30話
「助けて!」
セイに貰った短剣を握り、そう叫んだルカの目の前には暗殺者が迫っていた。二人いた暗殺者の内、一人は既にこと切れている。だが残されたもう一人はルカを殺すことを諦めてはいなかったのだ。
しかしルカの願いに応えて、短剣が本当の姿を見せる。
「ひゅがっ!?」
ルカの握っていた短剣が漆黒に染まり、予備動作なく流動して迫っていた暗殺者の首を薙ぐ。氷竜王牙の性質を受け継いでいる魔物アビスは凄まじい切れ味を誇っており、防具など付けていない暗殺者は音もなく首を落とされたのだった。
「ひっ!?」
暗殺者は首を失っても走り続け、ルカの目の前まで来て再び流動した短剣が薙いだ。首を失った暗殺者は吹き飛ばされて壁に叩き付けられ、床に落ちてビクビクと痙攣する。こういった光景に耐性のないルカは泣きそうになりつつ茫然とする。
「キュイッ!」
「ア、アルク~!」
ルカは短剣を放り投げてアルクを抱き寄せた。
そして放り投げられた短剣は膨張しながら流動し、一つの形になる。窓から差し込む月明りに反射しているのは漆黒の竜王鱗、背中から二枚の竜翼……大きさは数メートルだが、形は間違いなくドラゴンだった。
「え? え? ええぇぇえええっ!? アルク~っ!」
「キュイキュウゥン」
短剣からドラゴンに姿を変えたアビスに驚くルカとアルク。アルクも魔物の一種ではあるが、姿を変動させるアビスにはルカ同様に驚いていた。
互いに身を寄せ合い、震えつつ漆黒の竜を見つめる。九歳の少年にはあまりに刺激の強すぎる光景だったのだから仕方ないだろう。次は自分が殺されるのではないかと考えてしまったのだ。
しかしアビスはセイの命令を受けてルカを助けに来ただけである。
襲いかかることなど有り得ない。
小さな深淵竜は背中を見せてルカが落ち着くのを待ち続ける。こんな見た目でも、非常に高度な演算能力を備えているのだ。ルカの思考パターンや性格を読み解き、適切な対処を取ることなど容易い。
『対象:ルキウス・アルコグリアス』
『これまでの言動を解析』
『思考パターンの結果を提示』
『思考能力は年齢と比較して非常に高いと推定』
『また感情の変動は少ない。理由として長く誰からも必要とされていなかった対象の経緯が関係していると思われる。感情をシャットアウトすることでストレスを軽減していたと予測』
『対象は従魔:氷晶鳥アルクと共にいることで心拍数が安定する』
『結果:時間が解決する。またその時間は非常に短いと断定できる』
『背中を見せ、心理的安心感を与える距離にて待機を実行』
『推定四十秒で対象は行動を開始すると思われる』
生物らしい創造的な演算能力。
コンピューターの如き正確無比で素早い演算能力。
この二つを備えたアビスの思考リンクネットワークはあらゆる結果を演算可能だ。観察結果を収集蓄積し、それを基にアルゴリズム解析と予測を実行する。あらゆる環境の変化を考慮する生物的な創造的思考を加え、出された解答は非常に正確だ。
そしてルカは推定通り、四十秒後には警戒を解いて深淵竜へと近づこうとしていた。
「……セイさんがくれた短剣……だよね?」
「キュイィ?」
『是』
残念ながら思考リンクに加わっていないルカがアビスの機械的な声を聞くことは出来ない。代わりに軽く頷くことで深淵竜は肯定の意思を伝えた。
どうやらこれで完全に味方だと察したらしく、深淵竜へと近寄る。
元々、従魔としてアルクと触れ合っているおかげで魔物に対する怯えは少なく、竜の国と称されるアルギル騎士王国の出身だけあってドラゴンに対する恐怖心も少ない。先程の怯えは短剣が勝手に動いて暗殺者を殺したこと、そしてドラゴンに変身したことに対するものだった。
つまり、味方だと感じれば恐怖心は薄れるのである。
また子供らしい好奇心が勝ったという理由もあった。
「背中に乗るの?」
『是』
ルカの問いかけに深淵竜は頷いて肯定する。相変わらず言葉は通じないが、意思の疎通はこれで十分だ。
氷晶鳥アルクを肩に乗せたルカは恐る恐ると言った様子で深淵竜へと近寄り、その背中によじ登る。深淵竜の大きさは数メートルであり、子供のルカでも問題なく登ることが出来た。
そしてルカが背中に登ると同時に深淵竜は背中の一部を変形してルカのために掴みやすい突起を出現させる。さらに触手を出してルカの身体を深淵竜の背中に固定したのだった。
ルカも初めは慌てたが、特に害がないのを見て大人しくなる。
『第二フェイズを実行します』
『巨大化を実行し、部屋を破壊して脱出』
『王のために陽動をしつつ、大結界の近くまで移動』
思考リンクを通じて情報を共有しつつ次の段階へと移行する。
ルカを乗せた深淵竜は巨大化し、それと並行して口元に魔力を溜め、極大圧縮して窓の方に向けて放つ。ドラゴンの放つブレスを真似たものであり、壁を破壊するには贅沢過ぎる威力だった。
ズガンッ!
