2話
暗い……暗い……
水の底から引き上げられるような感覚。
それだけでなくどこからか水のような流れが感じ取れる。それは冷たい、そして周りよりも暗いものだとハッキリ感じ取れる。アレとは触れたくない。誰もがそう感じるほどに暗かったのだ。
しかし逃れることは出来ない。無情にもその流れに飲み込まれる。
『辛い』
初めに聞こえたのがその言葉だ。だがどこかで聞いた気がする。
平坦な声ではなく、恨みの籠った声でもなく、本当に苦しんでいる声。
聞くだけでも嫌になる。
『寒い、痛い―――』
暗い流れに晒されていると自分も同じ気持ちになる。はやく終わって欲しいが、いつになれば終わるのかはサッパリわからない。
『辛い』
『寒い』
『痛い』
『辛い辛い』
『寒い寒い』
『痛い痛い』
『辛い辛い辛い』
『寒い寒い寒い』
『痛い痛い痛い』
苦しみの声は強くなり、耳を塞ぎたくなる。いや、耳を塞いだところで意味はないだろう。この声は頭の中に響くようにして聞こえているからだ。
もう嫌だと思って叫ぼうとしても口は開かない。ひたすら苦しんでいる声を聞かされる。
これ以上は……と思ったとき、ようやく暗くて冷たい流れは通り抜けていった。
『もう……出たいよ』
そう、最後に残して。
◆ ◆ ◆
「あ〜、体が痛い」
そう言って目を覚ましたのは黒髪の少年。フワリとした髪が風に靡いており、周囲の白が丁度良いコントラストになっている。よく見れば茶色が混じっているのだが、こうして真っ白な地面に置かれれば気にならない。
「って白?」
少年はそう言って起き上がる。
見渡せば一面に広がる雪景色……と広大な風景。どうやら山の頂上付近にいるらしく、周囲には氷の柱のようなものまであった。少年は状況を確認しつつ氷の柱の前へと立つ。
鏡のような氷はその少年の姿を歪み一つなく映し出していた。
「俺……だよな。この見た目、この声。間違いなく宮古 星だ」
どこからどう見ても十七年見知った自分の姿。星は氷の鏡の前に立ってポーズをとる。すると鏡の中の自分も同じように動いていた。イケメンというよりは守ってあげたくなるような儚げな顔立ちが笑みを浮かべる。
服装は高校の制服である濃紺ブレザーであり、赤いネクタイが特徴的だ。地域では赤ネクタイを見れば名門校の生徒だという目で見られたものである。ブレザーのボタンを外すと白シャツが、シャツのボタンを外せば洋服チェーン店で買ったティーシャツが見えた。
「どうなっている? なんで俺はここに?」
星は自分が高校生だったことは覚えているし、家族や友人関係まできっちり言葉にできる。しかし何があってここにいるのかが思い出せなかった。
「確か……将棋部の部屋を出てバイトに行って……」
親友の竜二との対局が長引いたためにバイトに遅刻しかけていたのは覚えている。急いで道を走り、最後の長信号で足止めを喰らったことも思い出せた。
そして何とか辿り着いてバイト先のコンビニに入ると―――
「ああ、そうだった。俺、撃たれたんだな」
全てを思い出して納得する星。確かに鉛玉は自分の心臓を撃ち抜いた感覚がある。痛みを感じる前に死ねたことは幸いだろう。もしかすると痛みは感じていて、記憶から消えているだけなのかもしれないが記憶があるよりはいい。
「つまりここは死後の世界。白銀の雪景色、それは澄み渡るような青。周りには鏡みたいな巨大な氷の柱がたくさん。寒さも感じないし、何より目の前にドラゴンが―――」
「どうかしたのか?」
星の目に飛び込んできたのは真っ白なドラゴン。翼を生やし、鱗に包まれた西洋竜だ。竜鱗も透き通るような白と青を組み合わせたような色であり、純白ではない。だが逆にその色合いが不思議な神聖さを醸し出していた。
だが問題はそこではない。
目の前に体長五十メートルを超える巨大生物がいる。そして竜が口を開いて間違いなく言葉を話していることだった。
「さすが死後の世界。言葉を話す竜までいるとはな……」
「何を言っている。いきなり私の領域に現れたから何かと思えば理解できないことを言っている」
「領域? 縄張りみたいなものか?」
既に死んでいるからか、星は怖気づくこともなく話しかける。この適応力の高さは異常ともいえるが、この場では何よりの能力だった。
そして白い竜はそんな星を見て面白そうに答えた。
「縄張り……確かにその言葉は近いかもしれない。正確に言えばこの場所は私が守っている竜脈点だ。別名では地脈ともいうエネルギーの流れ……これを管理し、調整するために住んでいる」
「へぇ、この山がね」
「この霊峰は竜脈が湧き出る特異点だ。この場所を上手く管理しなければ大地の存亡にすら関わってくることになる。だが逆に大地に豊穣の恵みを与えることも出来る」
そう言われてみれば神聖な雰囲気もする。そんな思いが星の心に沸いたのだった。管理によって大地が一変すると言われれば、日本のダムを思い浮かべる。治水によって水量を調整するイメージなのだろうと星は勝手に想像していた。
「それで結局、お前は何者なのだ? 私の領域に転移でもしてきたのか?」
「俺か? 俺はただの高校生……だったかな。死んじゃったけどね」
「コウコウセイというのは分からぬが……死んだというなら何故生きている?」
「何故? ここは死後の世界だろう? みんな死んでいるんじゃないのか?」
「死後の世界? 何を言っている」
どうにも会話が噛みあっていない二人……いや、一人と一匹。もしかしてと何か当たりをつけた白い竜は星に対して質問を始めた。
「お前はどこから来た?」
「日本だな。正確にはバイトのコンビニで死んだ」
「自分が何者か覚えているか?」
「もちろんだ。名前も歳も家族も言える。犬でも猫でもなく人間だったな」
「ふむ……」
白い竜は考え込むようにして翼を折りたたみ、そして雪の大地に横たわる。どうやらリラックスして考えたいらしく、星にも白い竜が力を抜いていることが理解できた。
一方の星も自分なりに考えを纏め始める。
(間違いなく死後の世界だろ。服装が死んだときのままだし、銃撃の傷はない。まぁ、心臓を貫かれる感覚は残ってるけどな……。それにこんな綺麗な場所にいるし、雪が降っているのに寒くもない。何より俺の目の前にドラゴンがいるしな)
強盗の現場に遭遇という非日常から一転……することなく再びの非日常。短い人生だったが、不思議と後悔はなかった。もちろん悔しさはあるが、あのときスマートフォンを強盗に投げつけてしまったことに後悔はない。そうしなければ辻がどうなっていたか分からないし、もし辻が撃たれていたら星は激しい後悔をしていたことだろう。
(辻先輩も色々優しかったしな。バイト終わりにカフェに連れて行ってくれたり、余ったとかいうチケットで映画とかにも連れて行ってもらったし、偶然もらったらしい遊園地のチケットで遊びに連れて行ってくれたのは記憶に新しい。うん、全ては恩返しってことで)
うんうんと頷いて納得した星と同時に白い竜も結論を出したらしい。二人は同時に顔を上げて視線を交わした。
そして白い竜は厳かな様子で口を開く。
「恐らくだが……お前は記憶を持ったまま転生したのではないか?」
「転生?」
「ああ。お前は一度死に、そして魔王として生まれ変わったのだよ」
「……は?」
当然のように、何事もなかったかのようにそう言い放つ白い竜。理解が追い付かない星はしばらくの間、茫然としながらポカンと口を開けていたのだった。