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気づけば地下牢のような場所に軟禁されていた。
知らぬ人骨と二人きりで
「……う」
呻き声をあげ、目を覚ます。
残念ながら、何ひとつ見えなかった。
目が見えないのか、と慌てたが、それは違う。ここが日の光とは無縁の場所だからだ。
幸い、自分は夜目が効くらしい。
慣れてくると、自分の手や、周囲が見えてきた。
冷たい石でできた牢屋、だろうか?
しかし格子も、寝台も、便所もない。
ならば空いている倉庫だろうか。それならば説明がつく。
待て。そも自分は、なぜこんな所に?
というよりも、自分とはなんだ?
「……あ、え」
低い声。自分の声。男の声。
全く聞き覚えがない。
思わず、自分の頭に手をやる。刈り上げたような短い髪。切ったばかりか、まだちくちくと痛痒い。
服は、着ている。平民が着る一般的なものだ。下着もある。
いやまて、なぜそこまで解って、自分がわからない?
おろおろ、動き回る。鼠のごとく、壁際に沿って。何かに触れていないと、自分が消えてしまいそうだった。
つと、何かに当たった。壁の突起だろうか。否、わずかに、暖かい。
「……ひっ」
それは、人の死骸だった。もはや骨しかない。
だが見事に全身の骨が残っている。
無惨な死骸は、喉の部分に刺さった短剣により、壁に縫い付けられている。
喉からうなじを貫通するほど強い力で。
一体なにをやらかしたら、こんな目に合うのだ。
「あ、あ……」
怖れおののき、死骸から離れる。
ふと、壁に当たった。
いや、これは扉だ。錆びた取っ手がついている。
「……っ、開かない……」
鎖でがんじがらめにされた扉は、どんなに力をこめても開かない。
とはいえ、死骸と二人きりなどお断りだ。
彼は、しばし考え、決断した。
死骸に近づき、短剣を握る。
不思議と、刀身には錆びはおろか、汚れもない。
これで鎖を断ち切れれば、出れるはずだ。
意外とあっさり、刃は抜けた。
重力に従い、死骸は床に落ちる。
「うわ」
なんとなく申し訳ない気持ちになり、一礼。
急いで短剣を鎖に立てる。
「……っく」
一心不乱に短剣を突き立てる。
そのせいか、気づかなかったのだ。背後の気配に。
ひやりとしたものが、肌に触れる。
金属か。いや、この柔らかさは人だ。
振り向くと、長身の男がいた。長い髪が顔を隠し、表情は伺えない。
いつの間にいたのか。だが恐るべきは、男の喉元から、膨大な血が流れていることだ。
赤く熱く、臭い血が、男の裸体を濡らし、密着した彼にもかかる。
「あ、あ、あ、あああっ」
驚愕と恐怖に動けないでいると、男は短剣を奪った。そして短剣をなんと、自身の喉に深く突き刺した。
突然の自害を見た彼は動けない。
男の流血は止まった。男は、生きていた。
つと、男がノブに触れる。
するとみるみるうちに鎖は錆びて朽ち、鍵の外れる重厚な音がいくつも響いた。
短剣など使わずとも、扉は開いた。
呆然としている彼なぞ尻目に、男は出て行く。
「あ、ま、待って!」
男は振り向くこともなく、ただ行く。
外は清潔な石床の廊下が続いていた。
本当に同じ場所にあるのかと、戸惑うほどに。
明かりは消されているが、壁も天井も豪邸かと思わせるほど良いもので、埃も見当たらない。
きょろきょろと、周囲を見渡しながら歩いていると、男と距離が開けていた。
まだ恐怖心はあるが、今は男しか縋るものがない。
自身の保守的な性格を認識しながら、彼は小走りで追いかけた。
さて、どれほど歩いたろうか。
時刻などわからないため、どうしようもない。
