92話
アリオン北方には、もう一つの地獄があった。
紫電将軍アイリスと、憤怒の高位悪魔イーラの戦いである。雷鳴が轟き、マグマが噴出し、暴風が吹き荒れ、火炎が焼き尽くす。
これは最早、人と悪魔の戦いではない。
悪魔と悪魔の戦いだった。
「これが私の望んだ戦い! 私が渇望した命のやり取り! 興奮するわねぇ!」
フィーベル公国軍の将軍。それがアイリスの肩書だ。彼女はグロリア公国との国境線を維持、あるいは侵略することを仕事としていた。
しかし、彼女は人間として逸脱し過ぎていた。
圧倒的な魔力。
人外の身体能力。
あるいは戦闘センス。
人生を詰まらないものとする要因は揃っていた。
その才能により生まれた嵐属性魔術《紫電の雷神》。これはアイリスの肉体そのものを精霊へと近づけてしまう。黒く染まった眼球を見れば、とても人と思えない。魔神と呼ぶに相応しかった。雷の体へと変質した彼女は、文字通り雷速で駆け巡る。
だが、精霊に近づいたということは、ただの魔術ではなく魔導の域に達しているということである。
「放出」
アイリスは一言、そう呟く。
するとイーラの操るマグマから、全ての電子が放出された。
「移動」
次なる命令を下す。
魔導という魔法の極致が世界を歪めた。
放出された電子は、熱と光を放ちながら、全てイーラへと殺到する。それは炎のようであり、命名された物理現象は『炎』。
嵐属性から物理現象によって炎を生み出し、イーラへとぶつけた。
「っ!」
これにはイーラも驚愕を隠せない。しかし、炎とは怒りの象徴。つまりイーラの象徴でもある。それを奪われたとなれば、怒りは燃え上がる。
呪属性に炎の性質を込め、黒い炎を生み出した。
アイリスは魔導の力を手に入れ、風嵐属性の本質である「放出」と「移動」を扱える。ならば、「活性」した電子を操る炎属性は、電子の「移動」によって防がれる。
つまり、呪いを主体とした魔術を発動すれば良いのだ。
「認めない。この私と同格など、認めない!」
悪魔は破壊神に近しい、高貴な種族だ。人類と比較しても、生命体としての格が違う。イーラには、そのプライドがあった。傲慢たるスペルビアでなくとも、悪魔たちにはこの矜持がある。
悪魔の象徴たる、呪属性魔術がアイリスを襲う。
呪いの黒い炎は、聖なる力なしでは決して消えない炎だ。
「あら、怖いわねぇ!」
そんなことを言いつつ、アイリスは嬉しそうに笑みを浮かべる。呪いの魔術はかなり厄介であり、対処方法が限られている。反対属性である聖属性、水氷属性あるいはあらゆる魔術を消す無属性魔術《破魔》でなければ、正面から防ぐことは出来ない。
この事実を熟知しているにもかかわらず、アイリスは恐怖を抱いていなかった。
ただ、《紫電の雷神》の影響で紫に染まった軍刀をイーラへと向ける。
「死ね人間!」
「滅びなさい悪魔!」
炎を模った呪い《黒炎》、そして雷光を収束して放つ《閃紫光》。互いに魔力を込めて放つ。
黒い炎は紫電の雷光に貫かれ、全てを滅ぼす勢いでイーラに迫る。イーラは《星の怒り》によってマグマを操り、防いだ。しかし、「放出」の力が働き、マグマに含まれる活性電子が《閃紫光》を強化する。
これまでとは比較にならない大閃光がマグマを貫いた。
「人間が、あああああああああああ!」
閃光に包まれ、イーラの姿は掻き消える。
同時に、《閃紫光》を最後として《紫電の雷神》は解除されてしまった。紫へと染まっていたオリハルコンの軍刀は元の色に戻り、同じく黒い眼球も元に戻る。精霊へと近しい存在へ変化していたアイリスは、元の人間に戻ったのだ。
人外のアイリスも《紫電の雷神》を使い続け、嵐魔導で無数の暴風と落雷を引き起こし続ければ、魔力が尽きてしまう。こればかりは仕方ない。
「悪魔、いい戦いだったわぁ。久しぶりに魔力を使い尽くしたわねぇ」
使い尽くしたと言っても、ゼロになったわけではない。アイリスは風魔術を発動し、宙に浮く。地上ではまだマグマが煮えたぎっているからだ。落下すれば、間違いなく即死である。フィーベル公国軍という組織が壊滅した以上、アイリスを縛る存在はない。
アイリスに命令できる者はこの場に生きていない。
「潮時ねぇ。帝国にでもいこうかしらぁ」
フィーベル軍は完全に壊滅した。六万人の兵士に加え、指揮官であった白銀将軍バルボッサ・ギークもマグマに飲み込まれて戦死したのだ。彼は優秀な氷の魔術使いだったが、地を覆い尽くすマグマには勝てなかった。
