51話
アルギル騎士王国の首都ムーラグリフにある高級ホテルの最高級部屋にて、一人の若い男が笑みを浮かべながら紅茶を楽しんでいた。カップから立ち昇る湯気には芳醇な香りが含まれており、口にすることが無くとも上等な茶葉であると理解できる。実はこの茶葉は王家が好んで仕入れているものと同種であり、一杯で金貨が飛ぶような高級品だった。
そんな紅茶を嗜むことが出来るのだから、この男の身分も相当なものである。
男の名はネイエス・フランドールといい、多数の国に根を張っている大組織『自由組合』の理事を務めているのだから、身分の高さで言えば王族にも準ずるといえる。自由組合は民間の組織ではあるが、その規模と組合員から考えれば一つの国であると言っても過言ではない。つまり、自由組合の最高意思決定機関である理事会に所属しているということは、国のトップである王とも同等であるということだろう。ただ、自由組合はあくまでも民間組織であるため、理事と言えど実際の身分は王に準ずる程度ということである。
(今日の交渉で一歩進めましたかね? ペルロイカ王も意外に強かなものだ)
ネイエスは連日、互いの部下を交えて国王ペルロイカ・アルギルとの秘密会議を行っている。秘密と言っても、それは一般に対しては秘密というだけであり、一定以上の身分を持つ貴族たちや、一定以上の役職を持つ文官武官たちには知れ渡っている会議だった。
それは自由組合の戦力を一時的に国防に転用したいというもの。
本来、国防は国軍の役目であり、自由組合の戦力は一般向けのものでしかない。アルギル騎士王国では基本的な治安維持や対魔物戦力は騎士が担っていたので、自由戦士は騎士で対応できない僅かな漏れを処理する程度だった。
しかし、魔王アストラルが出現し、霊峰攻略作戦失敗で第一騎士団の五千人を失った。更に少し前には王都ムーラグリフに黒いドラゴンが出現したり、その事件を境に各地ではドラグーン暴走事件が多発したりと騎士への被害が相次いだ。他にもゴブリンと呼ばれる弱い魔物などが何者かに統率されているかのように集団を組んで暴れたりもしている。
だが、何よりも痛かったのは転生した氷竜王を討伐するために派遣された騎士たちが全滅したと思われることだ。現在も調査中だが、生き残りがいる可能性は絶望的に小さな値であり、更に国宝である竜殺剣も失われている状態にある。
少なくとも、竜殺剣だけは探し出さなくてはならない。
そのためにはただでさえ治安維持がギリギリの騎士を多く動員させなければならず、そうなれば誰が敵国からアルギル騎士王国を守るのだという話になる。一応魔物も脅威だが、それは放っておいても自由組合が処理してしまう問題だ。魔王に関しては、舐められているのか、霊峰でのことを受けても大した脅威だと思われていない。
それはともかく、敵国で一番の悩みの種は東の大帝国だろう。名目上は同盟状態にあるが、それは砂上の楼閣のように危ういものでしかないと分かっているのである。
最も技術の進んだ国であり、最も広大な領土と多数の国民を擁する国であり、そして最も軍事力が大きな国でもある。今は肥大化しすぎた内部の安定に徹しているが、アルギル騎士王国が揺れており、防備が薄くなっていると知れば進軍してくるかもしれない。
それだけ、アルギル騎士王国の生産する薬草や回復薬は効果が高く、希少なのだ。
(やはり魔力回復薬を引き出すのは難しいですね……)
今回、ネイエスが自由組合の戦力を提供する対価として示したのは魔力回復薬の製法である。傷の回復薬は民間でも良く出回っており、一般企業が性能を競い合っていたり、自由組合でも薬学部門が幾つか特許を取得しているほど活発な分野だ。
だが、魔力を回復させる魔力回復薬は国が厳重に秘匿しており、製法は疎か生産数も公表されていないのだ。当然ながら、魔力回復薬を作る技術者や生産場所も完全秘匿状態にある。
飲めば何度でも魔力を一瞬で回復できる魔力回復薬は、魔術を使う者にとって何よりの切り札であり、第三騎士団が得意とする百人以上の集団による合成魔術、極大多重魔法も魔力回復薬を多用することで何度でも発動可能だ。
そんな国防にすら関わる切り札を提示するほどペルロイカ王は馬鹿ではない。
