26話
日が沈んで幾らか経った頃、少年ルカは既に帰宅して自室で本を読んでいた。だが、数秒ほど経てば本から目を離して机に置いていある魔宝珠へと目を向けてしまう。夜空の星のような美しい結晶が内部で煌めいており、濃密な魔力から発せられる魔力光で幻想的な美しさを演出している。そんな魔宝珠に目を奪われてしまうのは仕方のないことだろう。
正確には魔宝珠よりも完璧な結晶構造をしている魔晶珠なのだが……
「綺麗だね」
「キュイン?」
「アルクもそう思うでしょ?」
「キキュー」
従魔である氷晶鳥のアルクがバサバサと羽ばたいてルカの右肩に留まり、同意するように鳴く。言葉は通じないが、互いの意思は理解しているらしい。ルカはアルクが甘えてきているのだと察した。それに応じるようにしてルカがアルクを撫でると気持ちよさそうに鳴く。
「キュキュキィン!」
「ふふふ」
五歳の時からルカとアルクは共に成長してきた。
アルクが甘えてきたときはルカが可愛がり、ルカが落ち込んでいた時はアルクが慰める。本当に親友のような関係なのである。そして味方が一人もいないルカにとって、アルクが唯一の味方だった。
「ルキウス様。お食事の時間でございます」
突然ルカの部屋がノックされ、扉の向こう側から女性の声が聞こえてきた。思わずビクリと飛び跳ねたルカは少し躊躇いつつも返事をする。
「分かりました。すぐに出ます」
ルカは本を閉じて魔晶珠をポケットにしまい、座っていた椅子から立ち上がる。そして服の乱れを整えて皺も伸ばし、背をキッチリと伸ばした。アルクは邪魔にならないようにルカの右肩から机の上へと飛び移り、心配そうな顔つきで主を見つめる。
「大丈夫だよ。いつもの夕食なんだから。アルクも大人しく待っていてね」
「キュイ!」
「うん。出来るだけ早く戻るよ」
ルカはそう言って部屋を出る。
するとそこにはルカを呼んだ女性が立っていた。まだ背の低いルカには白をベースにしたロングスカートがまず目に入り、少し顔を上げると妙齢の女性が目に映る。黒髪を後ろで団子状にまとめた彼女の顔はどこか無機質であり、ルカと目が合うことで少しだけ眉を顰めた。
だが彼女はすぐに表情を戻して口を開く。
「ルキウス様。今日は父君と兄君もおられます。御二人は既に食堂にいらっしゃいますから急ぎましょう。よろしいですね?」
「はい」
「ではご案内いたします」
ルカをルキウス様と呼んだ彼女はこの家に使えているメイドの一人だ。ルカも名前を把握していないような者なのだが、そんな程度の身分でしかない彼女がルカに……ルキウスに向ける感情は嫌悪と侮蔑。そしてルキウスを案内しなくてはならないということに対する落胆だった。
こういった悪意に慣れているルキウスは彼女の向けてくる感情を理解している。だが九歳でしかないにもかかわらず、ルキウスはそれを受け流してメイドの案内に従って歩いていた。
無駄に広い邸宅のせいでかなり廊下を歩かされる。敷き詰めてある絨毯のお陰で負担にはならないが、この空気だけは苦痛で仕方がなかった。ルカはポケットに入れた魔晶珠の膨らみに触れることで心を落ち着けることにする。今日会った楽しい時間を思い出して早く食堂へと辿り着くように願うのだった。
そんな内心を表面に出すことなく廊下を歩き続けたルキウスの前に大きな扉が現れる。
竜の装飾が施された逸品であり、これだけで一つの財だと自慢できるものだ。だがルキウスにとっては毎日見慣れた扉であり、今更感動することはない。寧ろこの先で待っている父と兄のことを考えると今すぐにでも逃げ帰りたい思いだった。
だがルキウスに逃げることは許されない。
「ルキウス様。では私はこれで失礼します」
ルキウスをここまで案内してきた妙齢のメイドは一礼をしてから扉の両側に控える二人のメイドへと軽い目配せをする。そして妙齢のメイドは来た道を戻っていったのだった。
そして扉の両側に立っていたメイドはタイミングを合わせて同時に扉を開く。するとその扉の奥には眩しいほどの光と共に出来れば会いたくない顔ぶれが揃っていた。
だがルキウスは迷うことなく部屋へと入っていく。
「来たかルカよ」
「はい。遅れて申し訳ありません父上」
「そうだな。出来損ないの分際で私たちを待たせるとは」
キリリと胸が締まり、ルキウスは足を止める。だがどうにか再び動き出していつもの自分の席へと歩みを進めた。
席に近づくとメイドが椅子を引いて着席を促す。やはり豪華で良い香りのする椅子なのだが、ルキウスにはそんなことを思う余裕などない。重くのしかかる食堂の空気は九歳には重すぎた。
それでもどうにか着席し、メイドが後ろからナプキンをかける。
これでようやく食事の用意が整った。
「ルカも来たことだ。今日の晩餐を始めよう」
「そうですね。今夜はあなたがいますから好物のものを用意させましたの」
「ははは。そうかい嬉しいよシェリー」
