言語学
庄一との電話を切ってから本を戻してきた僕は、姉さんがいないことに気付いた。
何やら話し合っている両親に訊いてみる。
「姉さんは?」
「ん? 病院行くって」
「そっか」
時間を見たら九時過ぎ。三十分ぐらいは話していた計算になるのかな?
まぁそんなことは置いといて。両親が何やら話し合っているので好奇心で覗いてみたところ、スケジュール帳や資料を突き合わせていた。どうやら、明日から復帰する仕事の打ち合わせをしているらしい。
邪魔をしては悪いので、僕は静かに自分の部屋へ戻って復習することにした。
学校でどこまでやったか分からないけど、引き籠って勉強していたところまで学び返す。それが学校に比べて遅いかもしれないけど、僕には予習と称して先へ先へと進めていくことが出来ない。確信が持てないのだ。自分の理解の仕方に。
一人で勉強する時は大体復習。少し予習する時はあるけど、その場合は数学とか物理とかはっきりとしたものぐらいかな。文学考察とか曖昧な分野に関してはやる気が起きない。
まぁ勉強自体にやる気しないのだけど。
「まぁそんなこと言ってられないし……」
学校に通う以上、勉強は避けて通れないものなので黙々と進める。圭や花音さんから教わったことを思い出しながら。
えっと、これがこうでこうだから……あれ、この部分これ使うのか。忘れてた。
そんな風に黙々と、脳内で知識の再確認及び補填をしているとノックする音が聞こえた。時計を見るとまだ十時にもなっていない。
一体何だろうと思いながら「一体どうしたの?」と近寄らずに呼びかける。
ドアの向こう側から返ってきた言葉は、僕に客だ、だった。
「……」
別に警戒する必要はないのかもしれない。だけど、アポもなしに来る人なんてほとんどいない現状からすると、怪しむ理由には十分すぎる。
少し考えたけど答えなんて出ないので息を吐いてから部屋を出て確かめることにした。
「久し振りだね、連君」
「ああ、佳織ね。どうしたのさ」
玄関先で待ってると言われたので外に出たら、ちょうど境界線あたりで佳織がソワソワしながら待っていた。服装はおしゃれに気を遣っているみたいだし有名なブランドなんだろうけど、興味のない僕からしたら材質変わらないのにぼったくりだと思える値段だよなぁとチェーン店で売ってるものと比べてしまう。
どうやら良識があるのかそれ以上入る様子がなかったので、外に出て声をかける前に向こうが挨拶してきた。こちらも軽くあいさつして用件を聞く。
すると向こうが視線を急に彷徨わせ始めた。
「……どうしたの?」
「え、あうん! ただ、初めて友達の家に来てるからなんて言えばいいのか分からなくて!!」
照れ笑いを浮かべながらまくし立てたので、向こうに行ってから友達らしい友達いなかったのだろうかと親でもないのに心配しつつ、「何、退学するの?」と質問する。
そしたら、予想以上に力強く「そんなわけないじゃん!!」と否定された。
「せっかくこうして連君と再会できて、お、同じクラスになれたっていうのに……辞めるわけないじゃん!」
「あ、うん。そっか。ごめんね、佳織。君の家庭環境からそういう意見もあるかなって思っただけだから」
そう言うと彼女は信じられない顔をして一歩引いた。
思わず真顔で「どうしたのさ」と訊ねると、「連君、どうしてわかったの? 素直に怖いんだけど」と言われたので、「ただ可能性を提示しただけなんだけど」と首を傾げる。
「それでも! 私の家庭の事情、一切知らないよね?」
「子供の頃跡を継ぐのが嫌で逃げていたことぐらいしか。でも跡取りの身に危険が及ぶ可能性があると、どんな人でもそんな可能性に行きつくんじゃないの?」
「え、えー? そ、そうかな? そうだとしても、なんで今言ったの?」
「君が訪ねてきた理由に見当がつかないから。もしかしたら戻ってこれたからなのかなって思ったけど、次点で可能性のある方を言った方が判断材料になるでしょ?」
「……何か連君。あの時よりだいぶ進化してる気がする」
「そりゃ時間経過すれば学んで進歩はするでしょ……で? いつまでもここで会話するのもなんだから用件を教えてくれればそれ相応の応対するけど?」
本題に戻して聞いてみたところ、佳織は急に俯いてから「あ、あのさ」とよそよそしくなった。
「良かったらなんだけど」
「うん」
「勉強……一緒にやらない?」
「ん?」
思わず耳を疑う。なんで勉強を僕なんかと一緒にやるのか理解できなくて。
「え、えっと、迷惑だったらいいよ! べ、別に一人でもできるから……」