仮に自由組合が魔力回復薬を生産した場合、自由組合法に加盟している東の大帝国に魔力回復薬が渡る可能性があるからだ。原料はアルギル騎士王国北部の森でしか採取できないが、自由組合という国家をまたぐ組織によって、知らぬ間に原料を取引されていては目も当てられないのである。
勿論、アルギル騎士王国内にある自由組合支部の人間は仮想敵国に原料を売り渡すことなどしないだろうと思われる。しかし、どこの世界にも目先の利益しか考えない馬鹿や、ネイエスのように未来を見据えて利益を優先する厄介な人種がいるものだ。
結局のところ、ペルロイカも魔力回復薬の秘密が自由組合に渡った時点で、アルギル騎士王国は致命的な傷を負うことになると分かっているのである。
それでも魔力回復薬という手札を寄越せと言っているのだから、ネイエスの野心家具合は相当なものだと言えるだろう。
「やはり交渉だけでなく、内部の貴族に工作をしておくべきですか。ペルロイカ王も、大多数の意見ならば無視できないかもしれませんからね」
ネイエスが思い浮かべたのは親交のある幾つかの貴族だ。何度か貴族間のアレコレへと手を貸したこともあり、特に第三位階爵位より下の貴族は殆どが知り合い関係である。第四位階爵以上の貴族にも伝手はあるが、そこまで手を出すと貴族界での警察的立ち位置である第五位階貴族アルコグリアス家が出張ってくるかもしれない。
だが、だからと言ってアルコグリアス家を邪魔だとは思わない。
実は、以前も自由組合の邪魔になる大規模な商会を潰すために、ブルデン家という貴族を唆して件の商会と組ませ、騎士養成学校にちょっかいを出させることに成功した。当然のようにそれを察知したアルコグリアス家は即座にブルデン家へと制裁を下し、ネイエスにとって邪魔だった大商会も衰退の一途をたどることになった。
ちなみに、この制裁こそが、ルカことルキウス・アルコグリアス暗殺の罪を擦り付けることでブルデン家を追い込み、更にお荷物のルカを始末するあの計画だった。結局、魔王セイ=アストラルによってルカの暗殺は失敗したが、アルコグリアス家当主のロメリオ・アルコグリアスは無理矢理ブルデン家のせいにすることで、制裁を実行していた。
元々ブルデン家は落ち目の役に立たない貴族であったため、繋がりを断ち切るだけでネイエスにとって大きな利益になる。第五位階爵という大貴族を利用するなど、普通の感性では到底実行できないようなことである。だが、ネイエスはそれをするだけの権力とコネクションを持っていたというだけの話だった。
「次の交渉は三日後ですから……ふむ、上手くやれば幾つかの貴族はこちらの手に落とせますね。王家への忠誠心が高い高位貴族も、自由組合の手を借りなければ国の危機だと言い聞かせれば……あるいは……」
まだ若いネイエスが自由組合で理事の立場を得られたのは、ひとえにこの頭脳のお陰である。多重の要素を吟味して数十手先を読む思考能力と、そこから最善の一手を導き出す決断力こそが彼の武器である。
彼は政治的手腕によって各国の上層部や富豪へとコネクションを伸ばし、アルギル騎士王国以外にも大きなネットワークを張り巡らせている。どの貴族にはどの伝手を使ってどのような利益を提示すれば良いか、すぐに弾き出すことが出来た。
「ふむ。こうして考えれば幾らでも策は浮かびますね。この国で混乱を起こしてくれた魔王アストラルには感謝の念を浮かべてしまいそうですよ。ふふふ……」
思わずそんな危険な言葉を漏らしてしまったのも仕方ないことかもしれない。このチャンスは魔王の出現によって引き起こされたモノであり、何でも利用するネイエスからすれば災厄とは映らない。
だが、そんな彼も、まさかその言葉を聞かれているとは思っていなかった。
「へぇ。そんな風に思っているんだね」
「っ!?」
突然聞こえた自分以外の声に身体を固くするネイエス。この最高級部屋は完全なプライベート空間であり、ネイエス以外には誰もいなかったはずだった。また、防音設備も整っているため、外に声が漏れる心配もない。事前に魔道具による盗聴を予防するため、専門家に調べさせてから宿泊しているほどに気を使っていたつもりだった。
だが、現にネイエスの漏らした言葉に誰かが返事をしたのだ。
アルギル騎士王国に災厄を齎している魔王アストラルに感謝などという危ない言葉を聞かれてしまったのだから、ネイエスはそれだけで致命傷だと感じていた。
