81話
時は数か月ほど遡る。
ドロンチェスカ公国の財務大臣、ルガーダ・アーデンは大量の資料を挟んだバインダーを抱えつつ、城の廊下を歩いていた。
ここは大公ゼノン・ドロンチェスカの愛人が住まう区域であり、経済担当の財務大臣が来ること自体はおかしなことではない。何故なら、愛人たちはゼノンに気に入られるべく装飾品やダイエットグッズなどに手を出しているので、意外とお金がかかる。また、如何に愛人とは言え大公の所有物なのだ。衣食住の全てが一流でなければならない。
故に財務大臣が直々に視察し、無駄を省いたりすることもしばしばあった。
それで財務大臣という立場はゼノンの愛人たちから嫌われているのだが、ルガーダ自身はそれを気にしていない。そんなことを気にしていては、財務大臣など務まらないからである。
(ここも随分と賑やかになったものだ)
ルガーダはそんなことを考えながら進んでいく。
基本的にゼノンは好色家であり、正妻の他に十人を超える愛人がいる。この国では一夫多妻を認めていないため、正妻という言い方は少しおかしいかもしれないが。
ただ、結婚に関しては一夫一妻であっても、愛人を許容するぐらいは寛容である。それを寛容と捉えるかはさておくとしても、ゼノンが大量の愛人を囲うこと自体はスキャンダルでもなんでもなかった。
なので、ルガーダはそのことで憂鬱に思ったりはしない。
今、彼が悩んでいるのはたった一人の愛人についてだった。
(やはり、確かめねばなるまい)
ルガーダが気にしているのは二年ほど前にゼノンが気に入った娼婦だった。彼女はあっという間にただの娼婦からゼノンの愛人にまでなり、今では正妻を含めた誰よりも夜の床へ呼ばれている。
それだけならば財務大臣が動くことでもないので無視していただろうが、それに留まらない何かが起きていたからこそルガーダはここに赴いた。
(元娼婦ルクスリア。出身地不明、年齢不詳……娼婦では良くあることだが、国家権力の調査でも何一つ調べられないのはおかしい。何者だ……)
ルクスリアを愛人にする際、ドロンチェスカ公国は彼女の背後を調べた。仮に他国のスパイだとすれば目も当てられないからである。これはルクスリアに限らず、ゼノンが自分の床に迎える娼婦ですらもしっかり調べられることになっている。
しかし、ルクスリアからは何も出て来なかった。
ドロンチェスカ公国で正式に滞在している書類はあるにもかかわらず、出身地はおろか年齢すら全く判明しなかった。これでは彼女の生まれや経歴すらも調べることが出来ず、担当者はかなり悩んだ。
本当ならば不審であるということでゼノンに近づけないよう細工されるのだが、ルクスリアはそんな妨害すらもすり抜けて愛人になってみせた。
その手際、情報力は一流のスパイすらも上回る。
現に、ゼノンはルクスリアに骨抜きされているのだから。
危機を感じているのはルガーダだけではない。実際にルクスリアの調査を命じた大公補佐官の他、軍務大臣や内務大臣、外務大臣もルクスリアに対して疑いの目を向けている。
今回、愛人たちが住まう区域にルガーダが赴いたのは、単に彼がここに来ることは自然だったからである。つまり、ゼノンには秘密でルクスリアについて調べようとしていたのだ。
(それにルクスリア殿がゼノン様の床に入られた翌日は、ゼノン様もいつもと調子が異なる。無理のある議案を通そうとしたり、発想が過激だったり……何か吹き込まれていなければ良いのだが)
ルクスリアがこの国に……正確にはゼノンの元に来てから、ドロンチェスカ公国はどこかおかしくなり始めていた。それは国民が首を傾げるような、急激な変化ではない。緩やかに、じっくりと内部から変革されているような、そんな感覚である。
恐らく、実際に内政へと携わっていなければ気づかないレベルだ。
政治について研究している高等学院の研究者などならば気づいているかもしれないが、彼らはあくまでも客観的に観察する者たちでしかない。おかしくなったところを修正できるのは、この国の大臣や政務官たちだけなのだ。