一人なら逃げられたにもかかわらず、軍を守ろうとして氷魔術を使い続け、遂に戦死したのである。
もはやフィーベル公国に戦争をする余力はないだろう。
アイリスとしては望むべきことではない。
闘いこそがアイリスの生きがい。
戦争こそが本懐なのだ。
故に東の大帝国は、アイリスにとって次なる戦場として選ばれた。
しかし、今のアイリスは油断していた。
「これがイーラを倒した人間なのね。人間にしては良い魔力じゃない」
憤怒の高位悪魔イーラとは一味違う、強烈な悪意。
アイリスはそれを感じ取った。
「……誰かしら?」
気配を感じた場所へと振り向きつつ軍刀を向ける。
そこには蝙蝠のような暗い色の翼を広げた美女、大悪魔マリティアがいた。左腕で気を失ったイーラを抱えており、いつの間に回収したのかとアイリスを驚かせる。
「私は大悪魔マリティア。イーラを可愛がってくれたようね。その礼を返すわ」
問答無用とばかりに、マリティアは混沌の呪いを放つ。それは座標攻撃であり、混沌属性の力がアイリスの右腕を蝕んだ。
オリハルコンの軍刀は無事だったが、それを持っていた右腕は逃れることが出来なかった。右手首から肘へと向かって急速に腕が腐り始める。
「く、ぁあああっ!」
咄嗟に軍刀を左手に持ち替え、右腕を斬り落とす。
そして元アルギル騎士王国で生産された最高級回復ポーションを飲んだ。欠損すら治せるこの魔法薬なら、腕を生やすことも出来る。しかし、右腕の切断面が止血されるだけで終わり、腕は再生しなかった。
現在は自由組合が管理している元アルギル騎士王国の地域では、今までと同様に回復薬ポーションが生産されている。戦争中の三公国は進んで輸入しており、紫電将軍アイリスはフィーベル公国から最高級のポーションを三つも支給されていた。
その腕の再生すら可能な最高級ポーションが効かない。
これにはアイリスも不味いと感じる。
混沌属性は生命エネルギーを削り取る属性だが、呪属性の上位属性であり、本質とも言うべき性質は「呪縛」と「欠損」。呪いの力も秘めている。
当然ながら、呪属性の呪いと比較して遥かに強力な呪いである。
この呪いにより、アイリスは右腕が腐り落ちると同時に回復不能となった。もはや反対属性である生命属性の魔法でしか再生できない。
「はぁっ、ぐ……」
流石のアイリスも腕が無くなるのは初めてだった。寧ろ、アイリスほどの力を持つ人物は傷を負うことも少ない。
まだ消えない激痛に息が荒くなる。
「ふふ。英断ね。もう少し判断が遅かったら、全身が腐って死んでいたわ」
意外にもマリティアは追撃をしようとしなかった。
中立都市アリオンをスペルビア、ルクスリア、アケディア、グラの四悪魔に任せてまでやってきたにもかかわらず、もはやアイリスには興味がないらしい。
いや、本来は倒すべき害悪としての興味が失われ、別の興味が湧いたのだ。それは人類の中に闘争を引き起こす可能性である。
アイリスは人類の中でも異端なほど強い。魔力、身体能力、戦闘センス、その全てが常人どころか強者たちすら凌駕しているのだ。何より、彼女の性格が問題である。闘争を好み、戦いの中で生きる女だ。アイリスは生きているだけで、人類の中に戦いを生む。
そして大悪魔マリティアが望むのは人類の間引きである。
これは自らが駆除するにとどまらない。策略により、国家間で戦争を引き起こし、それによって間引くことも含まれる。この手の策略は傲慢のスペルビアや色欲のルクスリアが得意とする方法だ。
「ふふ。大悪魔ねぇ……こんな強者がいるなんて心が躍るわぁ」
「あらあら。すっかり戦る気ね」
「当然よぉ。こんな機会、一生に一度。確か古代の言葉で一期一会だったかしらぁ?」
「ソーマの言葉ね。懐かしいわ」
その諺はマリティアも知っている。何故なら、自身を封印した勇者が残した言葉だからだ。彼は当時荒廃していた世界に救いをもたらし、同時に倫理観を教えた。
教えた言葉の一つが一期一会、だったのである。
「でも、私はもう貴女に興味ないのよ。もう一度会いたかったら、もっと強くなりなさい。更なる闘争を引き起こしなさい。力を尽くし、心を尽くして欲望に従うことね」
「待ちなさい」
「い・や・よ。じゃあね、人間」
人類として駆除する。そういった興味はアイリスに対して抱いていない。
