第一章 (愁視点) 4
そこは病院だった。
二人は霊安室に入った。上から様子を見下ろせるように、天井の梁近くのでっぱりに腰をかける。
愁は上から見下ろした。霊安室に横たわる見慣れた死体があった。俺ってああ見えるんだ、と愁は思った。自分で思っているより肌は白く、瑪瑙のような硬質な印象を与え、自分で思っていたよりすらっとしていた。
霊安室には、愁の父親、母親と白衣の若い医療関係者がいた。愁の母親は愁の亡骸の前で嗚咽し、愁の父親は少し離れたところで若い医者を詰問していた。
羽根野郎は指さして言った。
「ほらみろ、ご両親もあんなに悲しんで」
「だから?」
こいつ何もわかってないな、と愁は思った。
「だから近づいて行ってさ……」
「俺はいい」
「……」
「俺はいい、つってんだろ」
「えっ……」
行くわけないだろ、と愁は思った。
天使野郎は、愁のかたくなな態度に説得は早々に諦めたようで、その大きな羽をはためかせて霊安室の床へ舞い降りた。
愁はあきれた。なんというか、想像通りだと愁は思った。
天使野郎には新鮮に見えているのだろう。
愁が見下ろすと、天使野郎は父親たちのすぐ後ろに立っていた。あの距離なら、会話の内容も聞こえているに違いない、と愁は思った。
愁は上から眺め、会話の内容と天使予想が見聞きしたやり取りを予想した。多分だいたい当たっていると思う。
まず、天使野郎は病院の一人で下に降り、若い医者と壮年の男性がもみ合っている様子が間近でよく見える位置に立った。そして、彼はようやく気付いたようだ。もみ合っているというよりは、細身の医者が一方的につかみかかられて詰問されていたことを。
医者はすごい剣幕で愁の父親から詰め寄られていた。半ばのけぞりながら壮年の男性に肩をがっしりつかみかかられ、「息子を返せ!」と、理不尽な理由で怒鳴られていたのは遠くから見ても気の毒なぐらいだ。
「お父さん、お気持ちお察ししますが、おちついておちついて」と、まだ若い青年医師はあたりさわりのない言葉で父親をなだめようとしていた。彼は、まだ研修医ぐらいの若さであろうか。おそらく責任をとることもなあなあで受け流すことにもなれておらず、優しくなだめようとするが、火に油を注ぐばかりだ。
愁は天使野郎の方を見た。彼は表情を隠すこともなく驚いていた。特に、父親が金の話を口にするたびに、わかりやすく困惑していた。
「息子にいくら投資したと思ってるんだ一千万だぞ一千万!それが今回のでパーだ一千万が」
父親の声は大きいので天井近くから眺めている愁のもとへもはっきり聞こえた。父親の言い分のあまりのばかばかしさに愁は苦笑する。人の命の話をしているはずなのに、彼は仕事の癖か、いや、仕事が人生のすべてになってしまっていたからか、お金という尺度に落として無意識に理解しようとしている、俺の存在を。だいたい一千万って高いのか。人が数年遊んで暮らせる金額ではあるけれどそれだけじゃないか、と。
非常にリーズナブルな金額に息子を換金してしまった滑稽な愁の父親の言動と行動に対して、天使野郎はたいそう驚いているようだった。愁は思った、彼はこの仕事をしているはずなのに、こういう状況を見たことがないのか。もしそうだとすると、魂をどうこうとか時間をどうこうとかいっぱしの神様側の仕事人の振りをしているけれども、そもそもそういった歴自体も浅いんだろうな、とちょっと想像した。そして、だとすると、その前は――。
「そうよ」
その時、先ほどまで愁の亡骸の前で静かに泣いていた愁の母親が、ふと思い出したように顔を上げてつぶやいた。
そして、愁の死体に抱き着きながら泣く。
「違うのよ、
愁ちゃんは、お金なんかじゃないの。だって、こんなにいい子で、真面目でいい大学に入ってくれたのに、なんで……」
愁は天使野郎の方をちらりと見た。彼は、またとても驚いていた。そして、さすがに呆れたのか、皮肉っぽい笑顔を浮かべてから、静かに首を横に振り、息を吐いてから、はた、と上を見上げた。愁と目が合った。
愁は病院のカーテンレールの上で足を組みなおしながら、
「だから、行かないといった」
と皮肉っぽく言った。わざと、口を大きく開けてゆっくり喋ったので、天使野郎にも伝わったことだろう。
天使野郎は目をぱちくりさせてから、首を回して、周りを見た。
「いったいいくらの損失だと」
「お、お父さん、ね、落ち着いてください……」
「うるさい!どうにかしろ!責任とれ」
「ぐすっ、愁ちゃああん…」
「お辛いでしょうけど……ねっ、ねっ…!」
唖然としている天使野郎の横で、相変わらず、愁の父親は声を荒げて何も落ち度のない青年医者を暴言で詰問し、その横で、そんな父親を態度を咎めることもなく、愁の母親は一人、自分の世界にこもって愁の抜け殻に向かって泣いている。
天使野郎はしばらく呆然とその様子を見ていたが、ある時から観念したのか、うつむき、首を横にしずかに振ってから、だめだこれは、という風に中空へはばたき、愁のいるカーテンレールへ舞い戻った。
愁はあきれたように口を開く。
「ほらな、見栄ばかりだろ。あんた、まるでそんな親がいるだなんて。知らなかったみたいだな」
「……」
そういう反応だろうな、と愁は思った。思った通りだ。そして、愁はちょっと皮肉っぽくわざとらしく勿体つけてゆっくり喋った。
「というわけで、俺は死ぬべきだ」
「いや……な……? まだ決めつけるのは早いぜ……」
天使野郎は愁の横で肩に手を置いた。余裕のある風を装っていたが、明確に焦りを隠せていなかった。
「自分の葬式見てからでも同じこと言えるか?涙にむせぶ友達さん」
「よゆーだよ、第一……」
愁は吐き捨てた。
「どうせ、あいつら、こないし」
天使野郎は強引に愁を連れて飛んだ。
白い光がまた満ちる―――。