「……」
自分で言って自分で落ち込んでいる彼女を見て、様々な疑問が一瞬のうちに思い浮かんだけど、今すぐに質問する気が起きずにどうするかを考える。
レミリアさんが帰ってくるとなるとお昼位。それ以前に帰ってきて鉢合わせになる可能性もあるけど、まぁそうなったらそうなったで良いのかな。僕自身が困ることはない気がする。
「…………」
「え、えっと連君? ダメならダメって言ってくれていいんだよ……?」
「……あ、そうだね…別に大丈夫だけど」
「そっか……それじゃって、え? い、良いの!?」
「まぁうん。実は中等部の頃からちょくちょく友達上げてるから」
そう言うと佳織はホッとした表情を浮かべてから「それならそうと言ってよもう~!」と怒ってきた。
「あはははっ。そういえば小学生の頃は絶対来るなって言ってたしね」
「そうそう。だから絶対行ってやるんだって思ってたんだけどさ、連君のガード固過ぎて一度も行けなかったよね」
「ま、そういうわけでさ、どうぞ」
「あ、ああうん! お、お邪魔します」
何やら借りてきた猫みたいな感じで入って来たので、それがいつまで持つんだろうと思いながら彼女を先に家に上げた。
「あ、左側リビングだからそこで待ってて。自分の部屋でさっき勉強してたから」
「え、れ、れれ、連君の部屋じゃダメなの?」
「緊張してたら勉強どころじゃないでしょ? それに、特に何があるわけじゃないからそのままリビングにいてよ。ついでに両親に挨拶したら? 社長令嬢なら知ってると思うけど」
「しゃ、社長令嬢だなんて言い過ぎだよ! わ、私高校生だよ!!」
僕からしたら年齢関係なく直系で跡取りで女性なのだからそう呼んでいるだけなんだけど、頬を赤らめて必死に否定してくるのでそれ以上言わずに「ま、それならそれでいいよ。待っててね」と僕は階段をかけ上げって自分の部屋に向かい、勉強道具をまとめて階段を降りる。
「お待たせ……?」
「お、おお連。知り合いだったのか? 西条さんの子と」
「小学生の頃同じ学校だったんだよ。ある時から音沙汰なかったけどね……それより、なんで気まずい空気醸し出してるの?」
「え、そ、そう? 自己紹介しただけなんだけどね、佳織ちゃん!」
「え、は、はい! そ、そうだよ!」
……自己紹介でやらかしたかな、どっちか。
空気と白々しさでそう察することが出来たので深く掘り下げるのも酷だなと判断し「それじゃ、勉強しようか」と言って椅子に座ることを促した。
おっかなびっくりで彼女が座るのでたかが椅子に座るのにどうして緊張しているのだろうかと思いながら来客用のコップに飲み物を入れて運ぶ。
「はいどうぞ」
「え、ええ!? いいよ連君!! そんな気遣い!」
「友達とはいえお客さんだからね。今日は。次からは出さないと思うけど」
「えっと、どういう区切りをしてるの? 少し気になるんだけど」
「いたって普通の区切りだと思うんだけど……初めて来たなら出して、同級生で何度も来てるなら出さなくて、ちょっと真面目に応対しないといけない人には必ず出す。そんなところ」
「……はぁ~……考えられているねー」
「どうでもいいじゃん。それより勉強でしょ? 何持って来たの」
「あはは。日常の言語学」
「え。翻訳機能あるからそれでいいんじゃないの?」
「『そういった機能は自分でその言語を理解した上で使わないと意味がない』って言われて」
めっちゃスパルタじゃん。その言葉を飲み込んでから自分の事を思い返し……背筋が凍った。
「ど、どうしたの連君!?」
「や、やばい……いや、まだ大丈夫…大丈夫」
「いきなり呟いてどうしたの!? ねぇ!!」
「はっ」
肩を揺さぶられて我に返った僕は持って来た教科書とノートを持ってもう一度自室へ駆け、日常言語学で使っている教科書と参考書とノートを持ってくる。
この世界の普通教育カリキュラムはどこも一緒。小学生の頃に算数、理科、コンピューター、歴史、基礎言語学、体育、家庭科を学ぶ。基礎言語学というのは、国や地域ごとに使われている公用語を学ぶものだ。家族の会話で発音を学び、書き取りとかはそこで学ぶ形になるのかな。
で、中学生になると基礎言語学が日常言語学に変わり、算数が数学、理科が科学、生物学、物理学で、体育が保健体育となり、そこに魔法実習と超能力実習が加わる。日常言語学は他の公用語の基本的な発音などを学ぶ授業で、世界で日常的に使われている五つの言語を選択できる。自分たちの公用語さえ覚えておけば後は携帯電話の翻訳機能使って何とかなるから、授業自体おざなりになり易い。
