそのこと、解決した後に預金ゼロになって困ってしまえばいいんだ。そうすれば僕なんかがこんな苦労する必要はない……まぁ、それやったら僕がバイトで苦労するんだろうけど。
世の中ままならないなぁ。はぁ。
ひとまず通帳はいつもの場所に厳重に放置。両親に場所を教えてないし、知っていたとしてもそもそも開けられない。お金が無くなったら姉さんに頼むしかなくなる。必然的にね。
一つ一つ自分の中で決めていると、扉が強くたたかれた。
誰がやったのかは状況的にわかってる僕は結局それを無視して決めていき、持ってくカギを自宅と自室のみとして他すべてを適当に隠してから姉さんが叫んでる内容で今後の事態を想定する。
さっきからレミリアさんって断片的に聞こえたから、恐らく仕事仲間を連れてきたってことかな。要するに、二撃目。
あいつの想定外と向こうの思惑をつなげた結果が此れ、か。ずいぶん念入りにやるもんだ。元の方を狙えばいいのに……もしくはそれが芳しくないのかな。僕なんか最初の一発目で精神崩壊したっていうのに。態々止め刺しに来なくていいのに。僕は普通なんだからさ。
相手に対し溜息をついた僕は旅行鞄を手に持つ。教科書が重い。けれど、それだけだった。
むしろ心は軽くなる。頭も軽くなる。思考がクリアになっていく。
――なんだ。簡単じゃないか。
ドアを開けたら姉さんが叩いてる途中だったのか拳が振り下ろされたので、大人しくそれを喰らって俯く。その時に後ろ手でカギをかけておく。
姉さんはしまったといった雰囲気を出したみたいだけど、そんなこともう、どうでもいい。
言葉が無くなったので丁度良かった僕は「じゃぁね渚さん。あとはよろしくお願いします。勝手にどうぞ」と言ってすり抜けて階段を降りる。
「……っ! 待ちなさい!!」
上で誰かが喚いているようだけど、興味も湧かない。
下に降りてきたときに絡んできた夫婦の言葉に耳を貸す気などなく通り過ぎ、居候とその彼氏面がなにやら話していたようだけど、だから何?
――なんで、最初からこうしなかったんだろう。
家を出て、何気なく空を見上げる。
どうやら満月のようで、月に照らされて星々も煌めいている。街灯と高層ビルがないおかげで広い空が見える。
赤くないのが残念だ。それだったら僕の門出を祝福してるような気分になったのに。
「――ちなさい! 一体どこへ――!!」
ああうるさい。さっきの人がついてきたのか。
しばらくのんびり歩いていたけれど、流石に鬱陶しくなった僕は立ち止まり振り返る。
すると、どうでも良くなった人が息を切らして立ち止まっていた。すぐに出てきたからか裸足だったりみっともない格好のような気がするけど、僕には関係ない。
こんな僕に必死になるなんて随分かっこ悪い。思わず嘲りたくなる。でもやらない。それじゃこの人の心は折れないだろうから。
それなら遠慮しないのが礼儀だよね。うんびしっとやっていこう。
だからその人が何か言う前に質問した。
「みっともない格好で出てきて外聞はどうでもいいんですか? 仮にも芸能人なんでしょ? そんな必死になってどうして追いかけてくるのさ?」
その人は息を整え終えたのか顔を上げ「家族だから、だよ」と答えた。
その答えが滑稽過ぎたので、僕はにやけながら「それはまた随分と綺麗なことですね」と挑発する。
「なに」
「貴方は逃げた。家のことをたった一人の弟に。まだ子供も子供の弟にすべてを投げて自分の夢をかなえるという道に逃げた。で、半年前に帰ってきて家族面、ね」
ああ可笑しい。きっとこの可哀想な人は、目の前の僕はあの時の僕のままに映っているのだろう。それを想像するだけでも笑いがこみあげてくる。
そんなことないのに。そんな殊勝な性格してるわけないのに。
歯を食いしばっているようなので、態と近づき今日自分がやられたのと同じように耳元で囁いてあげた。
「どれだけ自分が酷いことをしたのか自覚もできないあなたに『姉』を名乗る資格はないのでは?」
「!?」
一歩、また一歩と後ろに下がるその人。その表情に満足できた僕は、興味が無くなったので踵を返し「さようなら」とその場を後にして誰にも気づかれないルートで指定場所へ着いた。
到着して、冷静になって、元たちと会話しながら内心で僕は本当に呆気ないなぁと思いながら疲れたのでその日は寝た。
――敵なら全員、再起不能にすればいいんだよね。




