1話 幼女攫って世界の敵へ
幽玄麗らかな月が舞う夜、世界を滅ぼす事象存在の覚醒が確定された。だがすぐにそれの封印方法が発見されて、民衆は絶望から希望の光に顔を綻ばせた。
その微笑みを殴りつけて再び更なる絶望に追い込んだ男がいる。
正気を疑われる行動だ。しかし、当の本人は「お前らこそ正気か」と吐き捨てて、世界を滅ぼすであろう事象存在。
あるいは地球における自業自得のアポトーシス(自滅因子)であるところの通称アポステルを封印する因子を保有する神子を誘拐したのだ。
特戦軍と呼ばれる名前だけの軍隊の長であり、日本の保有する称号持ちの1人でもある男の反逆は日本どころか、他の大国の人々までもが、その身を絶望に打ち震えるさせるのに充分な事象であった。
まさに世界を震撼させた彼は称号と極めて悪辣な性質と、今回起こした事件により「魔王」と呼ばれることになる。
そんな彼は今。
「朝だぞー、ほれ起きろ」
「やー、あと30分」
「お前リアルな数字持ち出してくんなよ、そこは形式美的にあと5分だろ」
ガッツリ寝る気満々じゃないかと呆れた表情で、ベッドに寝転んだ10歳くらいの少女の頬をつついている。
柔らかい、マシュマロのようだと謎の感動に包まれて顔を綻ばせる男は、最低最悪とまで世間で噂されている様には見えない。
世界を恐怖と混乱に陥れた「魔王」こと黒崎光は世論のことなど知らぬとばかりに普通に暮らしていた。
人類の絶滅、つまるところアポステル復活まで残り1年をきった現在、皮肉なことに彼だけが日常を謳歌している事実は誰も知らないだろう。
彼の目の前で眠っている神子以外は。
「あむ」
「いった!お前指噛むな!痛い痛い痛い、まじで痛い、ちょっ、おまやめろ!!」
彼らの日常は平穏である。
称号なんてものを神々は人間に与えるようになった。この世界に神々が愛していない人間はおらず、だから称号を与えられたと言うことは依怙贔屓ではない。
ただ、その人の人生において必要になるから慈悲深い彼らは与えるのだ。
あるものは力を得た。しかし、その力を持って戦い続けた結果、大切なものをすべて取り零した。
あるものは頭脳を得た。しかし、最後まで自らの本当に知りたいことを得ることはついぞなかった。
あるものは未来を見る力を得た。しかし、来るべき未来に絶望して、その目を自ら抉り出した。
強大な恩恵は運命に抗う力だ。その称号が強大であればある程に、降りかかる災厄もまた大きいと言うこと。
ならば「神子」と呼ばれる称号を得た子供が、世界を滅ぼす存在と対峙せざるを得なくなったのはやはり必然で。
「魔王」と呼ばれる称号を得た彼が、理由は兎も角、世界すべての人間を敵としたのもまた必然であったのだろう。
慈悲深い神々は選択肢を与える。そして選んだ解を尊重する。例えそれが終末であろうとも、その選択をこそ神々は愛し、慈しむ。
称号とは選択肢だ。理不尽を前にしては矮小な人間は、選択することすらできないから、慈悲深き彼らは力を与える。
幸福な終わりではないかも知れない、しかし、せめて納得のいく終わりであって欲しいと。
願うのだろう。
「お前本気で噛みやがって、指が歯型どころか血塗ろなんですけど」
「まずい」
吐き捨てるような暴論に光は頬を引き攣らせる。この「神子」称号を得た少女には神々の慈悲深さが欠片も伝播されていないらしい。
もっとも、称号に神の子とあるだけで彼らが育てた訳ではないし、神々は慈悲深いので育児をしても禄な子供は育たないと思うが。
「お腹すいた」
それにしたってふてぶてしい。「魔王」たる彼が思うことではないのかも知れないが。
「セーレ」
「御用でございますか、我が君よ」
「食事の用意をしてやれ」
「ここに」
「はっや」
先程までなにもなかった空間に、いつのまにやらテーブルが置かれており、そこにはトースト、スクランブルエッグ、サラダと朝食が並んでいる。
「コーヒーはブルーマウンテンの豆から挽かせていただきました、神子様の紅茶はアールグレイのセカンドフラッシュです」
片手を胸元に当てての一礼。銀色の髪がさらりと揺れて、その間から黄金に輝く目が覗く。
「すごー」
「恐縮です」
神子の腑抜けた声にも生真面目に返す、執事服を来た女性。セーレと呼ばれた彼女は現在この屋敷に存在する唯一の魔王の眷属だ。
神子が子供らしく我が儘を言い、光が窘めてセーレが世話をする。この屋敷においてはいつものことだ。
ゆっくり30分ほどかけて朝食を食べ終えた頃、セーレが口を開いた。
「我が王よ、来客でございます」
「随分タイミングいいな」
「ああ、いえ、来客は朝食前にあったのですが待たせております」
当然の様に語るセーレに何とも言えない顔を浮かべる。
「待たせてるって中でか?」
「いえ、外で 」
「そ、そうか。ところで今日って確か雪が降っていたけど」
「日本列島を寒波が襲っているようですね、風邪をひいては大変なので今日は外出は控えて部屋の中でお過ごし下さいませ」
「あ、はい」
来客が外で寒さに体を震えさせていようと、どうでもいいと清々しい顔で言い切ったセーレに何とも言えない顔になる。短い付き合いだが、この執事服を着た女性は主である光と、その庇護下にあたる神子以外は眼中になく辛辣だ。
「とりあえず会うから中に入れてやってくれよ。どうせ日本政府の役人か何かだろうし。お茶の用意も頼む」
「……かしこまりました」
笑顔で一礼をして去っていくセーレを見ながら神子はボソリと呟いた。
「セーレ、すごー嫌そーだったね」
「わかりにくいけど、わかりやすいんだよなぁ、あいつ」
「お茶なに持ってくと思うー?」
「キンキンに冷えた水道水かな。そっちは?」
「氷」
「え」
「だから氷」
雪が降り積もり零度を下回る外で30分も待たされた挙句、出された飲み物が氷のみとはゾッとしない話である。まさか、そこまでしないだろうとは思うが何はともあれ。
「俺も用意するかね」
「じゃあ私ねるー、いてらー」
「気楽なお子様だな。まあ、いいや、いってきます」
マイペースな神子に見送られて部屋を後にした。