でも僕は赤点になりたくないし半分以上テストの点数を取りたいからどんな授業だろうが勉強している。
で、なんで今必死にその勉強道具を取りに行ったのかというと、憶えていた公用語が急に不安になったから。いや、正確に言うなら、爺ちゃん達に叩き込まれた普段使ってない他所の公用語がぱっと出てこなかったから。これを知られたら昔の地獄の特訓が厳しくなって戻ってきそうだと判断したから。
あ、高校生になると日常言語学の他に文学考察が追加されたり、歴史が無くなった代わりに時代考証学なんてものが出てきて、実習が演習になり、ここら辺から『普通の人』とそうでない人の進む道が分かれ始める。実習や演習はそれを身に着けている人たちは強制。その代わりテストで赤点を取っても補習にならないらしい。あと、レミリアさんみたいに仕事をしていたり元たちみたいに『特別な事情がある』場合は特例欠席になるそうだ。どっちも僕には関係ない。
ともかく。僕が必死にノートと教科書を開いたことに驚いていた佳織が再起動して、「あ、同じなんだ」と呟いたのが聞こえた。
僕は子供の頃に覚えた発音の確認をしながら「そうだよ」と答える。
彼女は驚いていた。
「え、連君話せるの!?」
僕はいつも使ってる方に戻して「あ、ちゃんと聞こえた? 良かったよ」と安堵する。けれど油断はしない。短いものならまだ大丈夫見たいってことが判明しただけなのだから。
自分の中で思い出せる限りの言葉を文章になるように発音しようとノートに目を通していると、「どうして話せるの!? ねぇ!!」と叫ばれたので息を吐いてから答えることにした。
「落ち着いてよ。僕は逃げないんだから」
「うっ。ご、ごめん……」
「で、話せる理由? う~~ん……こういっちゃうとアレなんだけど、爺ちゃん達にスパルタよろしく子供の頃に覚えさせられたんだよ。小学生に入る前だったかな?」
あれは酷かった。一気に二言語憶えろと言ってるようなものだ。出来ないって泣き叫んでも容赦なく切り捨てられたし。
……僕の人格形成の一因にかかわってそうだなぁ。
中等部の時はそのまま選べたんだけど、高等部になってまた言語を選びなおさないといけないので僕は文学考察を選択した。どっちか一年勉強すればいいから、うん。
過去を思い出して頷いていると、佳織が何やら納得していた。
「どうしたのさ?」
「なんか連君が底知れない理由が分かった気がする」
「? ところで、中学生の時って別な公用語だったの?」
「そんな余裕なかったんだよそれが! いきなり学校のグレード上がってさ!! 経済学とか学んでたら日常言語学憶えられなくて……要は学びなおしなの」
「そ、そうなんだ……」
鬼気迫る彼女の表情に若干引きながら、やっぱり幼い頃からの教育って大事なんだなぁと結論付ける。
そんな結論に至っていることを知らないであろう彼女は、僕の手を両手で握って「お願い連君! 発音を教えて!!」と顔を近づけて真剣な表情で頼み込んできた。
女性にこんな状況でお願いされることに耐性のない僕は、顔を背けつつ考えをまとめ……放してくれなさそうなので「わ、分かったよ……でも、その言語しかできないからね僕」と観念したように呟く。
それを聞いた佳織は、見てなくても分かるほどテンションを上げて「本当に!? ありがとう連君!!」と握っている手を上下に激しく振る。
すぐに鬱陶しくなったので試しに『放して』とその言語で言ってみたんだけど、嬉しすぎて聞いてないようでやめてくれない。
「放してよ!」
ぴたりと止まり「あ、ごめん」と恥ずかしそうに手を放してくれた。
再び息を吐いた僕は、何やら落ち込んでいる彼女にアドバイスをした。
「日常言語学って、基本的に会話を成立させるためにやってることだからさ、その言語で生活することが大切なんだって。もちろん、相手がその言語を知らないと駄目だけど」
「……」
「聞いてる?」
「え、あ、ご、ごめん。聞いてなかった……」
「じゃぁ今から言うのをメモしてね。覚える近道なんだけど、日常的にその言語を使って会話することだって」
すると彼女は慌ててペンを持って僕が今言った言葉を書いていく。
ちなみに今言った方法で昔憶えさせられた。出てこなかったら問答無用で拳骨・書き取り・ランニングのフルコンボだ。嫌でも憶える。
彼女が書き終わったようなので、「じゃぁそろそろ勉強しようか」と言うと顔を上げて笑顔で「うん!」と答えた。
科目に関してはあくまで一例です。