未来のため投資する資産というのが、今のマリティアの思いだった。今は戦いを望まない。マリティアは呪属性魔術による呪いをかける。
酒を飲み過ぎた時の感覚、つまり酷い酩酊状態にする呪いだった。
流石のアイリスも視界が歪み、風魔術による浮遊を維持するだけで精一杯となる。いや、この状態で魔術を維持できるのは流石だった。
そして大悪魔マリティアはイーラを抱えて去って行く。
右腕を失ったアイリスは、マグマが流動する大地へと落下せぬよう、魔術を維持しつつその場にとどまるしかなかった。
◆◆◆
元アウレニカ王国の中心部。中立都市アリオンを巡った戦争。
フィーベル公国軍は紫電将軍アイリスと憤怒の高位悪魔イーラの戦いに巻き込まれ、壊滅した。いや、全滅したと言っても良いだろう。大軍を失い、白銀将軍バルボッサを始めとした強者を失った。もはやフィーベル公国は求心力を失い、国民が離れて行く未来を辿ることになるだろう。
グロリア公国軍は大悪魔マリティアが暴れたせいで壊滅した。そしてグロリア公国にはスペルビアが作り出した闇の組織サテュロスが巣食っている。軍という力を失い、蒼竜将軍メイと死音将軍フォルナーまで死亡した。これは経済の力で国家に食い込むサテュロスを止める手段が一つ失われたことを意味する。
そんな中、ドロンチェスカ公国軍だけはまだ無事だった。
「悪魔……まさに人類の敵だな」
ドロンチェスカ公国の陣営で『軍神』とまで呼ばれた将軍カイン・アルベルトが呟く。彼は希少技能『教導』を持っている。これはカイン自身が教えた場合、その教え子が急速に成長する。これにより彼は五千人の精鋭部隊を所持しているのだ。彼らは自由戦士の基準で言うランク7以上の者ばかりである。
この他にも、番外将軍『死師』アルトリウスがいるのだ。
彼は研究者であり、超希少な法則属性を持つ人物である。彼の使う混沌属性魔術《八首瘴龍》と《屍骨破軍》のお蔭で、カインはほとんど何もすることがなかった。
それほどまでに混沌属性は凄まじいのである。
たった一人で戦況を変える存在。それが『死師』アルトリウスだった。
「カイン将軍、報告に参りました」
「話せ」
「はっ! フィーベル軍とグロリア軍は壊滅。現在、悪魔がアリオンを襲撃しております!」
「こちらの被害は?」
「軽微なものです。アルトリウス将軍の召喚した八首の竜、そして骸骨の兵士が進軍を続け、中位や下位の悪魔を屠っています」
「……引き時か」
カインは戦局を見誤らない。
もはやアリオンは悪魔のせいで破壊し尽くされ、都市としての価値は失われた。もはや戦争の意味すら失われつつある。
元々、アリオンの神子一族が悪魔に魅入られたというのが戦争の発端だ。そしてアリオンは既に悪魔が破壊し尽くし、神子一族も無事ではないだろう。悪魔によって中立都市アリオンは壊滅したのだ。
出陣した意味が消えてしまった。
勿論、中立都市アリオンを悪魔から解放するという名目で戦い続けることは出来る。しかし、それは武官であるカイン将軍が決めることではない。大公ゼノン・ドロンチェスカが決めることだ。
三公国の軍事バランスが崩れたことで、ドロンチェスカ公国が旧アウレニカ王国の再統一へと走り出すかもしれない。そのために、ここで悪魔と戦って軍を損耗させる訳にはいかないのだ。
「撤退の用意を」
「はっ! 直ちに通達いたします」
三公国の内、ドロンチェスカ公国軍だけが傷の少ないまま撤退を開始する。フィーベル公国軍とグロリア公国軍は事実上壊滅した。
高位悪魔の復活、そして中位や下位悪魔の大量発生。これらは世界的な大事件である。
ここでドロンチェスカ軍が撤退した後、討伐組織が各国で形成されるだろう。そうなれば、悪魔討伐の競争が始まる。
中位や下位の悪魔には興味がない。
目的は高位悪魔や大悪魔である。
なぜなら各国の上層部は、最強クラスの兵器である竜殺剣の作成には高位悪魔が必要だと分かっているからだ。竜殺剣は五百年前の勇者が作ったものであり、まだ完全再現は出来ていない。しかし、実物の悪魔があれば、実験によって可能となるだろう。
これからは高位悪魔の奪い合いが始まるのだ。
しかし、それをさせないため、魔王セイ=アストラルが動き出した。
誤字修正機能を活用してくださる方のお蔭で、修正がはかどりますね。
ありがとうございます。