その中でも、特に不審だったのは謎の裏組織と接触したことである。
サテュロスという、グロリア公国発祥の裏組織がドロンチェスカ公国にも手を伸ばしてきた。それも裏側から侵食するのではなく、表から堂々とゼノンと接触してきたのである。流石にゼノンも撥ね退けるだろうと誰もが思った。しかし、予想外にゼノンはサテュロスと秘密裏なパイプを結んでしまったのである。接触していた当初はゼノンも難色を示していたのだが、数日に渡る協議の後、意見を一変させたのだ。
これについては誰もが驚いた。
最終決定として、サテュロスがドロンチェスカ公国で活動する代わりに、スラムの治安対策や犯罪組織の壊滅などを要請し、実際にドロンチェスカ公国の治安は向上した。
結果的には良かったものの、大公が自ら裏組織と秘密協定を結ぶなど暴挙でしかない。当時は大公補佐官を中心とした誰もが反対していた。
しかしゼノンはこう言って反論していたのだ。
ルクスリアに勧められた、と。
よくあることだが、ベッドの中でそんな話をしていたのだろう。本当は国家機密にあたるのでいけないことだが、そういった情報を愛人経由で外部に漏らさないのも周囲の仕事だ。大公ゼノンのストレスが愛人に愚痴を漏らすことで減るのならばと許容しているので、そこは良い。
しかし、愛人の勧めで国家的な、しかも裏取引の内容を決めてしまうのは頂けなかった。
(あの女の目的……しっかり探らなくてはなるまい)
ルガーダは立ち止まり、一つの部屋の前に立つ。
そしてノックをして返事を待った。
「はい。ルクスリア様付きの使用人でございます」
「済まない。財務大臣のルガーダ・アーデンだ。視察に来たから中に入れてくれないか?」
「アーデン大臣でしたか。ルクスリア様にお伝えしますので少しお待ちください」
所詮は愛人枠だが、女性の部屋なのだ。多少待たされることぐらいはある。ルガーダもその程度で怒りを見せるほど短気ではないので、素直に扉の前で待つことにした。
そして数分後、ようやく扉が開けられる。
「申し訳ございません。お待たせしました」
「良い」
使用人の女は本当に申し訳なさそうにしてルガーダを招き入れる。
そして部屋に備えられているソファへと案内した。そこではルクスリアが立ち上がって待っており、笑顔で迎える。
「これはこれはアーデン財務大臣。私に何か御用でしょうか?」
「少し聞きたいことがあってな。座って楽にしたまえ」
ルガーダがソファに座ると同時に、ルクスリアも腰を下ろす。一応、ルクスリアよりもルガーダの方が立場が上なので、こういった細かい気遣いが必要だ。
そして即座に使用人がお茶を淹れてテーブルの上に置く。お茶の香りが広がり、ルガーダも少し落ち着いた。あまり気にしているつもりはなかったのだが、ルクスリアは絶世の美女なのだ。男として、反応してしまう部分がある。
ルガーダは密かに使用人に対して感謝した。
「少し秘密の話をしたい。音を遮断する結界を張るが、良いかな?」
「構いませんわ」
「そうか。ならば遠慮しない」
今から話すことは国家機密にも相当しかねない。使用人は口が堅いとは言え、気軽に聞かせて良い内容ではないのだ。この部屋にいる使用人は合わせて五人なので、その五人が結界の内側に入らないよう、ルガーダは魔術を行使する。
風属性を持つ彼は、秘密の会談をする時によく使っているので、この程度は一人で発動できた。
というより、軍用の攻撃魔術でもない限りは魔術を習得しているのが一般的である。寧ろ、魔法の一つも使えなければ落ちこぼれ呼ばわりされるのが今の世の中だ。最低でも、魔力の行使によって魔道具を扱えなければ生きていけない。
「まずはこの資料を見て頂こうか」
ルガーダが持ってきたバインダーを開き、ルクスリアに見せる。それはここ二年の金の動きについて纏めたものだった。収支報告だけでなく、その時の情勢も軽く記されており、どういった経緯でこのように金が動いているのか分かりやすくなっている。