「ええ、それに今日はジュリアスもいますからね。こうして夫と息子が同時に揃っている事なんてめったにありませんもの」
「そうだな。今日は非番だったのかジュリアス?」
この家の主、そしてルキウスの父であるロメリオが目を向けたのはスラリとした美青年だった。ルキウスとそっくりな白髪が照明を反射して艶を放っており、その顔は自信に満ちている。服装こそ食事のためにコーディネートされたものだが、彼の手は剣を握る者特有のタコが出来ていた。
「はい父上。ペルロイカ国王陛下の護衛は明日の夕刻まで非番となっています。それに霊峰攻略作戦から碌な休暇を取っていませんでしたから、一段落したので一度帰宅したのです」
「おおそうだったな。作戦の結果は残念だったが新しく魔王が確認されている。たしか―――」
「魔王アストラルでしたわね。婦人たちの間でも噂になっておりますわ」
「母上もよくご存じで。もう噂になっているのですね。僕としては不本意ですが……」
ジュリアスは肩を竦めつつそう言うが、悲観した表情ではない。彼にとって、正式な魔王の出現も問題となるに値しないのだ。
ジュリアス・アルコグリアス。
王国最強を集めた第五騎士団の副長を務める彼の実家、アルコグリアス家は代々に渡って氷属性を得意とし、強い騎士を輩出してきた名家の一つだ。当然ながら貴族であり、爵位は第五位階爵と呼ばれる地位になる。
このアルギル騎士王国では王をトップとして王以外の王族を第七位階爵、そしてそこから位が下がる度に数字が減っていき、一番身分の低い貴族で第一位階爵ということになる。つまり貴族の地位としてもアルコグリアス家は高位の貴族だと認識されているのだ。
そしてジュリアスはアルコグリアス家の得意とする属性ではない嵐属性を持っていたのだが、その才能と努力のお陰で僅か十五歳の若さで第五騎士団に抜擢されることになる。そして十九歳となった現在では副長を任され、さらに婚約者もいるという順風満帆な人生を送っているのだ。
「魔王については食後にまた話しましょう。それよりも夕食を始めませんか? 僕は先程から鼻をくすぐる香りのせいで我慢が出来そうにありません」
「それもそうだ。今日は私の好物もあるということだからな」
「そうですね。ではいただきましょう」
そうしてようやく食事が始まる。
席に着いてから居ない者のように扱われていたルキウスもようやくスプーンを手に取り、先ずはスープへと手を付けた。少しでもマナーを乱せば叱咤と嫌味の嵐が飛んでくることになるので細心の注意を払って食事を進めていく。
ルキウスにとっては護衛もなく外で遊ぶよりも注意をしなければならないので一苦労だ。
そしてどうにかデザートまで食べきり、ルキウスが安堵したところで再び会話が始まる。
「ジュリアス。お前は魔王と戦ったのだろう? どんな奴だったのだ?」
「そうですね。見た目は十六歳ほどの少年で、黒髪黒目が特徴的でしたね。顔つきもこの辺りでは見かけない東側の人種に近かったと思います」
「あら。でも別に珍しくもない特徴なのね? 私ったら凶悪な角でも生えていると思っていたわ」
「ははは。母上は物語を読み過ぎですよ。魔王とは魔力の精霊王の略称ですからね。高位精霊が人型をとっているのと同様で、姿に関しては魔王も人と変わりありません」
「うむ。たしかに小説は脚色のために魔王を凶悪な姿と描写していることも多いようだな。逆に美形にして魔王と王女の禁断の恋……などといった演劇があると聞いたこともある」
「ええ、その演劇でしたら公開されたばかりの時に魔王アストラルが出現して公開中止になりましたの。メリエンタット家のマリアリス様と見に行く予定でしたのに……残念でしたわ」
「マリアリス殿と言えばメリエンタット第三位階爵に嫁いだ君の友人だったね。だが仕方のないことだ。騎士が五千も殺害されたのだからね。印象のためにも自粛せざるを得ないさ」
魔王の出現よりも、それによって中止となった演劇を心配するシェリーだが、ロメリオもジュリアスも気にすることなく会話を続ける。五千人もの第一騎士団の犠牲者が出ているにもかかわらず、余裕を崩さないというのはある意味異常だ。
だが殺された騎士の多くは平民出身の者たちであり、高位の貴族であるアルコグリアス家の者たちにとっては犠牲となった大勢という認識でしかない。第一騎士団副長のアレイル・バーンこそ殺されたが、騎士団の中でも本当の強者である騎士団長クラスの実力者は一人も欠けていないのだ。その余裕も無理はない。
たとえ普通の騎士を倒せたとしても、王国を守る真なる騎士を破ることは不可能だと思っているのだ。それにアルギル騎士王国には最強の兵器の一種である竜殺剣も五本存在している。魔王など恐れるに足りないと思っているのだ。
「魔王のことはどうでもよいのですが……氷竜王の素材を手に入れることが出来なかったのは非常に残念でした。ここ最近は竜素材が減るばかりでしたからね」