「うわっ!?」
「キュウゥン!?」
叫び声を上げるルカとアルクを無視して深淵竜は巨大化して破壊した壁から身をせり出す。この時点で深淵竜の大きさは二十メートルを超えており、それでもまだ大きくなり続けていた。そしてこの爆発騒ぎを聞いて近くの騎士団詰所も慌ただしく動き出したのである。
さらにルカの家は高位の貴族屋敷である。
これほどのことが起これば、当然ながら騒ぎになる。
ルカの部屋へと最初に飛び込んできたのは下っ端の使用人の一人だった。暗殺者のことも知らない下っ端であるため、何の疑いもなくルカの部屋へと飛び込んできたのだが、その目に映った光景には絶叫を上げる他なかった。
「わ……わあああああああああああああっ!? ドラゴンだああああああああああああ!」
月明りに照らされて漆黒の竜王鱗を輝かせる深淵竜は非常に恐ろしい姿をしている。竜を従えると言われている国の者でも、唐突にそんな光景を見せられては叫ばずにはいられない。そしてその声を聞いたアルコグリアス家の警備兵も駆けつけて雪崩れ込んできた。
「どうした―――ってドラゴンだと!? どうなっている!」
「早く旦那様に知らせろ。ルキウス様の部屋に黒いドラゴンがいると!」
「わかった。俺が行く」
「見ろ! ドラゴンの背中にルキウス様がいるぞ」
「どうしますか隊長?」
「……一応助け出せ」
ルカはドラゴンに攫われようとしているように見えたらしく、警備兵の隊長は救出を命令する。
相変わらず嫌悪されているらしく、『一応』助け出せという命令だったが……
如何に嫌われ、雑に扱われているルカでもアルコグリアス第五位階爵の次男だ。警備兵としての仕事上は絶対に助け出さなくてはならない。これでもしも攫われてしまえば、警備兵隊長としての責任問題になってしまうのだから。
「対象はドラゴンだ。背中にいるルキウス様を怪我させないように対処しろ。背後を見せている今が最大のチャンスだ。尻尾に気を付けてかかれ!」
『はっ!』
隊長は後ろから指示を出し、警備兵たちは剣を抜いて深淵竜へと切りかかる。さすがに竜を切り裂けるような高級な武器ではないが、だからと言っても何もしないわけにはいかない。
だがやはり相手は巨大なドラゴン。
警備兵程度では何人集まっても敵ではなかった。
『がはあああっ!?』
無造作に床へと叩き付けられた深淵竜の尾を中心として衝撃波が発生し、警備兵を全員吹き飛ばした。風に吹かれる木の葉のように飛ばされた警備兵はそのまま壁にぶつかって停止し、半分以上がそれで意識を奪われる。辛うじて意識を保っていた者も、戦いに復帰できるほどではなかった。
そして迎撃に成功した深淵竜は容赦なく反撃をする。
すでに巨大化を止めて三十メートル程まで大きくなった深淵竜は一気に翼を広げて部屋ごと吹き飛ばした。
ガアアァァァアアアン!
