はじめはタン塩からとか思ってました。
ただ、なんというかどうしようもないほどに腹が減っていた。
仕事をクビになって約半年。どうにか貯金を崩しながら生活していたが、そろそろ耐えきれなくなってきていた。
空腹と倦怠感で生気のない瞳で履歴書と不採用通知と書かれた紙が数枚無造作に置かれているテーブルへ手を伸ばし、寝転がったまま財布を引き寄せて中身を見るが、中には小銭もお札も入っておらず、一昨日使い果たしたコンビニのポイントカードと今ではもう、うまい棒もかえない程度の残高が残っているキャッシュカードが入っているだけの財布を見てはため息を付くという行為が日課になりつつあった。
まあ、そんなわけで冷蔵庫のなかには勿論ろくな食材なんてものは入っておらず、季節外れで賞味期限が切れた投げ売りのそうめんで飢えを凌ぐ日々。
そうなると、ないものねだりというか腹が満ちても身体が植えるという状況に陥るわけで、詰まるところ、結論を一言でいうなら、そろそろいい加減に肉が食べたい。
それもいつもの特売ではなく、百グラム九十八円の豚こま切れや百グラム四十八円の鶏ムネ肉でもなく、牛が。牛の肉が食べたかった。
頭の中ではタン塩が、カルビが、レバーが、ホルモンが、網の上でじゅうじゅうと音を鳴らして浮き出た脂で輝いている。
それを、次の日、にんにくを気にしちゃうレベルのガツンとパンチの効いた焼肉のタレを絡め、ご飯やビールと共に口へと運ぶ。
そんなことを夢想しながら口の中から湧き上がり垂れるよだれを服の袖で拭ってはそうめんをすするというのが日常だったわけだが、今日から当分の間は違う。
スマホを見つめながらニヤニヤと笑う俺を怪訝そうな顔で待ちゆく人は見てくるがそんなことは気にしてはいられない。
スマホの画面に開かれたメールのタイトルには、焼肉太助一年間食べ放題フリーパス当選のおしらせと書かれており、それを何十回も詐欺メールではないかと確認した後、気力のない身体に鞭を打ち、飛び出すように家を出たのが少し前。もうすでに脳内では、肉が踊り、タレが飛沫き、ほかほかのご飯の上に乗ると私を食べてと待ち構えている。
今か今かとはやる気持ちとひもじい生活をしていたせいで、夕日の柔らかな日差しさえも衰えた身体を苛苛む。
鳴り止まない腹の虫を鳴らしながら手持ち無沙汰に人通りの多い交差点で再びスマホを眺める、それにいくら腹が減っていると言っても慌てた所でどうしようもない。
隣の信号から青信号を知らせる音が鳴っている。
信号を渡ればすぐ目の前には焼肉太助があるのだ。
子供のように駆け出したい衝動を抑えながら、音が消え、そして再び頭上の信号機から音が鳴るのを確認して歩きだす。
衝撃。
身体がぐるりとねじまがり、太陽と地面がまるでコーヒーカップに乗った時のように身体が回転する。そして再び衝撃。
理解ができない。全身から痛みが、這いずるように、何が起きた。何が起こった。何も音は鳴らなかった。なのになんだこれは。食べたい。痛い。視界の端で歩行者用の信号が赤なのを確認すると同時に、三本足の鳥が信号の上で笑う。
ブツリと、何かがちぎれる音がした。痛い、痛い、目が見えない。さっきまでは見えていたのに。足がうごかない。腕の感覚がない。何かが全身を濡らしている。何が。水が抜けていく。水なんて持っていないのに。
手をのばす。俺はただ、飯が食いたいだけだったのに。伸ばした所でどうしようもない。伸ばした手がゆっくりと地面に触れた時、俺は意識を失った。
何かを考えることが億劫だ。
気がついたらいつの間にか、列に並んでいる。
老若男女問わない人々が、目の前のまっしろな扉が開くのを待っている。
扉の上には『お疲れ様でした。終着』と書かれた看板が達筆で書かれている。
何の疑問も抱く必要はなかった。
夢の中のようなふわりとした浮遊感の中、ただ扉が開いては少しづつ前に進む。
ただ眠かった。あの扉を超えればぐっすりと眠る事ができるというのだけはなんとなくわかっていた。
けれど、何か忘れているような気がする。
何かが欠如してしまった気がする。
けれど、思考は止まりただ漠然と違和感とほんの少しの居心地の悪さだけがある。
少しだけ、歩を進めるスピードが緩み、後ろの人にぶつかった。
痛みが走った。何かを求めているような気がした。
すると何処からか、ふわりと香ばしい香りが漂ってくる。
植物が焼ける匂いだ。
そちらの方に顔を向けると白い扉と同じサイズの黒い穴があり、その上には白い扉の時と同じように看板がかけられているが、
『波乱、暗黒、辛い。求めるなら加護を、望む限りの生を、しかし痛みなくして得るものはない』と乱雑に書かれていた。
ただ、そこからは野菜の焼ける香ばしい香りが鼻を通り抜ける。
再び白い扉が開き、前に進む。けれど身体は少しずつ勝手に黒い穴へと向かう。