ある程度の知識があれば、素人でも分かるようになっていた。
「あら、こんなものを私に見せても宜しいのですか?」
「これは抜粋してコピーしたものに過ぎん。秘匿部分は消してある。それよりも、この一昨年の報告書と今月の報告書を比べて欲しい。大きな変化があると思わないか?」
「そうですわね。強いて言わせていただくならば、社会保障関係の支出が大幅に伸びていることでしょうか?」
「その通りだ。最近は小さな犯罪こそ減ったが、代わりに麻薬や違法な武器取引が盛んになっている。結果として軽犯罪は激減したが、大きな犯罪は増加してしまった。その取り締まりで費用がかさんでいるのだ」
「まぁ、恐ろしいですわ」
「そして、この傾向が現れたのはサテュロスと言う裏組織が頭角を現し始めてからになる」
そして次の言葉を用意しつつ、ルガーダは一枚の写真を見せつけた。
「私たちは、ルクスリア殿がサテュロスの手先だと考えているのだ」
「……まぁ」
見せられた写真には、ルクスリアが怪しげな男と話をしている場面が映されていた。写真の魔道具は異世界人によって持ち込まれ、虚属性によって再現されている。このような諜報では非常に役立っていた。
「これは我が国の諜報員が手に入れてくれたものだ。そしてルクスリア殿と会談していたこの男はサテュロスの下部組織に所属していることも判明している。まぁ、会談と言っても手紙のようなものを渡されただけのようだったがな。
ともかく、これが証拠だ。何か言い逃れはあるかね?」
「心外ですわ。この男が私に接触したからと言って、私が何かをした証拠にはなりませんもの」
「大公様が貴方と寝た翌日の会議では、必ずと言って良いほどサテュロスにとって都合の良い方向に進んでいる。状況証拠としては充分かと思うがね」
正直、ルガーダとしてもこの程度の証拠ではルクスリアにサテュロスとの関わりを認めさせるのは難しいと思っている。絶対的な証拠とは言えないので、幾らでも言い逃れは可能だからだ。
しかしながら、ルクスリアが身元不明であり、ただの娼婦から数か月で愛人へと成り上がり、こうしてサテュロスに都合よくなるよう動いている風に見えることから、彼女は間違いなく黒だと確信していた。
流石にこれを偶然で片付けるのは無理がある。
しかし、やはりと言うべきか、ルクスリアがそれを認めることはなかった。
「私は何も知りませんわ」
「ふむ。そうか」
「ええ。全く」
「それならば仕方ないな」
ルガーダは右手を自分の首元に持っていき、シャツのボタンを外した。そして、内側から赤い宝石が付いたネックレスが取り出される。
これにはルクスリアも不審に思った。
「それは……?」
「これはゾリア結晶とオリハルコンに虚属性と呪属性の魔法を込めた道具だ。効果は明快でただ一つ。嘘を検知すると赤く変色する」
「……」
ルクスリアの表情から余裕が消えた。
実はこの嘘を検知する魔道具は非常に貴重であり、大公の愛人如きに使用するようなものではない。かなりの高額魔道具であるにもかからわず、使い捨てだからだ。
特にゾリア結晶は過剰な魔素を含んだ炭素の結晶、つまりダイアモンドであるため、金を払えば確実に手に入るものでもない。本当に貴重なものだった。
しかし、それを使用しなければならないと思えたほどルクスリアを疑っていたのも事実。
ルガーダはこの場で証拠を掴むことに成功したのだった。
「一体、この国で何を企んでいるのだルクスリア殿?」
流石にルクスリアも、そんな魔道具があることは知らなかった。また、知っていれば呪属性魔術で抵抗出来たことだろう。
確かに、この魔道具は呪属性で抵抗出来てしまうという欠点があり、ルガーダはそれ故に初めからこれを見せつけなかった。所詮は人間だと侮っていたルクスリアのミスである。
「どうなのだと聞いている!」
黙っているルクスリアを見て、ルガーダは確信した。
確実にこの女はドロンチェスカ公国を蝕む膿なのだと。
