15話
魔王は……
二百年ぶりに出現した魔力の精霊王は既に覚悟を決めていた。
霊峰の真っ白な斜面に映える紅色。それはアビスによって屠られた騎士たちの血液である。吹き下ろす極寒の風によって匂いは吹き飛ぶ。だが普通の高校生ならば耐えられる景色とは言えない。
だが星は決めたのだ。
生き残るために……殺すと。
「これで二つ目だ……」
星は手に持った漆黒の巨大剣を元の大きさに戻しながら周囲を見渡す。《障壁》を足場にすることで上空に立っている星はアビスを足止めするために戦っていたアレイルの中隊を全て見ることが出来る。
彼らの表情は完全に固まっており、信じられないものを見たような目をしていた。
そんな彼らにも容赦なくアビスは襲い掛かる。
「ごぼっ……」
「がああああっ」
「ああああっ! 腕があああああ!」
「止めてくれ! 死にたくない死にたくない死にた―――」
「有り得ない! 何でこんな……」
「うわああああ!?」
「寄るな! 来るなァァァァッ!」
不定形のダークマター体であるアビスは時に触手のような腕を形成して騎士を絡めとり、時に硬化して剣のように振るい、動きを止めた騎士を仕留める。そこに容赦などなく、機械作業のように殺害を繰り返していた。
ゴブリン以下だったアビスがどうしてこれほど簡単に騎士を屠るほど強くなったか? 初期能力が最弱の代わりに成長率が異常だというのは確かな事実だが、一度でも死ねば鍛え直しであるため死ぬたびに強くなるようなハズはない。だがアビスは騎士に倒されようとも迷宮によって新たに生み出され、まるで死ぬ前の技術と知識を受け継いでいるかのように強化し続けていた。
「次だ……まとめて切り裂け!」
アレイルの中隊をアビスが蹂躙している間に星は手に持った漆黒の剣を巨大化して振るう。大質量を利用した破壊の一撃はドーム状に周囲を覆っている《障壁》によって発進することの出来ない飛行船を一気に切り裂いた。それも今回に限ってはまとめて三つ。
中に収容されていた騎士だけでなく、飛行船を運用するための船員も巨大剣によって深紅を散らした。運悪く巨大剣に直撃した者は即死であり、そうでなくとも崩壊する飛行船によって死亡、もしくは怪我をする。
飛行船が五つも破壊されたことでようやく他の飛行船も異常事態に気付いたらしい。いや、甲板で状況を観察していた者たちによって気付かれてはいたが、ようやくその情報が飛行船の内部まで伝達されたのだ。
このままでは星の巨大剣によって押しつぶされると判断したのか、他の飛行船からも既に搭乗していた騎士たちが次々と避難し始める。
「逃すか! 《魔物創造》!」
星は自らの内に秘められた莫大な魔力を放って《障壁》で囲まれた内部を満たしていく。自分以外の魔力を感知することが出来る星には水が溜まっていくように魔力が空間を充満していくのが感じ取れていた。
しかしそれだけでは終わらない。
空間を満たした魔力は一か所に集まって形を成し、黒く染まっていく。一か所と言っても、空間中の一点に集まっているわけではない。所々に魔力が集合して百以上の黒い物体を形成していたのである。
それは不安定な靄に近い存在から徐々に安定して不定形な物質となる。光の反射を許さないような漆黒とあらゆる性質に変化できるという能力。それを備えた星の魔物アビスである。
「行け! こいつらを喰らって強くなれ!」
星は創造した魔物に命令を下す。
そして魔王である星の命令に応えるようにしてアビスたちは近くの人物へと攻撃し始めた。慌てて飛行船から飛び出してきた騎士たちがアビスの能力に対応できず、鋼鉄へ変質したダークマター体が命を奪っていく。
魔王に下された命令は魔力を喰らって強くなること。
そしてそのための魔力は生物を殺すことで吸収できるとアビスたちは知っている。
魔物はどれほど知識や知恵を身に付けようとも魔王には逆らわず、その命令を遂行するために忠実に働き続ける。殺せと言われれば殺すし、死ねと言われれば死ぬ。そんな魔物が手加減や慈悲という選択肢を取るはずがない。
アビスは騎士を殺して魔力を吸収する。
戦うたびに技術を吸収していく。
圧倒的な成長率によって強くなる。
もっと多くの騎士を殺してさらに強くなる。
そして死んでも問題は無い。
新しく生まれた魔物は戦闘力こそ低いものの、知識や技術は引き継がれるのだ。
これこそが星が与えたアビスの特殊能力。
『思考リンク』である。
