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――フロレンツ、貴方は優しすぎます。そこまでする必要性は、どこにもないでしょう?ありませんよ
――セシル、あなたは必要性だけで私に依存しているのですか?……今更、聞くまでもないか……
――最近のフロレンツはおかしいです。変です。何かあったのですか?
――……何も問題はありません。わかりました。そこまで言うならば、私は封印の間を貴方の代わりに見張っていましょう
――それは嬉しいです。誰より信頼する貴方ならば、セシルは安心です
窓はおろか時計もなく、彼の感覚は狂いそうになっていた。
もし一人きりであったら、とうに発狂していただろう。
何故か部屋には鍵がかかっており、押しても引いても開かない。
寝台に拘束されている男に聞いても、何も答えがない。
食事は一日に二度、部屋に運ばれていた。
何者かが部屋の掃除や服の洗濯、食事の用意までしている状態。
そのため、彼には男しか頼るものがないという、非常に不安定な環境にある。
だが寝台に拘束され、身動きが取れない男の世話をする内、彼はそれに満足を覚えた。
礼がわりか、頭や頬を撫でられることが年甲斐もなく嬉しく感じ、彼としてはこのままで良くなっていく。
ぬるま湯のような幸せとはこういう事を指すのだろうか。
人ではないであろうこの男だが、彼にはあまり関係がなかった。
白部屋は、一人ぼっちで書斎の真ん中に立つ。
黒い目は虚ろで、どこも見てはいない。
白部屋は胸元の聖印を握り、声なき声で唱えた。
『――すべての生命の根源。夢見る父の眷属。“白き善き芽"を招聘す』
――了承した。それで良い
返答があったかと思えば、書斎の机に、白い烏がいた。
金の眼をした白鴉がひとつ鳴けば、白部屋はひざまづく。
「顕現していただき、感謝致します。イオスケハ様」
『なんと哀れな姿だ。我らの愛し子』
「……申し訳ございません。この身はイオスケハ様のものというのに」
わずかに怒りを含む声に、白部屋はさらに頭を下げる。
『お前が悪いわけではないよ。それより、あれをどうすべきか、我の判断でよいかね』
白鴉は声音を優しいものに変え、顔を上げようとしない白部屋に語りかける。
『……お前は可哀相な子だね』
白鴉は羽ばたき、風景に溶けるように消えた。
あの烏こそ、白部屋が仕える善良の神イオスケハ。
さる南東の民族を守護する、植物と清廉を司るという、非常に素晴らしい存在。
そんな神の神子だというのだから、白部屋は誇らしくあるべきだ。
白部屋は胸元からもうひとつ、白金製の聖印を出し、握りしめていた象牙製のそれと見比べる。
裏には、それぞれの持ち主の名が彫られている。
「……フロレンツ、貴方は何をしたのですか……?」
「すみません、何もしてあげられなくて」
そう言って悲しい顔する青年に、拘束され続ける男は、首を横に振る。
事実、彼が傍にいればよかった。元来欲というものはあれど、少ないため、男としては満足だ。
やり直しをしてしまったため、野荊、と呼んでくれなくなったのは寂しいが、いずれまたそうなる。
いくら記憶を闇に押し込めたとて、本質は絶対に変わらない。
「そういえば、貴方を何と呼べば……」
それ来た。このやり取りを、さて幾度行ったろうか。
野荊は白い花びらが可愛らしい、野薔薇の花を示した。
彼は首を傾げたが、しばし考えた後、口を開く。
「……では、薔薇と」
「!!」
野荊は彼の手首を強く掴み、鋭い目つきで睨みつけた。
驚きで身動きのとれない彼を、野荊は自身の胸に押し倒す。
「な、なんですかっ」
こんなことは有り得ない。
いくら人の思考を操っても、性癖や嗜好までは変えられない。
彼を一旦眠らせ、野荊は気配を探った。
ここまでできるのは、野荊の力を凌駕し、かつ性質の近い者。
力の殆どを失った神は、ようやっと、この地を取り巻く環境が変わったことに気付いた。
急ぎ喉に刺さった短剣を抜く。
「夜が来る。全てを呑み、明日を産む夜が」
『夜は優しい。全てを安寧に眠らせてくれる』
野荊の声に、全く同じ声が続いた。
部屋の封印を無視し、いつの間にやら、一人の男がいた。
野荊と全く同じ顔と身体つき。
違う所といえば、頭部に立派な角を二本持ち、髪は白く、眼は金であることだ。
袖に二葉の刺繍が施された、白い絹の服を纏い、男は口を開く。
『久しいな“凍った黒薔薇"』
「遂に来たか“白き善き芽"」
互いに真の名を呼び合い、しばしの沈黙が訪れる。
先に動いたのは、白い男であった。
『どこまでも愚か者だな、タウィスカラ。我が片割れ』
「まだ我を片割れと呼んでくれるとは。感動で、出ない涙も出そうな気がするな」
寝台に拘束されたままの、精一杯の去勢にしか見えないが、実はこの皮肉が、野荊の通常である。
「許可なしに我とこの子の部屋に忍び込むとは。感受性指数が我より低いか、イオスケハ」