やけに長い廊下を行き、階段を上がり、今度は赤い絨毯が敷かれた、やはり長い廊下を歩いた。今度は明かりが点いていたため、手をかざしながら進んだ。
しばらくすると、白い甲冑鎧の騎士らしき人々が見えた。
騎士たちは壁側にそって対面して並んでいる。
整列に乱れはなく、豪奢な建物と相まって、見惚れてしまう。
だが騎士たちは、裸体の男を見た途端に騒ぎ出し、集まりだした。
すぐさま男を捕らえ、大勢で押さえつける。
男は抵抗することもなく、容易く捕えられる。
「え……ええっ!?」
どうすることもできずに声を上げると、ようやく気づいたように、騎士たちが彼を見る。
「あ、あ」
誰かが何かを言う前に、男が行動を起こした。彼を見て、指を誘うように曲げる。
たったそれだけのことで、強い力で彼の体が引っ張られる。
「いだっ」
がつん、と男に衝突し、密着。
一体何が起こったものやら、どんなに力を込めても離れられない。
「なんだ、こいつは……」
「とりあえず、連れて行くべきでは?」
騎士たちはうろたえながらも、仕事をまっとうするために、彼をも拘束した。
こんな状況で、ここはどこ?私はだれ?なんて聞けるはずもなく。
彼はただ、流されるしかない。騎士らに腕を引かれ、無理矢理に歩かされる。
階段を登り、辟易するほど廊下を歩いてようやっと、目的地に着いたらしい。
騎士たちの動きが止まる。うち一人が、大きな扉をノックした。
「失礼します」
返事も聞かずに開ける。男や彼も入れられた。
そこは書斎だった。
壁を占領する本棚には、分厚い本が並ぶ。
だが書斎机と本棚以外には家具は無く、とても寂しいものだ。
故に、書斎の主に気づくのは時間を要さなかった。
「目覚めたのですね」
男とも、女ともつかぬ容姿と声。
長く白い髪を下ろし、微笑をたたえて彼らを見る。
白い法衣も相まって、なんとも神秘的な人物だった。
白い人は、彼に近づき、挨拶をした。
「はじめまして、になるかもしれません」
「……えと、はじめまして」
なんとも不思議な人だった。血まみれの二人を恐れもせず、慈悲深そうな微笑を向ける。
「わたしのことは白部屋と呼ぶといいでしょう。一方、あなたはウルグァススを名乗る」
「はっ?」
ウルグァスス、それが自分の名なのだろうか。
あまりに珍妙にすぎて、しっくりこない。
「お気に召さぬようです。それは当然、シロヘヤたんが今思いついた名前だから当然といえば当然なのでしょう」
「……」
美しい見目にそぐわず、言うことはトチ狂っていた。
神秘的な雰囲気は吹き飛び、理解の範疇を超え、白部屋を止める者はいなかった。
「よろしいと思います。よろしいと思います。ではお好きに名乗ることです」
ついには突き放されてしまった。
自分さえも頼ることのできない彼は、ひどく不安になった。
「え、と、というか、ここはどこですか?」
空気を読まない彼の疑問を、だが不快感も出さず、白部屋は答えた。
「この地は、とこしえの朝が支配する小さな島です。シロヘヤたんは神を信奉していますので、この館で住み込みでお仕事中です」
「……し、島」
てっきり、街中を想像していた。
呆然としていると、白部屋がさらなる追い打ちをかける。
「あなた方が目覚めたのならば、シロヘヤたんは報告せねばならないのです。騎士さまたち、命じます」
騎士たちが一斉に、姿勢を正した。
「この二人を二階の寝室に。絶対に出られぬように、鍵は四重に、結界は三重に、封印は二重に」
またも閉じ込めるというのか。しかも男だけではなく、彼までも。
「なっ、なんで?!」
「きっと、あなたがあなた、だからなのです。名前、あるといいですね」
「っ、待って!私のこと知って――」
二人を取り押さえていた騎士たちが引き払い、書斎には白部屋と幾人かの騎士が残った。
