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しばし沈黙の中にいるうち、彼はあることに気づいた。
「まさか……その短剣が、声帯を……」
人は声帯が振動しなければ音を出せない。
短剣が、声帯の筋肉を穿っているのだろう。
「なぜこのような……」
やはり、あの白部屋という男は信用すべきではないのかもしれない。
彼は野荊に一言詫びを入れ、他にどこか怪我はないかと探す。
「全て血が止まっている……ん?」
野荊の頭に触れると、わずかに硬い感触。豊かな黒髪を掻き分ければ、角とおぼしき骨が根本から折られた痕があった。
「……人ではないと思いましたが……なんなのですか?」
問うたところで、答えがあるはずもなく。
野荊は深紅の眼で彼を見つめる。
しばし見つめ合い、彼がどうしようもないと途方にくれた瞬間――
「御飯にしましょう。いただきましょう」
「うわあっ」
背後から白部屋が囁いてきた。
あまりに突然の登場に、彼は驚いてしばし動けなかった。
「な、ななななんですかっ」
「御飯にしましょう。食べましょうよ一緒に」
「い、一緒に?」
白部屋の持っている盆には、二人分の食事が乗っている。
ぼすん、と音をたてて寝台に座り、傍らに盆を置く。
「はい。今日は火打ち石が沢山手に入りましたから、色々焼いてみました」
「……い、いただきます」
酷い仕打ちの上拘束されている男の側で、まるで遠足気分で食事をするのも嫌な感じだ。
だが焼きたての芳醇なパンの香りには抗えず、彼はそろそろと手を伸ばす。
「どうですか、口に合いますか?」
やけにきらきらした目で問う白部屋。実際、非常に美味であった。
「はい、美味しいです……」
たったそれだけの事というに、白部屋は手放しで喜んだ。
「初めての料理でしたが、喜んでもらえて嬉しいです。歓喜です」
肉の焼き加減も、芋のスープの味付けも、到底初めてのものとは思えなかった。
白部屋の支離滅裂な言葉は初めてのことではあるまい。
それよりも、まずは自分を知らねばなるまい。
「白部屋さん、あの」
「呼び捨てでどうぞ」
不審者とはなるべく距離を近づけたくなかったが、そうしないとしつこく詰め寄ってきそうだ。彼は渋々、呼び捨てで言い直す。
「白部屋……は、私の事を知っているのですか?信じがたいのですが、どうにも記憶が……」
「はい。知っていますとも」
隠すこともなく、あっさり答える白部屋。彼はしばし硬直した。
「し、知っている?」
「よぅくご存知です。大まかな略歴から、恥ずかしいあ~んなことまで」
嘘くさい、とは言えず。彼は一応、聞いてみることにした。
「……教えてくれますか」
「それはできません。なりません」
あれだけ言っておきながら、きっぱり断る白部屋。
思わずパンを取り落とし、掴みかかりそうになる。
「は、あ?何故ですか!嘘なら嘘と――」
「嘘ではありません。シロヘヤたんは貴方の事を、よく存じています。ですが言えません。教えようものならば、この方に怒られてしまいます」
白部屋は野荊を一瞥。彼も釣られて目線を動かした。
「野荊さんが……」
「ノ、イバラ?」
白部屋が首を傾げて聞いた。実のところ、白部屋の食事は全く進んでいない。
「え、ええ。なんと呼べばいいかわからなかったので、勝手ながら、そう呼んでいます」
それを聞いた白部屋は、端整な顔を嫌悪で歪ませ、苦々しげに言葉を吐く。
「名を与えるということは、命を与えるということ――新たに力を得てしまいましたか」
まずいことをしてしまったのだろうか。彼が怖じけづくのを感じ取ったのか、白部屋はいつもの微笑を浮かべる。
「ご心配なく。ここに縛る限り、何も問題はありません」
「……そ、うですか」
それ以上は会話も続かず、ただ黙々と食事をしていた。
「ごちそうさまでした……」
「はい、お粗末さまです」
結局、白部屋は自分の分に全く手をつけなかった。