『何を言う。我が媒体の子を傷つけおって……裁定者の代わりに、我がお前を裁いてやろう』
「確かに傷つけた。だが傷は治癒した。お前に裁かれる謂れはない」
不毛な会話が途切れ、再び睨み合う二人。
そこにまた介入者が一人。
「相変わらず、お二方は間に誰かを挟まねば、お話が進みません。進まないです」
イオスケハの傍らに、呆れた顔をした白部屋が現れる。
眠る青年に近づこうとするが、どちらの神からも阻まれた。
「近づくな」
『近づいてはならない』
イオスケハが白部屋を引き寄せ、双方は相対した。
『この島は地形的に、日が常に天にある。太陽を司る者らに許しを得、わざわざ我が来た意味はわかるな?片割れ』
夜を司る立場のイオスケハが、この場に顕現するのは、容易ではない。
それでも、イオスケハの神子がこの地にいるのは、ひとえに悪神タウィスカラを封ずるため。
『愚かな片割れよ。お前はかつて、化物の封印を解き、実際一人の子どもが犠牲になった。故に角を折られた』
「思い出話ならば遠慮するが」
『そして夜なき地に封じられた。にも関わらず、人に害を成すか』
「……なにかと思えば、そんな事か」
せせら笑うタウィスカラに、善良の神は憤怒した。
『災厄が残した異常な力を起こし、人にけしかけた罪め。
人は我々と、そして世界に不可欠だ。それを傷つけるとは……我はお前とその子を切り離し、お前を完全に消去しよう』
それを聞いたタウィスカラは、残忍な笑みを浮かべた。
悪神に相応しい、全く酷薄な笑みであった。
「やってみろよ片割れ。我とこの子は、深く深く繋がっている。一心同体なのだ。それを切り離せば……わかるだろう?」
「そ、んなっ……嘘でしょう、フロレンツ!」
白部屋が懇願するように、彼に呼びかけるが、起きる様子はない。
「力の弱った我だからこそ、この子は我の全てを受け入れた。今や、我はこの子であり、この子は我だ」
神子は所詮、神の一部を受け入れているに過ぎない。
彼は非常に長い期間をもって、神とほぼ同調したのだ。
そのような人間など、前代未聞である。出来ぬ事はなかろうが、まず肉体が耐えきれないのだ。
「ああ、どうすれば……イオスケハ様。タウィスカラを討てば、フロレンツも死んでしまいます」
白部屋の言うことは、全くその通りであった。
霊質の奥深く、俗に言う魂が繋がるというのは、イオスケハも初めて見る状態。
タウィスカラを消しても、繋がりを切り離しても、彼の死は免れない。
『……やってくれたな』
万が一にでも彼――人の子――を死なせれば、大いなる定めにより、イオスケハは角を折られるだろう。
角は彼らの重要器官。人々を守護する立場にある神が、力を失うわけにはいかない。
だがそこで諦めては、善神の名が廃る。
何より、イオスケハは今だこの片割れを赦せないのだ。
白い手を翻し、雄鹿の角を加工した槍を出す。
槍を寝台の二人に向け、言い放つ。
『我々の裁定者に考えを頂こう。あの方ならば、お前たちを切り離すことさえ可能だろう』
野荊は密やかに舌打ちした。
最も懸念していた、裁定者を出された。
だが負けじと、野荊も反論する。イオスケハの思惑全てが、上手くいく保証はないのだと。
「はっ。あの目覚めることなきものに、物事を尋ねるだと?冗談は休み休み言え。鵲に意見を聞いた方が、よほど有意義だ」
侮辱され、金の眼が鋭さを増す。
野荊も牽制する。部屋の壁が、野薔薇で埋めつくされていた。
まったく話の進まない状況に終止符を打ったのは、他でもない、彼であった。
「どうにか、見過ごすわけにはいきませんか?イオスケハ様」
野荊の腕をゆるりと解き、彼は起き上がる。
完璧な所作で寝台から下り、イオスケハにひざまづく。
「フロレンツ……」
「セシル、神の前です。慎みなさい」
頭を下げたまま、心配げな白部屋の言葉を切り捨てた。
「すでにこの身は、タウィスカラのもの。故に、私が死ぬる時は、あれも共に」
『それは、何者かに吹き込まれた故の行為かね』
わずかな希望ともいえる問いに、彼は明確に即答した。
「いいえ。まごうことなき、私の意思に基づく結果です」
その発言に、白部屋は顔を蒼くし、野荊はそれ見たことか、と嘲笑うた。
「何故、そのような愚かなことを……」
彼は答えようとはしなかった。代わりに、立ち上がり、白部屋を呼ぶ。
「イオスケハ様、セシルをお借りしてもよろしいでしょうか。積もる話もあるもので」
『良いだろう。我もこの片割れと積もる話が山ほどある』
一礼し、彼は白部屋の腕を引いて部屋を出た。
封印はとうに解除されており、あっけなく扉は開いた。
扉を閉めると同時、耳をつんざく破壊音が聞こえてきた。
積もる話、というわりには、早くも衝突していた。
つと、彼が白部屋ことセシルの方を見れば、哀れなほど蒼ざめた顔で、彼の腕に縋っている。
「もう、私はどうすれば良いのか……」
「セシルの部屋に行きましょう。……少し、痩せましたね」
変わらぬ気遣いの言葉。しかし、それは反ってセシルを悲しませた。