近づく度に、身体に激痛が走る。
けれど近づけば近づくほど、靄がかった思考は晴れて行く。
腹がグウと鳴る。ああ、そうか俺は腹が空いていたんだったと思い出して頭から血が吹き出した。
鉄の味がする口の中で、肉の味を思う。
ああ、そうだ俺は肉が食いたかったんだ。あの一年間のパスポートもったいなかったな。スマホを直せば見れるだろうか。なんて事を考えていると腕が鈍い音を立ててねじ曲がる。
黒い穴の先は覗き込んでも何も見えずただ漆黒だけが視界に映る。片目がぐじゅりと潰れた。
けれど穴からは玉ねぎの香ばしく焼ける香りが漂う。
……ああ、肉が食べたいなあ。なんて事を考えていると足がひしゃげて倒れるように黒い穴の中へと落ちていった。
どしゃりと全身を強く打つ。
喉が乾いていた。
全身からは痛みが溢れ、身体は何かを求めるかのように痙攣を繰り返す。
口の中は鉄と酸の味が広がり、どろりと頭から何かが垂れ落ちてくる。
身体がバキバキとまるでなにかを折りたたむような音が鳴り響く。
思考は痛みでノイズが走り、何も考えられない。けれど、身体が求めていた。
まるで痛みから逃れるように、何かを。
『転移ボーナス。優位世界から非優位世界に移行したポイントを付与します』
頭痛と共にガンガンと音が鳴り響く。しかし頭の痛みなど今の状況ではほんの少しの足しでしかない。
『ボーナスポイント:十万五千八百ポイント』
『ポイントを使用選択しますか。五秒以内に選択してください』
……何を言っている。今はそんな状況じゃない。痛い。叫ぶ喉からは酸味と鉄の液体が溢れる。
身体が抵抗を無くし、びくりと跳ねる。けれど何かが突き動かす。
『選択拒否。ランダムで選択されます。選択したスキルは順次発動していきます』
『選択:体力:成功』
『選択:耐性:成功』
『選択:否定:成功』
『選択:魔力:成功』
『選択:知性:否定』
足が宙に浮かぶ。ネジ曲がった足がまるで逆再生のようにネジ廻る。先程から苛む痛みなど比較にならないほどの痛みが貫く。
「……っ! ァ! ゥ! ガ!」
喉から血が吐き出される。
目玉が弾けて、刺さっていたガラス片が飛び出す。戻る。
視界が赤く染まり、血の涙があふれる。
腕が、背骨が、肋骨が、頭蓋骨が、内臓が、まるで一度壊れたものをもう一度元に無理やり戻すかのように、離れ、つながり、飛び出し、戻っていく。
体感で永遠とも思えるような地獄が生きるために身体を治していく。
『選択』『選択』『選択』『選択』『選択』『選択――』
ノイズは止まらない。思考はかき乱され考える力を奪う。狂うにも身体は治っていく。狂うための痛みを奪われていく。しかし、思考は削られていき、残っていくのは本能だけ。
「ア、あ、あ、ア、ガ、ア」
びくりと身体が揺れる。揺れることに負った擦り傷すらも治す。痛みの結果を捨て去り、痛みの意味だけが残っていく。
気絶することも許されない。
血の匂いが薄れ、何かの匂いがする。
なんのためにこんな目にあっているのかと、なんのためにこんな思いをしているのかと、思う度に香りがふわりと浮かぶ。
野菜が焦げる匂いだ。炭で何かを焼く匂いだ。
『選択:燃える永劫消えぬ黒炎:否――』
なんのために生きているのか。何のために生きようとするのか。それは。
『リバース:反転:否定:肯定:この選択は望まれません。求めることは推奨されません。非推奨パターン。過去のパターン該当なし。クエスチョンシークエンス起動』
『解答を、回答を、解凍を』
『貴方は何を求めますか。』
知らねえ。
『貴方は何を救いますか。』
どうでもいい。
『貴方は――』
『なぜ生きようとするのですか?』
うまいものを食べるためだ。
『定義不明:理解不能:異世界冒険者としての矜持を:非遊離世界での役割を』
『グリルフレイム:否定』
『グリルフレイム:否定』
『グリルフレイム:否定』
『グリルフレイム:否定』
『グリルフレ』
……うるせえ。
『:肯定』
食べたい。欲望が溢れ出す。
肉が、米が、身体が何を食べることを求めだす。だ液が口いっぱいに広がり腹が鳴る。唸るように身体が突き動かされていく。
『一握りの秘宝:リバース:一握りの香辛料:肯定』
『右手に剣を左手に槍を:リバース:右手に串を左手にナイフを:肯定』
『理想なきカリスマ:リバース:欲望の放浪者:肯定』
苛立ちのまま立ち上がると雑木林の木々を抜けるように匂いの元へと駆け出す。うるせえなこのノイズ。
『救世主:リバース:魔』
黙れよ。
ブツリと、音が消える。身体が軽い。思考が暴力的になる。飢えている。
求めている。
眼前に、煙と網の上に置かれて焼かれている野菜らしき物を確認した後、その少し先で感じる二つの反応へと飛びかかった。
さあ、まずは食料調達と行こうか!