一緒に食べようと言っておきながら、彼の食事を見守るだけであった。
盆を持ち、帰ろうとする白部屋に、余計とは思いつ、彼は言葉をかける。
「きちんと食べないと、体に毒ですよ」
「えー、シロヘヤたんは大丈夫ですよう。やはりお医者だけあって、心配性ですね」
「……は?」
「あ……」
何を、と言いかけたが、すでに白部屋は消えていた。姿を消す直前、あからさまにまずいという顔をしていた。
「……ええ?」
医者、と言ったか白部屋は。
彼の記憶には、全く取っ掛かりはないし、自覚もない。
「困った……そうだ、野荊さんは、私のことを何か知りませんか?」
答えはない。だが野荊は手を伸ばし、彼の後頭部に触れる。
かと思えば、彼を自分の胸に押し付けた。
「うぶっ」
生きているとは思えないほど冷たい野荊の肌は、あまり心地好いものではない。
背中を力強い腕でがっちり捕らえられ、彼は離れられない。
「あの、何か?」
野荊は彼の頭や頬を撫で、穏やかな眼で見下ろす。
されるがままであった彼だが、ふとある事に気づき、戦慄した。
「……心音、が、ない!?」
いくらなんでも、こればかりは恐ろしい。
思わず起き上がろうとしたが、野荊の腕がそれを許さない。
少し格闘したが、力では全く敵わない。彼は諦め、野荊にされるがままとなった。
「……もう、何がなんだか」
だが本心では全てを受け入れきってしまっているのか、彼は涙ひとつこぼさない。
べたべた触ってくる野荊の手は不快ではなく、むしろ眠気を誘う。
もういっそ、眠ってしまおうか、という時に、邪魔者はやって来るものである。
「身体を清めましょう!きれいにしましょう!」
「し、白部屋……」
ついさっき別れたばかりというに、白部屋は満面の笑みで彼の眠気を吹き飛ばした。
白部屋は無理矢理、野荊の腕を退かし、彼を起こす。
「一緒に入りましょう、そうしましょう」
「はあ!?」
この男だか女だかは、何を言っているのだ。性別がどちらでも問題のある発言だ。
「いいでしょう?よろしいでしょう?背中を流しますよ」
「よ、よくないっ。一人でできます!」
知らぬ者に裸を見られるなど、気持ち悪い。ついでに、白部屋にべったり触られるのは、どこか嫌悪感がある。
「えーと、こういうのは、裸の付き合いとか言うそうですね。大丈夫、シロヘヤたんは男です」
「そういう問題じゃなくて!」
「え?あ、女がよろしいのでしたら、頑張って変えますよ?やはり、おっぱいは大きいのがいいですかー?」
「違うっ!」
「あー……貧相な方ですか……いえ、まあ、いいと思います」
どこまでも話が通じない。彼は少し、苛立っていた。
「そうではなく……」
「はっ、迂闊でした。そうです、大きさではなく、形ですよねー」
「いい加減、胸から離れなさい!そんでもって、不埒な発言を慎みなさい!」
耐えかねた彼が大声で説教をすると、白部屋は硬直し、かと思えば頭を下げた。
「申し訳ございません。以後、気をつけます故」
「え、あ、はい」
先ほどの暴走はどこへやら。白部屋は深く頭を下げたまま動かない。
「あ、の……白部屋?」
「もう怒りは鎮まれましたか?」
恐る恐る、といった感じで聞かれる。彼は慌てて頷き、白部屋に頭をあげるよう言った。
「はあ、久々に本気で怒られましたので驚きました。驚愕です」
「す、すみません……」
「謝る必要はありません。事実、シロヘヤたん、浮き浮きしすぎちゃいました」
至って真剣な顔で自分の非を認める白部屋。
精神年齢が入り乱れたような性格は、彼を惑わせる。
「いえ、いいんです。もう落ち着きましたよね?」
「はい。ですから、一緒にお風呂に入りましょう」
まだその話は続いていたらしい。彼が辟易した時、白部屋が寝台の野荊を見た。
「え?何ですか?なりませぬ……だいたい、三人も入れません」
野荊は何も声を発してはいない。だが白部屋は、野荊に向かって様々に述べる。