「ふぅ……人間も侮れませんわ。まさか違和感に気付かれるなんて。これでも、気づかれないようにやっていたつもりなのだけど」
「やはり貴様……っ!」
「そうですわ。アーデン様の指摘は殆ど正解です」
ルクスリアが人間を侮り過ぎていたことは認めよう。
しかし、彼女はただの人間ではなく高位悪魔だ。その中でも色欲を司る、人を操ることに長けた存在。目の前の男を一人だけ篭絡する程度、全く問題なかった。
「知らなかった方が良かったと後悔させてあげますわ」
「何を……貴様は既に終わった。すぐに諜報課へと連絡させて貰う。明日には牢が貴様の部屋だ」
「あらあら。怖いことを仰るんですね」
無表情だったルクスリアが再び余裕の笑みを取り戻したことで、ルガーダは少し困惑する。魔法の腕は知らないが、ルクスリアは明らかに細腕の女性であり、戦いが得意とは言えない見た目だ。この状況では力づくで逃げることも出来ないだろう。
この区域の使用人はそれぞれの愛人の世話をしている一方、主は大公ゼノン・ドロンチェスカなのである。ゼノンを害するならば、ルクスリアがゼノンのお気に入りであったとしても敵に回る。
つまり、ルクスリアは絶体絶命のはずだったのだ。
仮に何かしらの手段でルガーダを殺害したとしても、ルクスリアが指名手配されることに変わりはない。
故にルガーダは不気味に思った。
「何が可笑しい」
「いえ……ねぇ……あまりにも滑稽なものですから」
「滑稽だと?」
「ええ、この程度で勝ったと思っていらっしゃる。それは愚かさですわ」
ルクスリアの眼が怪しく光った。
すると、防音の結界が壊され、ルクスリア付きの使用人たちが一斉にルガーダを押さえつける。使用人たちは女だったが、流石に五人が相手では文官のルガーダも押し退けることが出来ない。
ソファから引きずり落とされ、絨毯の上で両手両足の自由を奪われてしまったのだった。
「貴様ら! この私が誰なのか分かっての所業か!?」
「あらあら。当然ではありませんか。既にこの娘たちは私の所有物です。私に危害を加える者から守ってくださっているのですよ?」
「なん……だと……!? 買収されたか貴様ら!」
「うふふふ。そんなものではありませんわ。ただ、私が少しお願いしただけです。彼女たちは快く、私に忠誠を誓ってくださいましたのよ」
ルクスリアは色欲の高位悪魔だ。
人間の三大欲求と言われる食欲、性欲、睡眠欲の内の一つを操る。故に、人を操ることに長けている。彼女はその手腕で使用人たちを既に自分の手駒に変えていた。
その色香は同性であっても効果が高いということである。
「本当は穏便に済まそうと思っていたのですけど……仕方ありませんわね。知ってはならないことを知ってしまったアーデン様が悪いのです」
「ぐ……離せ!」
「折角ですから、アーデン様も私の手駒になって頂きますわ」
「や、やめろおおおおおおおおお!」
高位悪魔にとって政治的な手腕など、遊びでしかない。
その本領が解き放たれれば、手に負えなくなるのは当然だった。
面倒な遊びを止めたルクスリアは、この日を境に本格的な侵食を開始する。スペルビアが率いるサテュロスとも連携を取り、あっという間に国を背後から操ってみせた。
これが、広域霧幻呪術ファントムミストが発動される少し前の話であった。
そして魔王セイ=アストラルの計画が発動後、ドロンチェスカ公国は中立都市アリオンに対して軍隊を差し向けることを決定するのであった。
どうも。
最近は更新速度が下がってますね。ここ二か月、この小説は書きにくいなぁ……って思っていたのですが、その理由が判明しました。
賢いキャラが多すぎます。
私のスペックが不足し過ぎですね。特にスペルビアとか、毎回悩んでいましたから。なんでこんな知能高いキャラを増やしてしまったのか……
ともかく、クオリティを維持するために更新頻度が下がりますよ……という言い訳です。忙しいのもありますけどね。更新は気長に待ってあげてください。