「低位竜はどうなのだ? お前も騎獣としているのだろう?」
「そちらは貴重な空中戦力ですからね。余程のことがない限りは素材にしませんよ」
「本当に残念ですわね。私も氷竜王の竜鱗を使ったアクセサリーを期待していましたのに」
「それは申し訳ありません母上」
「謝ることはないわジュリアス。あなたが帰ってきてくれただけでも私は嬉しいもの」
「そうだぞジュリアス。任務には失敗したかもしれんが生きていてこそ失敗は取り返せる。それにアルコグリアス家もお前がいなければ未来が潰えてしまうからな」
チクチクと棘が刺さるような思いをしつつ会話を黙って聞きつづけるルキウス。まるで会話に参加することすらも許されていないように感じる。いや、事実として許されていないのだ。
ルキウスはアルコグリアス家の次男という立場でありながら家族として認められてはいない。貴族としての体裁上、高度な教育とそれなりの生活はさせている。だが家族だけでなく、使用人であるメイドからさえも忌み嫌われているというのがルキウスの状況だった。
(早く部屋に帰ってアルクに会いたいな……)
そんなことを考えているルキウスだが、実はアルクこそがルキウスが忌み嫌われ、出来損ないと呼ばれるようになった原因でもある。
氷属性を得意とするアルコグリアス家は当主になる条件として強力な氷属性の魔術を扱えるというものがある。もちろんそれだけが判断基準になる訳ではないが、大きな条件の一つには違いなかった。それにアルコグリアス家は氷属性に優れているという伝統があるので、嵐属性を持って生まれてきたジュリアスには大きな落胆があったことに違いはない。
だがジュリアスの弟として生まれたルキウスには強大な氷属性魔力があると分かった。今でこそ魔法一つ使えないルキウスだが、生まれた当初は歴代最高の氷属性使いになるとまで称えられたほどだったのである。
これを喜んだのは父親でありアルコグリアス家当主であるロメリオだった。ルキウスには高度な教育を受けさせ、さらに高位の貴族の嗜みと呼ばれる従魔を与えることにした。魔力がある程度安定する五歳になったとき、ルキウスに魔力核を使った従魔創造を行わせたのである。
だが結果としてはそれが失敗だったと言わざるを得ないだろう。
ルキウスは新種である氷晶鳥を生み出した。氷属性を操る従魔であり、アルコグリアス家に相応しい美しい従魔だった。だがその代償としてルキウスは魔力の殆どを失ってしまったのである。
ロメリオがルキウスに求めていた期待は重すぎた。その重圧を受け続けたルキウスは楽になりたいと願ってしまい、それが魔力核へと反映されて魔力を殆ど消費して氷晶鳥を生み出す結果となったのである。
これにはロメリオも失望せざるを得なかった。
そして手のひらを返したかのようにルキウスを冷たく扱い始める。貴族界でも神童と呼ばれていただけにルキウスの魔力消失は決定的なアルコグリアス家の恥となったからだ。
さらに強力な氷属性を持っていたルキウスに対してコンプレックスを懐いていた兄のジュリアスも同様に冷たく扱い、嘲笑うようになる。
そんな父と兄の態度は母親にも伝染し、果てには使用人までもがルキウスを腫物のように扱うように変化していったのだった。
だからこそルキウスにとって友達はアルクのみ。
味方と言えるのはアルクのみなのである。
(あのお兄さん。明日も公園にいるかな?)
ポケットの膨らみにある魔晶珠を密かに撫でつつセイのことを思い出す。
初めて対等に話してくれたセイのことはルキウスに好印象を与えた。黒髪黒目の黒ローブであり、顔つきもこの辺りでは珍しいものだったが、ルキウスはまた会いたいと思っていた。
(あれ? でもジュリアス兄上が言っていた魔王の風貌にそっくり……ううん。そんなはずないよね。魔王アストラルが王都にいるはずがないよ)
折角辿り着いた正解もルキウスは否定する。
いや、セイが魔王だと確信してもこのことを父や兄へと伝えたかと言えば否だろう。
ロメリオ、シェリー、ジュリアスは久しぶりの家族の歓談を楽しむ。そしてルキウスは明日もセイに会えることを望みつつ苦痛の時間を過ごしたのだった。
だからこの場にいる誰も気づくことはなかったのである。
窓の外から内部を観察している黒い鳥の姿に……
◆ ◆ ◆
「ルカ……あいつの弟だったのか」
遠く離れた場所で鳥型アビスを介しつつ監視をしていたのは魔王セイ=アストラル。まさにジュリアスたちが話していた人物である。
セイはルキウスと会うことは止めようかと考えたが、アビスを通して視た食事の風景はセイにその決断を踏みとどまらせていた。
「もう少しルカについて調べてみるか。念のためアビスの監視は付けたままにしておこう。他のアビスたちも貴族を中心にして噂の類を集めてみてくれ」
『是』
今夜も魔王は暗躍する。
誰にも気づかれないように、ひっそり、ひっそりと……