「貴方がたにも、嫉妬というお下劣な感情があるのですね……わかりました」
白部屋は聖印を握り、目を閉じて何事か唱えた。
すると野荊の枷が外れ、鎖が緩められる。解放された男は、ゆるりと起き上がった。
白部屋は至って真面目に珍妙な発言をした。
「この方、シロヘヤたんたちが二人きりで湯浴みをするのが気に入らないようです」
私も気に入らないです、とは言えず。
「仕方がありません。三人で入浴いたしましょう」
「どうしてそうなるんです……?」
「んふふ。お着替え手伝いましょう。手伝います」
「け、けけ結構ですっ!」
衿に伸ばされた白い手から逃れ、彼は冷や冷やしながら服を脱いだ。
狭い湯浴み場でいい年した男二人が騒ぐ様は、おかしな光景だ。
手や足に枷をつけたままの野荊は、その様子を無表情で見ている。
なにやら恥ずかしくなった彼は、なるべく壁の方に寄る。
「さっさと体を洗ってしまいましょう、ねっ」
「そうですね。了解です。ではお背中流しますよー!」
「自分でできますからっ!」
なんとか白部屋から逃れ、血まみれの野荊を連れて湯浴みを始める。
布巾で野荊の汚れを拭う彼を見た白部屋は嘆息し、自分の体を清める。
またひっついてくるのではないかと不安になり、彼は白部屋を一瞥した。
だが不思議なものを見かけ、再び白部屋に顔を向ける。
無表情で鼻唄をかます白部屋のうなじに、聖印の刺青があった。
高位聖職者のうち、さらに特別な司祭が入れるそれを見て、彼は思わず呟いた。
「神子……」
「はい、どうされましたか?」
案の定、白部屋は振り向いた。
神子とは、心を殺して神を受け入れ、神託を人に伝える者を指す。
一般では絶対にお目にかかれない、神聖かつ稀少な人間が、何故目前にいるのだろう。
しかも風呂まで一緒になって。
そういえば、と、彼は白部屋自身のことを聞いていないことを思い出した。
果たして答えてくれるだろうか。そして答えの中に、自身の手がかりはあろうか。
意を決し、彼は問い掛ける。
「あの、白部屋は……神子、なのですか」
「はい、そうですよ。そうなのです。誕生と善良のイオスケハ様に仕えます」
イオスケハという名に、全く聞き覚えは無かった。彼は単刀直入に聞くことにした。
「白部屋……貴方は一体、何者です?」
その問いに白部屋は彼の方に体を向け、しばらく逡巡した後、慈悲深い微笑を浮かべた。
黙ってさえいれば実に美しい白部屋は、優しく、優しく述べた。
「私は、あなたをとても大切に思っています。同時に、あなたは私にとって最も大切な人です。或は、神よりも」
やはり口にすることは意味不明で無茶苦茶なものだ。
そして同時に、重い言葉だと彼は感じた。
「私はあなたで、貴方はわたしであったはずなのに……一体どこで間違えたのでしょう」
失礼します、と言い残し、白部屋は先に湯浴み場を出た。
痛みをこらえるような表情に、彼は言葉に詰まった。
一通り体を洗い、着替えて部屋に戻っても、白部屋はいなかった。
書斎に戻ったのだろう。彼は箪笥から野荊の服を見繕うことにした。
「うーん……無いな」
何故か彼の体格に合ったものばかりで、野荊が着れそうにない。
下着をあさりはじめたあたりで、ふと彼は思いたつ。
「……あ」
白部屋が来る前から、衣服は箪笥に仕舞われていた。
長い放置を前提していたのか、防虫のために石鹸が置かれている。
「……わ、たしは……ここで暮らしていた……?」
だが確信はできない。やけに多い服とは裏腹に、似たようなものばかりだ。
おまけにそろって、衿に教会の紋章が刺繍されている。
がちがちの信仰者か、聖職者でない限りは、こんな高価なだけで質素な服は着ない。
彼はあほらしい考えを振り切り、箪笥を閉める。
「すみません野荊さん。どうにも服が無くて……」
心底申し訳なく思い謝罪したとて、野荊は構わぬとばかりに寝台に横たわる。
再び鎖が野荊を締め付け、封じ込む。