「終わりましたら、このことを本国にお伝えください」
「はっ」
鎧の音をたてながら、一分の隙もない敬礼をする。よく訓練されていた。
「黒の方が目覚めたゆえ、皆さま役立たずの用済みですから、国に帰られますよ。よいことですね」
「……は、恐縮にございます」
白部屋は微笑みを絶やさず、二人が出た扉を見つめる。
「シロヘヤたんは一人で寂しいものです。淋しいものです。……でも」
懐をまさぐり、象牙で造られた聖印を取り出す。
「でも、騎士さまたちに犠牲がなくようございました。この地は白の方の力が届きません」
部屋に入るなり、男は乱暴に寝台に放られ、手首や足首に楔を打ち込まれ、鎖で寝台に繋ぎとめられた。
一方、彼は寝台の傍らにある化粧台の椅子に座らされた。しかも寝台の暴虐が目に入らぬよう、騎士たちが壁になっている。
「……あ、あの」
蚊のなくような声でたずねるが、騎士たちは自分の仕事を全うするだけだった。
やめてくれと、飛び掛かるような行動力は、あいにくと持ち合わせていないらしい。
どうしようかと彼が思案しているうちに、騎士たちは出ていき、部屋の鍵は閉められた。
「……」
錠の落ちる無情な音を聞きながらも、彼は男の心配をしていた。
寝台の天蓋布を開き、戦慄した。
両の手首や足首は丁寧に腱が切られ、楔を打たれたあげく、鎖により身動きが一切とれないようにされていた。
寝台は血まみれだった。鼻をさす臭気に吐き気をこらえるのが精一杯だった。
「どうしてこんな、ひどいこと……」
なにか医療道具はないだろうか?
化粧台の後ろにある扉を開く。
便所と湯浴み場があった。
使われた形跡はほとんど無く、無論、処置に使えそうなものなどない。
とはいえ、気休めに洗面台から布巾を取り、汚れがないかを確かめてあるだけ持ち出す。
部屋に戻り、箪笥を探る。簡素だが清潔な服が仕舞われていた。
彼はいくつか取り出し、寝台に拘束されている男に近づく。
血はもう止まっていた。男は痛がるそぶりも見せない。
男が人を超越した存在というのは、彼もとうに受け入れざるを得ない。
だが、それでも尚。それとも無力な自分を否定するかのように。
濡らしたタオルで、血まみれの男の体を拭く。
血に濡れた敷布を苦労して剥がし、服をかけてやる。
敷布は洗面台に置いた。洗ったところで無駄だが。
「……抜いたら、大惨事、か」
ただちに血は吹き出し、出血の衝撃で死ぬかもしれない。
彼に医療の心得はないが、その程度の記憶はあった。
「そうですとも、大いなる惨事です。やばやばなのです」
聞き覚えのある声に、俯いていた顔を上げた。
眼前に、あの白部屋がいた。
だが入ってきた音も、気配もなかった。
驚きを隠せない彼を尻目に、白部屋は話し始める。
「落ち着いて聞いてください。その方は、ここから出ていただきたくないのです。出してはいけません」
不思議と、一対一ならば言いたいことも言えた。
「だ、からといって、あんな酷いことを……」
白部屋は怒ることもなく、極めて穏便に反論する。
「そうでしょう。そうですよね。ですが、理由があるから、酷いことをするのです。いたします」
「……理由?」
「はい。それは――」
白部屋が語ろうとした瞬間、飾り棚の灯火の火屋が割れた。
白部屋は慌てることなく、灯火を見、寝台を見た。
「……どうやら、語ること許さじ、ですね」
「だ、大丈夫、ですか?」
幸い怪我はなかったが、少しでも動けば肌が切れてしまうだろう。
自身を閉じ込めた相手をも心配する彼の想いに、白部屋は微笑で応えた。
「大丈夫です。なんともありません」
ほっと安堵した彼に、白部屋は言う。