グルグルと思考が渦巻いて言葉を失っているネイエスに対し、声の主は再び口を開いた。
「まぁ、何を思っているかは大体分かるけど、心配はいらないよ。別に君が漏らした言葉を広めるつもりはないし、録音もしていないから」
少しだけ安堵できる言葉が聞こえたため、ネイエスは若干肩の力を抜く。勿論、無条件で信じられる訳ではなかったが、この言葉のお陰で冷静さを取り戻せた。
そして冷静になれば次は声の主が誰かという話になる。
背後から聞こえていることは分かっているため、ネイエスは椅子に座ったままゆっくりと振り返った。
「……何者です?」
ネイエスが見たのは漆黒のローブを被ってフードを被り、更に目元を隠す仮面を被った男だった。声から予想するに少年程度の年齢だと思われるが、だからと言って油断はしない。
そもそも、ネイエスが泊まっている最高級部屋の警備は万全なのだ。このホテル自体も優秀な警備員を雇っており、更にネイエス自身も自由組合理事であることを生かして、警護専門の組合員を雇っている。正面から部屋に入ってくるなど到底不可能な事であり、それを出来る実力者だとしても、騒乱の物音でネイエスも気づくはずだった。
だが、少年と思しき男はネイエスに気付かれることなく背後を取っていた。ネイエスに戦闘能力はないため、気配を察知するような高等技術は持ち合わせていない。なのでこれ自体は不思議ではないのだが、この最高の警備の中で侵入して自分の背後を取るという条件にすると、途端に難易度は上がる。正直な気持ちを言えば、あり得ないという思いだった。
そんな感情の中で絞り出したネイエスの言葉に男は軽い口調で答える。
「そんなに緊張することはないよ。俺は君に交渉をするために来ただけの者だからさ」
「交渉をしに来た者ですか……つまり、君はどこかの有力者の使者ということですか?」
「いや、俺自身が交渉をするために来た」
少年の声でそんなことを言われたため、ネイエスは戸惑った。
彼の知る限り、ネイエスがこの場所に宿泊しているという情報を手に入れることが出来る者はそれほど多くなく、更に少年ほどの年齢の者に限定すれば皆無となる。ここに侵入してきたことも驚愕だが、ピンポイントで自由組合理事であるネイエス・フランドールの居場所を探し当てた情報力はもっと驚くべきものだと言えた。
これは大事になると考えたネイエスは目の前の男をよく観察する。
まず一番に目を引き付けるのは漆黒のローブだろう。前開きの羽織るタイプであり、色や見た目は一般的な市民の着るものとよく似ていた。しかし、材質は明らかに良いものである。ただ、見ただけで何の素材であるかは分からなかった。
ローブの前開きになっている部分から見える中身の服装だが、これも市民が良く着るデザインだ。見た目はかなり綺麗であり、これまたよく分からないものの、良い材質であるとだけは理解できる。
まるで貴族の者が市民に紛れるデザインの服装を作ったはいいが、金銭感覚の違いから良い素材を選んだせいでチグハグになってしまったかのようだという印象である。
そして怪しさを最も醸し出している仮面は、シンプルなデザインのものだった。鼻から上を隠す仮面であるため、口の動きは見える。しかし、最も表情が出やすい目を隠されているのはネイエスにとって嫌な状況だった。
(総合的に言えば怪しいの一言ですが……私に選択肢はなさそうですね)
手を伸ばせば届く場所に置いてある呼び出し魔道具を使えば、外で待機している警護の者を呼び出すことは出来る。しかし、目の前の男がそんなことをさせてくれるとは思えないし、男の言っている『交渉』も気になるところだ。
それに、この部屋に侵入した方法、自分の情報を入手した男の諜報力など、気になることは他にも沢山ある。
豪胆にも、ネイエスは目の前の男から逆に情報を抜き取り、『交渉』とやらを有利に進めようなどと考え始めていたのだった。
しかし、そんな甘い考えをしていたネイエスは一言目からペースを奪われることになる。
「取りあえず自己紹介だな。俺は魔王アストラル。君たち人類と絶賛敵対中、そして現在話題の尽きない噂の魔王さんだよ」
「…………は?」
ネイエスはそれから十秒ほど固まることになった。