二度目の破壊音は一度目よりも更に激しいものだった。
夜の王都ムーラグリフに姿を現した漆黒のドラゴン。
貴族区は一斉に目を覚ますことになる。各所で怒号が飛び交い、慌ただしく騎士団詰所から大量の騎士が雪崩れ込もうとしているが、深淵竜にとっては関係の無い話だ。深淵竜は悠々とした態度で翼を数度羽ばたかせ、上空へと浮かび上がる。
「わ、わああああ!」
ルカは初めての空に興奮と恐怖が混じった声を上げた。三十メートルもの巨体の背中であるため、意外と安定している。だから落ちる心配はしていないのだが、やはり高所というのは一定の恐怖感があるらしかった。それと同じく状況を楽しんでいるのはルカが子供だからなのだろう。
そして完全に空中へと浮かび上がった深淵竜は振り返り、先程吹き飛ばしたルカの部屋があった場所に狙いを定めてブレスの準備をする。
吹き飛ばされた衝撃から復帰した警備兵隊長は空を見上げてブレスを放とうとしている深淵竜の姿を確認し、考えるよりも先に叫んだ。
「全員逃げ――」
ズウウゥゥゥゥゥゥウウンッ!
隊長が言い終わるよりも先にブレスは吐き出され、青白い魔力光を帯びた光線がアルコグリアス家の屋敷の一角を完全に破壊する。
これには周囲から集まろうとしていた騎士たちも思わず足を止めてしまった。
そして最悪の状況はさらに続く。
「大変だー! 第六騎士団詰所のドラグーンが脱走して暴れている!」
どこからともなく叫び声が聞こえ、それに続いて地鳴りの音が響いてくる。魔王セイ=アストラルによって楔を解き放たれた百体を超えるドラグーンが一斉に暴れ出し、本能のままに王都ムーラグリフを襲い始めていたのだ。
この状況を確認した騎士団のとある小隊長はこんな言葉を漏らしたという。
「悪夢だ……」
これが悪夢であればどれだけ良かっただろう。
そう思わざるを得ない状況である。王都は大混乱に陥り、情報も錯綜して騎士団すらもどう動けば良いのか分からない。暴走したドラグーンは貴族区を荒らしながら駆け抜けて市民区へと下り、破壊の限りを尽くして被害を無限に広げていく。
深夜という時間帯もあって急な出来事には対処できず、市民は何が起こっているのか理解できないままに逃げ惑っていた。中には眠っていたところをドラグーンに部屋ごと破壊され、そのまま永遠の眠りへと移行してしまった不幸な人物すらいたほどである。
そしてそんなドラグーンたちが暴れている光景を見て満足したように頷いた魔王セイは夜に紛れる漆黒のローブで全身を包みながら《障壁》を足場にして空に飛びあがった。
(こっちに来い。深淵竜)
『是』
あれからさらに何度もブレスを吐いて貴族区を破壊していた深淵竜は王であるセイの命令を受けて方向転換する。そして魔力の精霊王の気配を辿って、あっという間にセイの下へと駆け付けたのだった。
『王よ。我が身はここに』
(お疲れ。あとは大結界を破壊して北に逃亡する。背中に乗せてくれ)
『是』
セイは足元に展開した《障壁》を蹴って深淵竜へと近寄り、その背中に着地する。そして背中にしがみ付いていたルカは突然現れた黒ずくめの人物を見てビクリと体を震わせた。
そんなルカを見て、セイは落ち着けるために言葉をかける。
「心配するなルカ。俺だ」
「その声……まさかセイさん?」
「キュイ?」
「そうだ。ルカもアルクも脱出お疲れさん。言った通りになっただろ?」
そう言われてルカは昼間に言われていたことを思い出す。
『今夜はアルクを近くに寄せて眠るといい。それと必要な荷物もまとめて近くに置いておけ』
『ルカ。お前は家族とアルクならどっちを取る? どちらと共に生きていきたい?』
『そのナイフが使われればお前は命を狙われても死ぬことがない。その代わりにこの国に帰ることも出来なくなるかもしれないけどいいか?』
ルカは愛情のない家族よりも従魔である氷晶鳥アルクを選んだ。