全てのアビスはこの能力によって思考が繋がっている。故に経験したことが全てのアビスに共有されているのだ。また生まれたばかりのアビスにも現在生存しているアビスから知識と技術がダウンロードされていくため、肉体の強さはリセットされても知識と技術は元のままなのだ。そして成長率極振りは伊達ではない。何度も殺されることによって生き残るための技術を習得し、騎士の剣と鎧から鋼鉄の性質を理解し、あっという間に強くなった。尤も、成長率極振りだけでは説明のつかない成長率ではあったが……
さらに思考リンクは記憶や技術だけを共有するものではない。並列接続コンピューターのように思考を繋げていき、スパコンにも匹敵するような演算力も手に入れているのである。鋼鉄の性質を理解したのもこの演算力ともう一つの副次的効果があってこそだった。
そのもう一つの副次的効果は星すらも予測できなかった効果である。なんと思考リンクは星にも適応されていたのだ。この並列思考ネットワークは星の持つ地球の知識を共有することになり、成長率極振りだけでは説明の出来ない成長を見せていたのである。
(《障壁》の外にいる強い騎士共は足止めでも構わない。その間に《障壁》内部の騎士を皆殺しにしてアビスたちは強化を進めろ。魔力核は霊峰の迷宮化を続行だ)
『是』
思考リンクのお陰か、念じるだけで全てのアビスに指示を与えることが出来る。もちろん思考リンクを切ることも可能だが、これほど便利なのだから今は切る必要はない。また不定形を設定したことで口を利く手段のないアビスが星に答えることの出来る唯一の手段でもあるため、アビスとしても星との思考リンクを切られるのは困るのだ。
そして思考リンクは魔力核にも影響を与えていた。思考リンクは魔力核とも接続可能だったのだ。やはり魔力核が魔王の分身体であると同時に、魔物の親でもあるからだろう。尤も、元から意思のない魔力核自体が思考をするという訳ではない。リンクを利用して演算領域を分け与え、疑似的なAIとして機能させているのだ。当然ながら星の意思を100%汲み取ってくれる。星の望むままに自動で迷宮を生成してくれているし、星が魔力核に触れずともアビスを創造できたのは思考リンクがあったからだ。
さらに魔力核は現在、霊峰全体を領域として支配している。それによって空間中の魔力分布すらも支配し、量子学的な存在確率の波動性を利用して位置情報を確率変数化させ、さらにハイゼンベルクの不確定性原理とコペンハーゲン解釈を利用した位置情報の特定による魔力体転移が可能なのだ。
魔力の精霊王は魔力体で構成されているが、より正確には粒子化した魔力である魔素と呼ばれるボーズ粒子とフェルミ粒子の中間のような物質が元になっている。ボーズ粒子とは力の相互作用に関連する粒子であり、重力子などがそうだと考えられている。そしてフェルミ粒子は陽子などの物質を構成する粒子を指している。魔素は魔法という現象を引き起こす力の源であり、さらに物質としても存在できることから二つの中間のような性質なのだ。
その魔素は非常に微小な存在であり、量子学的な振る舞いが適応される。それは位置や運動が確率的波動としてランダムに変動することだ。この時に魔素の位置と運動は同時予測が不能であり、位置を特定すれば運動が分からなくなり、運動の様子を特定すれば位置が分からなくなる。二つが同時に定まらない状態を表してハイゼンベルクの不確定性原理と言っている。
そして魔力核は領域を支配することで魔素の運動を把握し、魔素それぞれの位置情報を確率変動するようにさせる。魔素で構成されている魔力の精霊王は位置情報が揺らぎ、一時的に観測不能となるのだ。そして確立収束によって位置情報を収束し、そこにいるという観測を行うことによって存在を確定させる。観測することで存在が確定されるコペンハーゲン解釈はここで利用されているのだ。
つまり、初めに魔力の精霊王が観測されていた場所の位置情報を揺るがせ、存在する位置を確率変数として処理し、別の場所で存在を観測することで再び存在を確定させる。これが魔力体転移の正体だ。
これら一連の作業を一瞬で行うことで瞬間移動のようなことが可能なのである。広い迷宮を管理する上では必須の能力だと言えた。
これらのアシストがあって星は大穴から転移して第一騎士団の裏をかき、こうして大部分の騎士を強者から引き離しつつもアビスを強化することに成功したのである。
「さてと……俺は厄介な船を破壊するか。深淵剣!」