さて寝るのならばどうしようかと彼が考えた時、またも不可思議なる力に引っ張られ、野荊のいる寝台に倒れ込み。
「ったた……なんですか、もう」
有無を言わせず、野荊は彼を引き寄せ、頭を撫でる。
不思議と、眠気を誘われ、もうここで寝てしまおうか、と彼は投げやりに思った。
体勢を整えようと、少し体を動かし、癖なのか枕の下に手を入れた。
「……?」
布の間に、固い何かに触れた。枕の下から引き抜いて見れば、白金でできた聖印だった。
ふたつで一柱の神が彫られた印。稀少金属から製造されるそれは、教会の神子と指導者しか持つことが許されない。
その聖印が、なぜこんな所にぞんざいに放られているのか。
ふと、白部屋が持っていた聖印を思い出す。
象牙製は神子より下位の司祭が持つもの。意図がわからず、彼は名前が彫られているであろう、印の裏側を見た。
「……っ、あ」
彼の脳裏で、ぶつりぶつりと、肉の繊維が断ち切られるに似た音がした。
野荊が不愉快そうに白金の聖印を取り上げると、彼はその手を取り、声を荒げた。
「それは彼のものです、返しなさい!」
なんとか聖印を奪い返し、彼は寝台から飛び出す。
起き上がった野荊から逃れるように、後ずさる。
「……どういう、ことですか……タウィスカラ……。何が目的で……封印の間を出る気はなかったはず」
野荊は答えもせず、彼の肩を掴むなり、そっと抱きしめた。
「なっ……離し」
彼がいくら抵抗しようとも、野荊は力を緩めず、だが壊れ物を扱う手つきで彼の頭を撫ぜる。
異様な眠気に抗うため、彼は聖印を強く握り、片割れの名を呼んだ。
「セシル、セシルっ……早く来てくれ……セシル!」
しかし野荊が声なき声を上げた後、彼は気を失い、野荊に体を預ける形となった。
彼の悲鳴を聞き、急いで部屋に入った白部屋は愕然とし、そして憤怒した。
「フロレンツ……!」
ぐったりとしている彼を横抱きにし、野荊は愛しげに顔を寄せる。
白部屋は奥歯を噛み締め、野荊に突進。
手には短剣が握られていた。
野荊は片手を翻し、野薔薇の枝を鋭く生成。槍としたもので白部屋の頭から腹を裂いた。
「……うが、ああっ!」
迎撃され、床を転がる。白部屋は思わず顔を押さえた。傷はそう深くはないが、切られた左目は、完全に見えなくなっていた。
「く、そ……タウィスカラ、私を傷つけたからには、イオスケハ様は容赦なさらないぞ!」
野荊は喉の短剣を抜き、宵闇の奥底から響くような低い声を出した。
「……我は大人しく封じられるというのに、お前たちはまだ不満を言うのかね」
「うる、さい……フロレンツの記憶を消し思考を操って……タウィスカラよ、病と魔術の神よ。愛されないからやり直すなどと、そんな事は愛とは呼ばない」
「……黙れ」
「本質で行動する貴方たちとは違う。人たるフロレンツが、貴方みたいな卑怯者を愛するはずがない!」
「黙れと言っている」
「黙るものか……黙るものですか……返せよ!返してよ!私の唯一の家族を返せッ!」
搾り出した声も小さくなっていく。出血により意識が遠のき、白部屋は床に臥したまま動かなくなった。
「う……」
目覚めれば、知らぬ部屋の、知らぬ寝台にて、知らぬ男に添い寝されている。
あまりにわけがわからない状況に、彼は戸惑う。
「……う、ええ?」
低い男の声。おそらくは自分のものだろう。
そも、自分とは何だ?
「あ……うそ」
何も思い出せなかった。名前も、自身が何者かすら。
思わず頭に手をやると、切ったばかりか、ざんばらであり、まだ乾いていない。
さらに混乱し、周囲を見渡す。
「うわっ」
寝台には、枷で繋がれ、鎖で拘束された男が、全裸で横たわっている。
豊かな黒髪の合間から、紅い眼で彼を見つめる。
「……」
しばし見合うが、彼がたじろぎ、少し離れる。
男が手を伸ばし、触れようとするが、鎖がそれを許さない。
眉をひそめた男を哀れんだものか、彼は戸惑いながらも、男の手を取る。
「あの、貴方は……というか、ここはどこですか?」