その結果がこれなのだ。
「でも……ここまでする必要があるのですか?」
「ん? ああ、この騒動がお前のせいだと思っているなら勘違いだぞ。この事態を引き起こしたのは俺自身の意思であり、お前を助け出したのはついでだ。お前が俺に助けを求めなくても同じことが起こっていただろうさ」
不安そうなルカに対してセイはそう答える。
そしてセイは口調を強めて更に言葉を続けた。
「ルカ。お前はアルクと共に生きたいと願った。そうだよな?」
「は、はい! それは間違いないです!」
「本当にその意思があるのなら、お前は俺に付いてくるべきだ」
「え? それってどういう―――」
「話は後だ。それよりも先に王都を脱出する。まだ近衛騎士たちに勝てる程は強くないからな」
セイはルカの言葉を一旦遮り、深淵竜に北へと向かうように指示を出す。深淵竜はすぐさま命令を実行し、翼を大きく広げて北に進路を取った。王都ムーラグリフは半径十数キロという広さであるため、深淵竜の速度を以てしても五分は掛かる。まずは逃げることを優先しなくてはならないのである。
セイはルカの周囲に《障壁》を張り、風よけを作っておいた。時速百五十キロを超える速度で飛行する深淵竜の背中は体感温度にしてマイナス二十度を軽く下回る。魔力体であるセイは問題ないが、あくまでも人間のルカには耐え切れないのだ。
(深淵竜。このまま行くと王都を半球状に守っている大結界にぶつかるはずだから、それに向かって全力のブレスを使ってくれ。大結界の強度を測りたい。壊せなかったら俺が破壊するから気負わずにやってくれ)
『是』
深淵竜は全力で飛翔する傍ら、口元に魔力を溜めて極大圧縮をかける。すぐに高密度になった魔素が激しい魔力光を放ち、夜の上空で美しく輝く。
そして視界の先に王都を囲む大城壁と大結界が見えたとき、深淵竜は全力のブレスを解放したのだった。
青白く輝く破壊の光線は音速の二倍を突破して大結界にぶつかり、ブレスと結界の魔素が干渉を起こして一層激しい魔力光を放ち続ける。まだ貴族区付近の騒ぎが伝わっていなかった北城壁の区域でも、この昼間のように明るく輝く魔力光で異変を感じ始めていた。
だがその元凶である深淵竜は漆黒の竜王鱗を闇に紛れさせつつ、高速で通り過ぎて大結界へと接近し続ける。発生する衝撃波が街に及ぼしている被害などまるで考えていない悪魔のような所業だが、セイにとってはそんなことよりブレスが大結界を破れるかの方が重要だった。
そして結果としては不可能。
最大威力のブレスでも大結界はヒビを入れることすら出来なかった。
(さすがは魔力核だな。ドラゴンのブレスでも破壊できないか。まぁ、俺も氷竜王のブレスを防げていたし、当然と言えば当然だな)
セイも大結界が破れなかったからと言っても落胆することはない。
深淵竜に破れないならば自分で破れば良いだけの話だからである。
高速で大結界へと近づく中、セイはアビスによる思考リンクに意識を落として大演算を実行し、大結界を破るために魔力を掌握する。そしてセイは無造作に右手を前に突き出し、虚空を軽く握りつぶした。
その瞬間に大結界は甲高い音を立てて崩壊する。
それもこれまでのような一部を解除するだけでなく、王都ムーラグリフを覆う大結界を全て、完全に、完膚なきまでに破壊したのだ。
深淵竜は破壊された大結界を素通りしてそのまま北を目指す。
「これで嫌がらせも完璧だな!」
セイは背後で小さくなっていく王都を眺めつつそんな言葉を呟いた。
深淵竜による貴族区の破壊。
ドラグーンの大暴走。
王都を守る大結界の破壊。
どれか一つでも大事件だが、魔王セイにとっては嫌がらせの意味しか持っていなかった。王都ムーラグリフはただの嫌がらせで大混乱へと陥り、霊峰攻略戦に続く悪夢としてアルギル騎士王国の歴史に刻まれることになる。