新たに生み出したアビスに命令を下した星は右手に持った漆黒の剣を振るって飛行船を粉砕していく。もう分かっているだろうが、この漆黒の剣もアビスが形態変化と性質変化をすることで取っている状態の一つであり、鋼に性質を変えられることと姿形を自在に変えられる不定形生物の能力を利用して剣の形にしているのだ。巨大化するのも形態変化の一つである。
瞬間的に巨大化することで質量も増加し、慣性力の強化によって一撃で飛行船を両断する程の威力を出しているのだ。当然ながらこの深淵剣で殺した生物の魔力を吸収することが可能であるため、敵を屠る度に強くなっていくバグのような性能の武器となっている。もちろん星が命じれば剣の姿を解除して独立行動も取ってくれる。
そんな圧倒的で絶望的な魔王の力を見せつけられても第一騎士団副長であるアレイル・バーンだけは戦う意思を折られてはいなかった。
「魔王は飛行船の上空付近だ! 各員、魔法を以て魔王を地上に撃ち落とせ! 魔王とて無敵ではない。私たち第一騎士団の力を見せつけるのだ!」
『おおおおおお! アレイル副長に続けェ!』
やはりアレイルも副長の座に就くだけはあってカリスマ性を見せている。アレイルの声が聞こえなかった者や恐怖に負けた者は逃げ惑うばかりだったが、それでもアビスと戦っていない千人以上の騎士がアレイルの言葉に従って魔法を発動し始めた。
「《火炎砲》」
「《雷撃》」
「《氷華弾》」
「《邪流束》」
「《岩石砲》」
「《衝撃波》」
…………
……
…
第一騎士団に所属しているからと言って魔法が使えないわけではない。むしろ魔法も使えないようでは騎士団に配属されることはない。この世界で戦う者は必ずと言ってもよいほど魔法が使えるため、これは当然のことだと言えた。
さすがに魔法を専門とする第三騎士団には敵わないが、それでも実戦で通用するレベルではある。それが千以上も絶え間なく星へと殺到していた。
アレイルも副長だけあって魔王のことは知っている。魔力を制御することによって魔法を無効化することが出来ることも知識としてはあったし、第三騎士団の極大多重魔法が一瞬でも無効化されたのは目で見たところだ。しかし魔王が魔法を無効化し続けることが永遠には出来ないことも知っていたのだ。つまり絶え間なく魔法を撃ち続けることによって魔王の疲弊を誘い、さらに撃ち落として接近戦に持ち込もうとしたのである。
魔王自体の戦闘力は低いため、接近戦にさえ持ち込めばアレイルにも勝機はあるのだ。
基本属性、上位属性、そして中には特殊属性まで様々な魔法が星へと殺到し、その姿を埋め尽くすほどに密度の高い魔法攻撃となっていた。普通ならば避けきれない。そして即死クラスの集中攻撃ではあるが魔王は冷静に対処する。
「無駄だ」
星は魔力を制御して……より正確には魔素を制御して魔法を消し去る。魔法という現象は魔素によって捻じ曲げられた現実だとも考えることが出来るため、その魔素の制御を奪い取れば魔法を消すなど容易いことなのだ。
さすがに魔法自体の制御を奪い取るのは無理だが、やはり魔王には魔法が通じないのである。
さらに魔法を使わせることによって星には別のメリットがあった。
「《魔物創造》!」
騎士たちが魔力を消費したことで《障壁》で隔離された空間中に大量の魔素が充満し、さらなる魔物の生成の材料となったのである。千人分の魔法によって拡散した魔力は膨大であり、アビスを再び百体ほど創造することができた。
しかも創造自体は魔力核に演算領域を貸し出して委託することで代行可能だ。つまり星はそれほど集中することなく、次々と放たれる魔法を無効化しながら空間中に増え続ける魔力を使ってアビスを生成し続けることが出来たのである。
まさに騎士たちにとっての悪循環。
だが彼らはそれに気づくことなく魔法を放ち続ける。
全て無効化されて魔力が満ちていく。
それを材料としてアビスを生成する。
それによって思考リンクが拡張され、演算領域も急増する。
集中が必要な魔法の無効化も増えた思考リンクによって補われ、星が疲れることはない。
だがそんなことは知らない騎士たちはアレイルの判断を信じて魔法を放ち続ける。どれほどアビスが増えて犠牲者が出ようとも放ち続ける。
それが騎士団の全滅を加速させているとも知らずに……
これが分からなかったアレイルと騎士たちは既に詰んでいたのである。
魔法を使い続ければアビスを増加させる結果となって全滅。魔法を使わなくても魔王に攻撃が届かないので深淵剣によって全滅。
これが星の頭脳によって弾き出された詰将棋の手順だった。