「あなたはこの方を解放した。だから、とりあえず共にいてください。
これはお願いではなく、命令です。命じます」
「……え」
「食事の用意や掃除や洗濯の雑務はこちらがこなしますからね。安心ですね」
「……いや、あの?」
「早速ですが、着替えてはいかがです?あなたに見合う服を用意いたしました。用意があります」
いつの間にか、白部屋の手には、汚れのない服があった。
はい、と手渡され、無理矢理着替えさせられる。
「似合います。似合います」
「……どうも」
拍手で褒められては、それしか返せない。
血まみれの服はどこかへ消えていたが、彼はそこに突っ込まず、別の疑問を口にした。
「あの、騎士たちは……?」
「騎士さまは、帰りの準備をしています。明日になれば、この館には、シロヘヤたんと、あなたと、この方だけになります。三人ぼっちです」
そのようにする意味がさっぱりわからなかった。
白部屋は一見優しいが、本心から信頼できないのだ。まだ騎士の方がましかもしれない。
「……ところで、シロヘヤたんはあなたの名前を考えてみたのですが。みたのです」
「その……おかまいなく」
「黒部屋なんていかがでしょう!どうでしょう?シロヘヤたんとお揃いです。対なのです」
「……え……いやだ」
「……」
「……」
「……ご、ごめなさ」
白部屋は微笑したまま固まっている。
いたたまれなくなり、彼は謝った。
「ですよねー」
「……はい」
「……ではシロヘヤたんはこれにて。あとでお食事をお持ちしますね。持ってきます」
「え、ちょっ」
手を軽く振り、白部屋は幻のごとくかき消えた。
まだ自身のことを聞いていなかったのに。
彼は部屋から出ようと、扉を押したり引いたりしたが、びくともしなかった。
「……どうしよう」
部屋に窓はない。せめて今、朝か夜か知りたかった。
洗面室にも、窓はない。
にも関わらず、不快感はない。空調が整っている証拠だ。
洗面台にほうっておいた血まみれの敷布がない。掃除をするとか言った白部屋が片付けたのだろうか。
つと、黒髪を短く刈り上げた男と目が合った。
男は日焼けをした黄色い肌で、常に仏頂面であったか、眉間の皺がすっかり跡として刻まれている。
暗色の瞳は不安げに揺れ、情けない、平凡な男の顔だ。
いや、それは鏡だった。
彼は鏡に触れる。自分だと認識するのに、驚くほどの時間がかかった。
「……私」
自然と自分をこんな風に呼ぶ。ということは、物静かな人であったのか。
保守的だったり、流されやすい性格からして、かなり頼りない男なのだろう。情けない。
「……うわ、石鹸」
先ほどは無かったものが増えている。
布巾や石鹸などの生活必需品が揃っていた。
彼は部屋に戻り、寝台に腰掛け、男の様子を見る。
男は無表情で彼をじっと見返す。
「あの、お名前は?」
仮にも同じ部屋で暮らすのだから、名ぐらいは知っておかねばならない。
男は答えず(答えられないだけか)、彼の側の腕を動かした。鎖が戒めの音をたてる。
その手には、一輪の花があった。
白い花びらの野薔薇だった。
「……これが、名前?」
どうやらここから推測しろとのこと。
彼にはさっぱりわからなかった。ゆえに、適当につけた。白部屋のことを悪く言えないほどに、思いつきの産物であった。
「では、野荊と」
男は怒らず、むしろ満足げに目を細めた。
なんだか嬉しくなった彼は、白部屋の名も受け入れればよかったかと後悔した。
だがさすがにあの発想は堪え難いものがある。
「すみません、私は名前を思い出せないのです。信じがたいのですが、記憶がどうも……」
記憶喪失なんて、鼻で笑ってしまう話だろう。
彼も、実際ならなければ、ホラ話として一蹴する。